第81話 『なるほど、天才だね。だけど大村には君以上の者は3人居るし、君くらいの者は両手で足りないくらい、いるよ』(1847/1/1)

 弘化三年十一月二十五日(1847/1/11) 信濃松代藩 産物会所


「おお、そうだ。これであれば遜色あるまい」


 身長180cmはあろうかという一人の大男が、職人が持ってきたガラスの器を手に取り、満足そうにうなずいている。その男が傍らの机に置いているのは、オランダ語の『シュメール百科全書』だ。


 棚には百科事典が16冊ならんでいる。


 この男、藩から40両を借りて購入したのだ。辞典一冊が二両二分というのは、相当高価な品である。一文が30円(様々な物価の平均)と考えても、一冊819,000円である。


 藩に殖産興業の建言をして、西洋の文物から学び、藩の財政を潤そうとやっているのだ。


「しかしまだ問題があるな、和蘭製のギヤマン(ガラス・グラス)は数年経ってもヒビが入らないと聞くが、これはどうだろう……」


 などとブツブツ言いながら読んでいる。


 松代藩領内の殖産興業の意見書として、『くつ野地方における興利袪弊こうりきょへい(弊害を除去して利を興すこと)意見書』を提出したこの男は、様々な政策を提案していた。



 


 ・小河原村は水利(水運や灌漑かんがい等)にて殖産可ではあるが、なおも詳細な調査が必要。しかし利がでたならば、多くの益が見込める。


 ・山々には鉄鉱石あり。焼炭(炭を焼く・その仕事)にてあまり利がないのであれば、鉄鉱山として使うのがいいでしょう。


 ・緑礬りょくばんは今まで通りですが、明礬みょうばんもさらなる増産に努めたい。


 ・緑礬が多くとれるので油を精製して、江戸の商人と調整して販売するように。村人によれば炭や薪はあまり役に立たないとのこと。


 ・ポットアス(カリ)について。今まで大木を伐採して利用していたのは枝の部分だけで、本木は放置状態であった。この本木を使ってカリを作れば、相当の利益になる。


 ・諸外国においてはジャガイモを主食としている国もあり、これを栽培して食料とするべし。


 その他、多数の建言を行い精力的に働いている、ように、見えた。





「御免候! 御免候!」


 次郎は江戸への参府が終わり、藩主純顕の許しを得て、ある男に会うために信州松代藩へ来ていたのだ。江戸に着いたのが十日前の十五日である。


「なんだうるさい! わしは忙しいのだ。のう、そうであろう?」


「はは」


「約束のない者に会う暇はない、出直して来いと伝えてまいれ」


「はは」


 実際忙しかったのだが、本を読み返し、次に何を作るべきか、何を学ぶべきかを考えていたのだ。


「先生」


「なんだ?」


「あの……先生の知己の方と仰せの方なのですが……」


 男は頭をひねるが、いっこうに該当する人物が出てこない。


 この男は直言が過ぎて友人が少ない。人とはどんどん会うのだが、その瞬間に自分に有益な人間かそうでないかを見極めていたのだ。


「知己? 知己とな? ……まあよい。連れてまいれ」


 ははっと使用人は返事をして、門前の次郎を呼びに行った。





「長い長い長い! 象山殿、長うござるぞ。こちらも暇ではないのだから、無駄な時は過ごしとうないのだ」


「あ!」


 象山が素っ頓狂な声をあげた。そしてその次の瞬間、『赤の他人じゃ』という声が聞こえた。


「象山殿、それはあまりにつれないではないか。ああそうそう。あれはいかがでござったか。天保十三年の末、海防八策として建言したのでござろう?」


 次郎は知っていた。


 歴史上の知識で知っていたのだ。あまりに革新的すぎるその考えは、日の目を見ることなくお蔵入りとなっていた。


「あれは……○△□::、、……じゃ」


「そうでしょう、そうでしょうとも。象山殿の革新的なお考えを理解できる者など、そうそうおりませぬ。藩主様も象山殿の英邁えいまいさを理解してはいたものの、幕閣には受け容れられぬと考えたのでしょう」


 革新的な……という言葉で象山がニヤリと笑い、受け容れられぬ、という言葉で苛立っているのがわかった。


「前置きは良いのです。それがしも多忙の身、御用向きはなんでござるか?」


 ハッと我に返った象山は居住まいを正し、次郎に正対した。


「これです」


 次郎は持参していたコップと、切り子を思わせるような鮮やかなグラスを象山に渡して見せた。


「こ、これはギヤマンではありませぬか! これはいかにして……」


「ああ、ギヤマンですか。大村ではこの素材をガラス、そしてこの器をグラスと呼んでおります」


 次郎はガラスの量産がすでに大村では始まっており、藩外へ輸出するのも間近だと話した。実際にはまだだ。技術的には可能だが、量産化にはいたっていない。


「……」


「それからこれを」


 そういって次郎は象山に、鉛筆を1ダースと鏡を渡した。


「鉛筆と鏡です。黒鉛ではなく炭をつかっておりますゆえ、やわらかいですが、それはそれで味がございますぞ。鏡も……今の日本にはないものゆえ、象山殿ほどの方が持つのにふさわしい」


 象山は鉛筆と鏡をまじまじと見て深呼吸をし、ストンと腰を下ろして答えた。


「これらは大村藩で作られているものなのですか?」


「いかにも」


「それはいかにして、いかにして学んだのですか?」


 次郎は思った。よし来た、よし来た、と。


「無論和蘭の書籍からにござる。わが大村藩は長崎に近く、奉行や会所調役とも昵懇じっこんにしておりますゆえ、手に入れやすいのです。少々値ははりますが、十冊や二十冊ではござりませぬぞ。ふふふふふ……」


 一息ついた象山が言った。


「この鉛筆は、炭と粘土を混ぜて焼き上げ、木で薄く覆ったものでしょう? こちらの鏡は、ガラスに……なんらかの金属を溶かしたものを塗りあわせたものにござろうか?」


「さよう。まさに天才、麒麟きりん児にございますね。されど大村には象山どの以上の者は三人居ますし、過去に神童と呼ばれた者は、両手で足りないくらい、居りまする」


 象山の顔が引きつった。褒めてけなして、いったいこの男は何が言いたい? 何がしたいのか? そう思ったのだ。


 次郎は象山より年下である。


「それで……太田和様、それがしに何をお望みなのですか?」


「……望み、そうですね。望みというよりも、惜しいのです。象山殿ほどの人材は、そうそうおりませぬ。藩主である真田一誠斎様は英邁な方なれど、残念ながら藩内においてにございます」


 さっきと言っている事が逆だぞ、と思いながら、象山は考えた。


 確かに、事実である。あくまで、藩内の事なのだ。


「大村ならば、象山殿の求めるものが、全てありますぞ」


「なにい! ?」


 怒鳴るとも叫ぶとも形容しがたい、中途半端な声を象山はあげた。

 

 江戸でも京都でも大阪でも、長崎でもなく、大村なのだ。


 ぶつぶつぶつぶつ……。


 ブツブツブツブツ……。


 象山はなにかを自問自答しながら考え込んでいる。


 次郎はそれを見て笑ってしまった。自分に似ているな、と。信之介や一之進にも似ているかもしれない。


「あああ! もう面倒だ! そこまで言うなら行きますよ! 行ってやる! その代わり、このわしが満足しないなら何としますか!」


 象山はとうとう根負けした。


 いや、根負けというのは正しくはない。


 興味が抑えられないのか、それとも自分の能力を馬鹿にされたのが悔しく、憤っているのか。いずれにしても、沸き起こる感情を抑えられないのは確かである。


「ああ。そのときは何でもいたしましょう。研究の資金が必要なら、いくらでも用立てますよ」


 明らかに誇大広告のような発言だが、高野長英を赦免した時の費用に比べれば、このイニシャルコストを大砲製造のランニングコストと考えても、高くはない


「誠にございますな! 武士に二言はないでしょうね!」


「無論の事。違えた時には腹を切ります! されど! 象山殿が満足しても、満足しておらぬと言ったならば、なんといたしますか?」


「それはあり得ませぬ! それこそ武士に二言はございませぬ!」


 実際には象山の気持ちを測るのは不可能だ。


 明らかにそう見えても、象山自身がそうではないと言えば、それまでである。


 対して次郎の約束は明白だ。象山がくだらないと言った場合、その事実に対して対価を払わない時点で、約束を破った事になるからである。


 しかし、次郎には確信があった。


 象山が我慢できるはずがない。オランダの百科事典を、借金してまで購入した知識欲と好奇心の塊なのだ。象山は嘉永になって大砲を鋳造するが、それは青銅砲である。


 大村藩ではすでに何年も前に青銅砲を鋳造して演習もしている。鋳鉄砲(鉄製砲)も破裂はしているものの、装薬量を調整すれば発射可能なのだ。


 西洋式帆船など見たこともないであろうし、実用化しているガス灯など皆無だ。


 どんな原理でこうなるのか? 何を材料にしているのか? これを作るのにはどんな学問が必要なのか?


 我慢できるはずがない。


 最悪な事が起きたとしても、幕府に何らかの嫌疑をかけられるような事はしていない。象山が松代藩に帰ったところで、江戸にいようが大坂にいようが、太刀打ちできないのだ。


 それに象山が吹聴してまわったところで、あの蘭癖がまた訳のわからぬ事を吹いておる、程度にしか認識されないだろう。


「まあよいでしょう。ではよろしいですか、象山殿。いざ西へ」



 


 一回り近く年の離れた次郎と象山であったが、次郎は象山の能力が必要だと感じていた。


 要は適材適所である。人前に出す事はせず、研究畑一筋でやってもらえば、何の問題もないと思ったのだ。


 象山もまた、得体の知れない次郎の知識に興味がわいて仕方がなかった。


 結局象山は、前老中で藩主である真田幸貫を説得するのに時間がかかったものの、次郎が大村に戻る際に同行するのである。





 次回 第82話 『養豚、養鶏、養殖、鉱山……動植物と鉱山系。お里の本業はこれなんです』 

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