第50話 『医学方の設立と天保十三年のオランダ風説書』(1842/3/16)

 天保十三年二月五日(1842/3/16) <長与俊達>


 その男(一之進)の怪しげな術(緊急気管切開術)により一命をとりとめた殿(純顕すみあき)は、呼吸が回復した後に箝口かんこう令を敷いた。


 殿にとってみればその妖術も、命を救ってくれた神のような施術に等しい。驚嘆し、その感謝の意ともとれるのだが、それだけではなかった。


 聞けば一之進は、六年前の天保七年に突如として次郎や信之介の目の前に現れた、身元不明の男だというではないか。

 

 そのような者が殿の体に触れ、あまつさえ診察し治療するなどあり得ぬ話だ。


 御家老(次郎)からの願いとも聞いている。

 

 あまり目立つ事はしたくないようだ。それもそうだ、どこの馬の骨ともわからぬ輩が家老と匙医さじいの面前で殿の体に刃を入れたのだ。


 断じてあってよい話ではない。


 我が長与家は代々医術を生業としている。私は大村藩の匙医であり、この大村藩において私が知らぬ事などあってはならぬのだ。


 ……しかし、あの流れるような手さばきはなんだったのだ? 

 

 一切の躊躇ちゅうちょもなく次々に、まるで何度もやってきたかのような手つきで、刃物を喉にあてて切り開いた。


 その後背を叩き腹を押さえ、異物を取りだしたのだ。


 あのような手技は……見たことも聞いた事もない。


 いや、正しくは……文献にて神代の昔、遠く西の国で喉を切り裂く術があったと聞く。

 

 しかしその効果は疑わしく、どのような症例にどのような施術をもって行うかなど、確たる術はできあがっておらなかったはずじゃ。


(※記録上最古はエジプトの宰相イムホテプ。1546年にイタリア人医師アントニオ・ムーサ・ブラサボラが実施。1833年のフランス人医師アルマン・トルーソーがジフテリア患者のために行い200人以上救った。しかしこの1546~1833年の約300年間で報告は28例のみ)


 近年、ヨーロッパにて多くの成功例があったとは聞いたが、この日本でそれを行った者などおらぬ。


 私もつぶさには知らぬし、この私が知らぬ事を、あのような者が知っていようはずがないのだ。


 尾上一之進、奴は一体何者なのだ?





 ■三月十五日(4/25) 玖島くしま


 一之進はこの一ヶ月半の間、純顕の予後観察と健康診断で定期的に次郎と一緒に登城していた。その際は頭巾をかぶり、身元がわからないようにしている。


 全員の思わくが一致しての事だが、当の一之進はむせるから嫌のようだ。だが、仕方がない。


 長与俊達は今では匙医のため自由に城に出入りできるのであるが、実は一度蟄居ちっきょ(自宅謹慎)になりそうなことがあった。

 

 かの有名なシーボルト事件である。


 関与が疑われて自宅捜索された際、大量のオランダ医学書が発見されたために、蟄居を命じられたのだ。


 生活に困窮し、娘婿の助けでなんとかしのいでいた頃、病気のために江戸から戻ってきた純顕(当時は世継ぎ)の病気を、適切なアドバイスを伝えて治している。


 俊達にはその自負があった。自分こそが、大村藩における『医』であると。


 だからなおさら、自分に対処できない事をやってのけた一之進に対して、嫉妬を覚えていたのだ。しかし同時に、いったいどれほどの技術と知識があるのかを、知りたくもなっていたのは事実である。





「一之進、おかげで助かった。あれ以後体の調子も良く、日中に具合が悪くなることもない。礼をいうぞ」


「ありがたきお言葉にございます。この一之進、一層精進いたします」


「ははは、面を上げよ。そう畏まるでない。そうだ、次郎よ」


「はは」


「この一之進の技、埋らせるのは惜しい。それゆえ相応の立場をもって召し抱えたいと思うがいかがじゃ?」


「か、一之進をでございますか?」


「そうじゃ。いかがだ?」


 次郎は一之進を見て、二人してうなずく。


「ありがたいお言葉なれど、一之進は医学には秀でておりますが、生来の出不精。また研究や患者と接する事は得意にございますが、一風変わった言動がございます。いつ何時周りの方々を不快にさせるやもしれませぬ」


 次郎は予想外の純顕の申し出に答えに困ったのだろう。とってつけたような理由で逃げようとしている。一之進やお里は、あまり面に出したくはないようだ。


 一之進はいわゆる引きこもり。


 いや、語弊があるので言い直そう。

 

 医学部を出た一線級の医師であり、論文は世界でも有名だ。しかし、この世界(時代)で外科手術を行ったのは純顕が2例目である。


 この6年間何をやっていたのかというと、専ら医学書の作成である。

 

 出島から取り寄せたオランダ語の医学書をお里に翻訳してもらい、自分の記憶とあわせて書き記したのだ。


 付け足したのではない。新たに作成したのだ。膨大な量である。

 

 もちろん3年前にペニシリンの研究に入る前からだ。研究に入ってからも、暇を見つけては行っていた。


 前世での専門は外科医であるが、外科と脳外科のダブルボードを取得している。


「……ふふふ。一風変わった言動とな。それを言うなら次郎、お主も十分変わっておるではないか。そのお主が言うのはおかしいのう。まあよい。俊達よ」


「はは」


 次郎と一之進の横に控えていた長与俊達が返事をする。

 

「かねてより進めておった医学方の件であるが、設立を許そうと思う。その方は頭取となれ。それから一之進を副頭取とするのじゃ」


「な!」


「いかがした?」


「おそれながら申し上げます。さきほど御家老様が仰せのように、一之進どのは不適切との事。その上で、なにゆえ副頭取などと仰せなのでしょうか」


「俊達もそう申すか。いや、なにも副頭取にして医学方の責任を押しつけるという訳ではない。あくまで形だけじゃ。一之進は今までと同じように次郎の屋敷に間借りしたままでも良いし、新たに屋敷を構えても良い。そこで好きな事をやるのじゃ」


「は、はあ……」


「それならば迷惑もかからぬし、何かの時、一之進の知恵を借りる事があるやもしれぬぞ。いやなに、お主の力を軽んじている訳ではない。有能な者が二人もおれば、よりよい治療法も見つかろうというものだ。いかがじゃ?」


「は。それならば……仰せの通りにいたします」


 いかがじゃ? と言われて断れる訳がない。懸念した言動によるトラブルがないようにされたのだ。もちろん副頭取という肩書きは外では言わない。





 こうして医学による文明開化の一端となる、大村藩医学方の開設となった。





 ■天保十三年七月


 昨年の嵐によって来航できなかったオランダ船が長崎に入港し、1840年4月から1842年3月頃までの情勢が伝えられた。


 イギリス艦隊の主力が到着し、広東河口を封鎖したのだ。その後艦隊は北上して舟山を占領し、天津に達して清国政府を圧迫した。

 

 この状況に動揺した政府は林則徐を罷免して、和睦交渉に入る。


 戦闘と交渉が繰り返されたが、イギリス軍の広東攻撃を機に和睦となり、イギリスは舟山を返還する代わりに香港を獲得したのだ。

  

 しかしその後、香港の割譲を容認しない道光帝が再度イギリス討伐を命じた。イギリス軍はすぐさま広東に上陸して制圧後、現在は沿岸の諸都市を攻撃しながら北上している。


「次郎よ、今後いかがあいなるであろうか」


「……おそらく、戦況はエゲレス優位のまま進むでしょう。そしておそらく、南京に迫った頃には清国はたまらず和睦を結ぶ事になるでしょう。それも屈辱的な和睦です。いわば条件付きの降伏にござる」


「やはり、清国は勝てぬか」


「勝てぬでしょう」


「……」





 幕府はこの風説書をもって異国船打払い令を廃止し、薪水給与令を復活させた。


 次回 第51話 『開明塾の授業と3度目の参勤交代』


 


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