第79話 『藩主純の病気と隠居・後継者問題』(1846/9/16) 

 弘化三年七月二十六日(1846/9/16) 玖島くしま


「一体誰だ! 誰がそのような事を申しているのだ! いや、誰だはこの際いい。いかなる事を申しておるのじゃ!」


 次郎が大村へ帰藩後、城内にて発した第一声がこれである。


 この頃になると序列はあるものの、藩論は純あき=次郎という構図で成り立っていた。


『尊皇佐幕』の『未来攘夷じょうい』である。幕府を助け、皇室を尊びながら開国して力をつけ、外国の脅威に対抗する。


 格外とは言え家老の身分となり、藩の財政から殖産政策、軍備や外交まで、ほぼすべてが次郎を通して上意下達され、また下意上達されていたのだ。


 最初は次郎の事を苦々しく思っていた反次郎派の家老や城詰めの者達も、次郎のかざらない性格と、それでいて序列を考慮する言動に、徐々に親近感を覚えていたのである。


 もちろん、行う政策の全てが成果を出していた事は言うまでもない。





言路洞開げんろとうかい


 これが純顕が藩主になってから掲げた第一の通達であった。建言の自由。すなわち身分の貴賤きせんを問わず、誰でも藩政に対する建言ができるという物である。


 もちろん、全員が完全に納得できる事などそうそうない。

 

 多数決がベストなのかは別だが、大多数の益を考え、反対意見にも耳を傾けてどうバランスをとるか? という事だ。


 しかし藩主の隠居など、藩論どころか藩の存亡や領民の生活そのものに関わってくる、一大事である。簡単に論じて決していいわけがない。


 そして下世話な話をすれば、弟君である純ひろとは面識はあっても江戸住まいで、今の藩主である純顕ほど親密ではない。いつ何時罷免されるかわからないのだ。


 隠れ反次郎派の誰かの仕業か? もしくは本当に藩を憂えての事なのだろうか?





「落ち着きなされ、次郎どの。なにも藩を転覆させようなどと、そのような考えではござらぬ」


「いかなる事を申しておるのですか?」


 ふむう、と頭をかいて答えるのは手紙の主である、一門御両家の片方である大村彦次郎友彰である。今は藩主である純顕による偏諱へんきで顕朝と名乗っている。


「うむ、まずは殿のお体の事だ。宿疾しゅくしつ(持病)というのは以前からさじ医に聞いておった。俊達どのも、殿が幼少のみぎり(時)にあわや命を落とされる事になった際は、その元が回虫と判じて虫下しで難を逃れたと言っておった」


 純顕はもともと身体虚弱で、回虫によって衰弱していたのだ。


「ううむ」


「それで、その有り様でこの国難に処す事が能うのか、と」


「それはそれ、これはこれではないですか。何も寝たきりで、物事の良し悪しも判ぜぬほど弱っておられる訳ではない」


「その通り」


 顕朝は困った顔をする。しかしどうやら、その原因は隠居論者の言い分ではないらしい。


「? 彦次郎殿、他に何を言っているのですか?」


「……言い難き事ではあるが、今の御公儀のやり方では、日ノ本は立ちゆかぬと申しておる。フェートン号で打払い、アヘン戦争で薪水配れと二転三転。そのくせ藩には重き責のみ負わせている。大船の建造の禁も解かずに、外様には参政の権もない。これでいかにして国を守れというのだ、と」


 ……幕府は、何もやっていない訳ではない。


 昨年、オランダ国王への返書には、開国は祖法に反するゆえできぬが、国力を増強させるための助力は求めると書いている。


 それがオランダ側にどう伝わったかは分からないが、オランダとしても失いつつある(失っている)東アジアの勢力を、日本との交易によって保ちたいという思わくはあるだろう。


 その返書をオランダに送るのと同時に、長崎奉行ならびに警備の佐賀藩と福岡藩、長崎聞役の定詰の熊本藩・対馬藩・平戸藩・小倉藩、そして大村藩の3藩に通達したのだ。


 オランダの交易船の上限を撤廃するため、出島の拡張をせよ、と。


 管理貿易ではあるが、今よりも自由度を増して技術の革新を図るべし、との伝達があったのだ。大村藩は海防の観点から人員を増やして常に詰めていた。


 そのため表向きは夏詰め(オランダ船来航中の6~9月)ではあったが、実際に年間を通して詰めており(第24話)、定詰の組合にも入っていたのだ。


 その他の定詰である熊本藩・対馬藩・平戸藩・小倉藩は通達を受けたものの、藩に直接の利益を及ぼさないこの事業には、乗り気ではなかった。


 福岡藩と佐賀藩は負担が増える事に良い顔をしなかったが、その穴埋め分を大村藩が請け負うことで納得した。

 

 幕府には表向き定詰の6藩と、夏詰めの大村藩7藩が負担するように見せれば良いのだ。


 幕府にしても内訳がどうこうより、実際に出島の拡張が行われ、統制の下に交易量が増えて海防につながる事を重要視していた。


 結果的に、幕府とその7藩(事実上は3藩)に交易権が与えられたのだが、自由貿易とはいっても、国防に関わる事に限定される。その辺りの審査は長崎奉行に一任された。


 そして長崎奉行と大村藩は昵懇じっこん(ズブズブ)なのだ。


 あわせてその為であれば、技術者の招聘しょうへいも可となった。


 これは驚くべき事であり、史実を塗り替える出来事である。ペリーの来航まであと7年ではあったが、大村藩にとっては僥倖ぎょうこうとも言うべき幕府の英断であった。


 ビドル艦隊の来航の際の弱腰外交に、強烈な突き上げ(野党?)があったのだろうか。


 しかし蘭癖大名として知られる佐賀藩の鍋島直正と、福岡藩の黒田長ひろにこの権利が渡ったのは、次郎にとって良い事だったのか……それが判明するのはまだ先の話だ。




「彦次郎殿。その儀は……それは、まあ、一理なくも、ないと存ずる。他には?」


「他にはござらぬ。ただ……」


「ただ?」


「ただ、首謀者が……九左衛門、針尾九左衛門なのです」


「なんですと! その、九左衛門殿は、貴殿の姉の婿、義兄ではありませぬか」


「左様。肉親の情がわかぬか、と言えば嘘になる。それゆえ、この儀の重しもあるが、貴殿に戻ってきてもらったのだ」





 ……参ったな、と思う次郎であった。





 ■七月十七日 大砲鋳造方


 14回目の操業でできた8 ポンド砲の穿孔せんこう作業が完了した。5月以降に雨が降らず、水位が下がって水車が動かなかった。穿孔作業が数ヶ月間停止したのはその為である。


 ■七月二十六日


 15回目の操業でできた36 ポンド砲の廃頭を切断した。3台のすい台のうち2 台がようやく完成した。





 次回 第80回 『勤王藩士、針尾九左衛門と純顕の病状』

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