第31話 『江川英龍の知己を得、鳥居耀蔵を排除しよう』

 天正九年十一月十七日(1839/1/2) 


 ……と次郎左衛門は言ったものの、排除など簡単にできるはずがない。


 鳥居耀蔵は今はまだその職にいない。


 水野忠邦が重用した幕閣だからだ。そうなると、現実的にできることは、揚げ足を取られないような言動と、証拠を残さないようにすること。


 英龍は来月行われる海防のための江戸湾巡視で、鳥居耀蔵と意見の食い違いで対立するのだ。


 その後渡辺崋山や高野長英などと親交を深める。しかしその渡辺崋山が中心となって海防意識を高める動きを見せると、蛮社の獄で華山は投獄されるのだ。


 英龍自身は水野忠邦に高く評価されていて、罪に問われなかったというのが通説となっている。


 いずれにしても、危ない橋は渡らせないに越した事はない。


 そしてなにより、次郎は領民に親しまれた英龍に会ってみたいというのが本音であった。





 ■韮山(静岡県伊豆の国市北部・旧韮山町)代官所


「おお、そうかそうか。では、その方の申し出は庄屋と吟味して考えるゆえ、短気を起こすでないぞ」


 次郎達一行が伊豆国(静岡県伊豆半島と伊豆諸島)に入ったのは江戸を発って4日目だったが、どうやら噂通り、江川英龍は領民思いの政治家らしい。


 各所から陳情をするために村人が行列をなしていたのだ。


 次郎は陳情が一段落してから話を聞こうと思っていたのだが、行列の中の1人が次郎に話しかけてきた。


「お侍さん方、どこから来なさったんですか? ここらじゃお見かけしませんが」


 人なつっこい表情のおじさんだ。


 よそ者を毛嫌いするわけでもなく、単純な好奇心で聞いているように見える。次郎達も旅装束という事もあって、侍特有の尊大な感じはさせていない。


「ああ、俺たちは江戸から、いや肥前から江戸に来て、そこからこの韮山に来たんだ」


 次郎もこういうやり取りは嫌いではない。


 実は前世の次郎は、人間があまり好きではなかった。こう書くと語弊があるかもしれないが、対人恐怖症や人間不信という極度のものではない。


 人間というのは千差万別で、考え方も行動も様々だ。


 営業職をやっていたから対人や接客が好きか? といえばそうではない。事情があって営業をやっていたに過ぎないのだ。


 そんな次郎が、この時代に転生してきて少しずつ変って、いや、だいぶ変った。


 スマホもネットもない時代。


 人間は1人では生きていけないとはよく言うが、この時代ならなおさらだ。田舎の人はおせっかいというか、人間味があるというか……。


 そういう付き合いを嫌う人もいるだろうが、人間関係が希薄になってきたという現代では、あったかい関係性なのだろう。


 田舎に限らず、そういう人だらけなのだ。この時代。


「ほええ! 肥前から! ん……そりゃどこにあるんでございますか? おい、矢治さん、この方達は肥前ってえとこから来なさったらしいぞ」


「なに、肥前? 肥前って言やあ……いや、わからん。どこにあるんでございますか?」


「……ええっとですね。うーんと、ああ、そうだ。お伊勢詣りは知ってますか?」


「もちろんでごぜえます。一生に一度は行ってみたいと思っておりやす。そのお伊勢さんと同じくらい遠くから来なさったんですか?」


「そのお伊勢さんよりも西の京都や大阪、それよりもさらに西の国です」


「へえー。なんだか良くわかりませんが、そんな遠いところからよく来なすったですね。それで、うちの代官様にどんな御用なんですか?」


 あーやっぱりお伊勢参りが一生に一度の大イベントの時代なんだな、と次郎は感じた。


 そういえば昭和の次郎の幼少期から、祖父が亡くなるまでの平成の間に、祖父が県外に出かけた事などなかった。


 家業が農業というのには関係なく、地元で全て事足りたのだ。生活圏が非常に狭かった。


 もちろん教育も受け、新聞やラジオ、テレビで情報はあっただろうが、この時代なら推して知るべしとも言える。


「うん、名代官と噂の江川殿にぜひ江戸に来たのでお会いしたいと思ってね」


「なるほど、さすがわが代官様じゃ」


 そんなやり取りをしている間に、次郎達は代官所の中に通され、陳情が終わるのを待った。


 史実の英龍は父である英穀ひでき(ふりがな不明)と同様に仁政に努め、二宮尊徳を招いて農地改良などを行っている。


 自ら倹約を実施して、殖産用の貸し付けや飢饉時の施しを積極的に行って、領民の信頼を得たのだ。





「初めてお目に掛かります。肥前大村藩士、太田和次郎左衛門と申します」


「お待たせしました。江川太郎左衛門にございます」


 大きな瞳に柔和な笑顔、そしてゆったりとした口調とたたずまいが、やさしそうな人格を物語っていた。次郎は続いて他の3人と従者の紹介をする。


「ほう、肥前から? この伊豆にお越しになるという事は、江戸になにか御用向きでもあったのですか?」


「お察しの通りにございます。我が主君の参府に同行して参りましたが、主君からのお役目は、江戸近郊にて知己を得よとの事でございます」


 英龍は少し驚いているようであったが、次郎の話を聞きながらその意図を探ろうとしていた。


「それはそれは、その知己を得よ、との人物にそれがしも入っているとは光栄にございますな。して、いかなる御用向きにございましょう」


 笑顔だ。


「では率直に申し上げます。昨今の海外の情勢に鑑みて、海防の要が高まっていくかと存じます。その際様々な人物が幕府のやり方に異を唱える事もでてくるやもしれませぬが、どうか御自重いただきたい」


 ? というのが英龍の心の内である。いったいこの肥前の若者は何を言いたいのだろうか?


 次郎としては鳥居耀蔵との対立を止めさせ、渡辺崋山や高野長英と親交を持ったとしても、その会には入らないように忠告したのだ。


「良くはわかりませぬが、遠き肥前よりのお客人、参考にいたすとしましょう。さあ、今日はもう夕暮れとなりましたゆえ、拙宅にてささやかな夕餉でも催しましょう」


 次郎はもう少し詳しく話をしたかったが、未来の事を詳細に、しかもそれとわからないように話すのは至難の業であった。





 次回 第32回 『何がどう転んで御家老様に?』(1839/06/12)

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