年表
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天保7年11月(1837年)
50歳の男性が、飲み会の後に記憶を失い、目を覚ますと幕末の大村藩の下級藩士・太田和次郎左衛門武秋(16~17歳)に転生していた。二日酔いのような頭痛に悩まされながらも、状況を把握していく。彼は既婚者で、生まれたばかりの子供がいる。妻の姿に驚くが、それは前世で好きだった女性にそっくりだったからである。混乱しながらも、大村純顕の家臣として玖島城へ行く準備をする。
天保7年12月: 玖島城へ出発。道中、前世の友人と瓜二つの山中信之介と出会う。彼は未来の夢を見るという。純顕に謁見し、藩の財政改革という重責を担うことに。石鹸製造で一儲けを企むが、灰汁の必要性に気付くなど試行錯誤。タイムスリップしてきた一之進とも出会う。運命的な出会いが続く。
天保8年1月: 石鹸製造に向け、材料と製法を徹底的に検討。櫨のロウソク製造という案も出るが、石鹸に絞り込む。藩主への献上品として石鹸を選び、販売戦略を練る。原価計算を行い、利益を見積もる。試行錯誤の末、クロモジ、樟脳、ミカンの香りをつけた試作品が完成。お里のアイデアが商品開発に貢献する。
天保8年2月: 石鹸の大量生産体制構築に向け、必要な費用と原料調達、人件費を試算。生産規模の拡大には、資金調達と人員確保という大きな壁が立ちはだかる。
天保8年3月: 純顕に石鹸を献上し、長崎での販売許可を得る。佐賀藩の動きに警戒心を抱きつつ、反射炉建設のため、お里にオランダ語の技術書の翻訳を依頼。一之進による食糧事情調査の結果、藩の栄養不足という深刻な問題が浮き彫りになる。
天保8年4月: モリソン号事件を未然に防ぐべく、異国船打払令に関する建白書を提出。一之進と藩の食糧問題を議論し、栄養バランスの改善策を検討。大浦慶と石鹸の販売契約を締結し、販路を確保。
天保8年5月: 石鹸販売は好調で、藩の財政に貢献。しかし、その成功を妬む重臣たちから反発を受け、偽物が出回る事態に。
天保8年6月: 長崎からの帰路、何者かの襲撃を受け、右腕に銃弾を受ける。一之進の迅速な対応で一命を取り留めるも、襲撃の黒幕と動機を探る。
天保8年7月: 負傷から回復。信之介と共に、より効率的で高品質な石鹸を作るため、製法改良に取り組む。ルブラン法やソルベイ法など、様々な製法を学ぶ。
天保8年8月: 異国船打払令に関する建白書が幕府に却下される。藩主・純顕に進言し、長崎聞役の常駐化や白帆注進の際の心得など、独自の防衛体制強化策を提案・実施。
天保8年9月: 高島秋帆にゲベール銃の複製を依頼。火薬製造に必要な硝石の確保のため、硝石丘法による製造を検討。お里の植物に関する知識を借り、窒素含有量の高い原料を選定する。
天保8年10月: 佐賀藩が、大村藩の石鹸製造と西洋技術導入を調査しているという情報を得て、警戒を強める。情報戦の重要性を認識する。
1838年
天保8年12月: 佐賀藩士・平山醇左衛門が、石鹸の製法を探るため大村藩を訪れる。次郎左衛門は醇左衛門とオランダ語で会談し、技術交流を深める中で、西洋技術と情報収集能力の重要性を再認識する。石鹸の製法は明かさなかった。
天保9年1月: 長崎の豪商・小曽根六左衛門と面会。大浦慶を介して石鹸販売の契約を結び、販路を拡大。資金調達にも成功し、藩の財政は安定に向かう。
天保9年4月: 信之介の手によりゲベール銃の複製が完成。これを機に、雷管式銃の開発と、火薬製造に必要な硝石の製造方法の研究を開始。藩の軍事力強化を本格的に推進する。
天保9年11月: 藩主・純顕の江戸参府に同行。信之介、一之進、お里も共に江戸へ向かう。到着後、将軍への献上品を、当初予定していたゲベール銃から、石鹸に変更するよう純顕に進言。
1839年
天保10年5月: 江戸滞在中に渡辺崋山、高野長英と面会し、蛮社の獄を回避しようと試みるも失敗。帰国後、家老職を命じられるも固辞するが、最終的に殖産方として家老に就任。石鹸販売は好調だが、更なる財源確保のため、ロウソク製造を検討するも採算が合わず断念。高炉と反射炉の建設、椎茸栽培に着手。波佐見村の窯元・武村利左衛門に協力を要請し、耐火レンガ製造を開始。
天保10年7月: 次郎左衛門は城下に屋敷を構え、お里、信之介、一之進も共に移り住む。高炉建設のため、奥村嘉十を中心に耐火レンガとコークスの製造を進める。
天保10年8月: 佐賀藩で唐津藩領民による一揆が発生。次郎左衛門は佐賀藩の動向を注視する。波佐見村では、嘉十が耐火レンガ製造のため、高温に耐える窯の開発に着手。
天保10年9月: 唐津一揆は幕府預かりとなり、小笠原家は改易。佐賀藩も大きな負担を強いられる。次郎左衛門は、深澤家の借財返済と鯨組復活を計画。江島村を訪れ、深澤太郎勝行に協力を要請。
天保10年11月: 弟・隼人が信之介に師事し、蘭学を学ぶことに。次郎左衛門は、椎茸栽培のため、お里と共に菌糸の採取と培養に着手。一之進はペニシリンの抽出実験に失敗するも、諦めずに研究を続ける。
1840年
天保10年12月:アヘン戦争勃発。次郎左衛門は、世界情勢の変化に危機感を募らせる。千代丸、怜との家族の時間を過ごす中で、改めてこの時代を生き抜く決意を新たにする。弟・隼人の進路について話し合い、信之介に師事させることを決める。 次郎左衛門は深澤家の鯨組復活を正式に決定。藩の資金を用いて捕鯨船の建造と捕鯨銃の開発に着手する。
1840年
天保11年1月: アヘン戦争勃発の報を受け、次郎左衛門は風説書の内容を純顕に報告。清国の敗北を教訓に、日本の近代化を急ぐ必要性を訴える。同時に、オランダの風説書から、イギリスの真意やオランダの国力低下を推察する。
天保11年2月: 深澤家の鯨組復活を決定。藩の資金で洋式捕鯨船建造と捕鯨銃開発に着手。一之進はペニシリン抽出実験の失敗原因を分析し、麹菌を用いた再実験を開始。納豆菌を巡り、次郎左衛門とお里の間でコミカルな一幕も。
天保11年3月: 藩校・五教館に蘭学を導入することを純顕に進言。立石昭三郎を教授に推薦。さらに、自らが私塾を開き、広く人材を育成する許可を得る。私塾の名前は「開明塾」に決定。人材育成の必要性を強く感じ、信之介、一之進、お里と人材確保について議論。
天保11年4月: 五教館への蘭学導入が決定。立石昭三郎が教授に就任。私塾「開明塾」の設立準備を進める。今後の教育内容について議論し、オランダ語だけでなく英語教育の必要性、数学や理科などの科目の導入についても検討を開始する。
天保11年5月: オランダ風説書を通してアヘン戦争の状況を把握。次郎左衛門は、風説書の内容が偏っている可能性を指摘し、より正確な情報収集の必要性を訴える。
天保11年9月/10月: アヘン戦争激化の報。高島秋帆が西洋式軍備の必要性を幕府に上申。次郎左衛門は高島秋帆に江戸参府時の注意点として、幕閣からの攻撃に備えるよう忠告する。
天保十二年五月(1841)
大村純顕と次郎は、最新の国産青銅砲の演習を見学。様々な砲撃に純顕は驚嘆するが、次郎は技術革新の速さを語り、常に学び続ける必要性を説く。その後、信之介は次郎に新型雷管と捕鯨砲を披露。雷管は安全性を高め、捕鯨砲は回転式台座で操作性と安全性を向上させていた。これらの発明は高松藩や高島秋帆よりも先進的。次郎は量産を指示し、「立石流砲術」完成を確信する。
天保十二年十一(1841)
高島秋帆の徳丸原演習後も、アヘン戦争の情報は日本に届かず、渡辺崋山は蛮社の獄で自刃。次郎たちの救済も叶わず、歴史を変える難しさに直面する。彼らは歴史改変の目標を再確認し、それぞれ研究に励む。江川英龍は西洋式銃製造に成功、その速さに次郎は驚く。大村藩では昭三郎のオランダ語授業が始まるが、生徒の反応は様々。蘭学への温度差が、藩内の温度差を浮き彫りにする。
天保13年(1842年)
1月
技術: 耐火レンガ製造に目処、コークス炉(ビーハイブ炉)完成。波佐見村にコークス炉と耐火レンガ製造炉を建設。高炉・反射炉建造に必要な鉄原料(砂鉄・鉄鉱石)の領内産出の有無を確認。
政治: 大村純顕(11代藩主)がビーハイブ炉群と耐火レンガ製造炉群を視察。
2月
政治: 製鉄事業の報告、他藩からの鉄原料購入必要性と他事業利益からの費用捻出を決定。
技術: 流下式塩田構想開始。藩主が視察中に倒れるも、尾上一之進の気管切開術で一命を取り留める。
3月
政治: 藩主手術の一件は箝口令。大村藩医学方設立、長与俊達が頭取、尾上一之進が副頭取就任。
軍事: オランダ風説書でアヘン戦争の経過判明。幕府は異国船打払い令廃止、薪水給与令復活。
7月
政治: オランダ風説書到着。アヘン戦争の経過と今後の見通しを藩主と次郎左衛門が協議。
8月
政治: 開明塾開校。次郎左衛門が社会科授業担当。
9月
政治: 次郎左衛門、江戸参府同行。長崎奉行に本庄茂兵次の情報を流し、高島秋帆逮捕を阻止。
天保14年(1843年)
4月
技術: 洋式帆走捕鯨船完成。
6月経済: 真珠養殖成功、長崎で販売開始。
閏9月
軍事: 精錬方から火術方分離独立、昭三郎責任者就任。大砲鋳造方も分離。次郎左衛門は大坂行きを計画。政治: 江戸で老中人事異動。阿部正弘老中就任、水野忠邦罷免。高野長英恩赦決定。
11月
政治: 江戸にて次郎左衛門と佐久間象山が出会う。佐久間象山、海防十六策上書。
12月
技術: 尾上一之進、二宮敬作の依頼で伊予へ行き、楠本イネと出会う。
天保15年・弘化元年(1844年)
政治: 高野長英恩赦実施
3月
軍事: ミニエー銃の開発に着手。ライフリングの実装に課題があることが判明。
技術: 流下式塩田と石炭燃料を導入し、製塩の生産性向上。
経済: 製塩事業の収益性を試算。石鹸、椎茸、真珠、捕鯨事業の収益と比較し、新たな収入源を検討。
その他: 一之進が伊予で二宮敬作と出会い、診療所で働く。備前の石井宗謙を招聘する計画を伝える。
5月
政治: フランス船アルクメール号が那覇入港。幕府は水戸藩主徳川斉昭を謹慎処分。適塾への留学生選定開始。その他: 松林廉之助(後の松林飯山)と出会い、その才能を見出す。一之進が石井宗謙の招聘を次郎左衛門に伝える。
9月
政治: 水野忠邦が老中に復帰。佐賀藩がオランダからモルチール砲を購入し、伊王島に配備。
軍事: オランダ軍艦パレンバン号を視察。大村藩独自の捕鯨用帆船を建造していることを佐賀藩に伝える。
技術: パレンバン号の諸元を調査。
その他: 高島秋帆、高野長英が大村藩に来る。田中久重(からくり儀右衛門)の仕官が決定。
11月
軍事: 高島秋帆を火術方に加え、昭三郎の上司とする。部隊の調練を実施。
技術: 精錬方を新設。田中久重、隼人、廉之助、高野長英が所属。鉄製大砲の製造に着手。
医学: 二宮敬作、石井宗謙を医学方に招聘。おイネを女医として育成する方針を示す。
その他: 徳川斉昭の蟄居が解かれるが、藩政への関与は禁じられる。一之進とおイネの関係性が進展。
弘化2年(1845)
政治: 水野忠邦老中辞任。オランダ国王からの国書に対し、鎖国維持の方針ながら、西洋技術の指南役派遣を要望する返書を送ることを決定。沿岸諸藩に軍備増強を命じる。
軍事: 伊予宇和島藩で火薬製造開始。
3月
政治: アメリカ捕鯨船マンハッタン号に乗船していた漂流民の返還を受け入れ、通商は拒否。
経済: 大村藩で石けん製造の材料となるアルカリを、石灰と塩水から作る研究を開始。ソルベー法の導入検討。冷蔵庫開発に着手。
経済: 大村藩で石炭乾留によるアンモニア生成、エーテルの気化熱を利用した冷蔵庫開発に着手。
5月
軍事: 大村藩で鋳鉄砲の試射を行うも失敗。
その他: 江戸時代における気化熱の理解と応用。
6月
技術: 大村藩で牛痘種痘法の促進、コレラ・麻疹対策の検討開始。
7月
政治: イギリス船サマラン号が長崎に寄港。幕府はオランダへの返書を佐賀藩と福岡藩に開示。
経済: 大村藩でミニエー銃のライフリング加工開始。軍事: 佐賀藩はサマラン号への対応を指示。大村藩で鋳鉄砲試射、改良進む。
技術: 大村藩で炭素鋼ドリルの開発とメートル法の導入。鉛室法による硫酸製造、ジエチルエーテル製造に成功。
8月
政治: 阿部正弘が海防掛を設置。経済: 大村藩で石油の購入、灯油精製、ガス灯利用の検討開始。
9月
経済: 大村藩で越後産の石油購入を決定。ガス灯導入検討本格化。
軍事: 大村藩で鋳鉄砲の試射、改良進む。
12月
政治: 大村藩主が長崎湾と外海地区への台場建設、造船所建設を見積もり、幕府への建白準備。
軍事: 大村藩で鋳鉄砲の操業継続、流動性向上。
技術: 大村藩でガスタンク開発。
弘化3年(1846年)
2月
政治:仁孝天皇崩御。孝明天皇即位。次郎左衛門、朝廷への影響力強化のため工作開始。朝廷の財政難を知る。
技術:大砲鋳造12回目。1800kgの鉄で砲1門完成。鉄湯の流動性向上。
3月
政治:次郎左衛門、朝廷工作のため少額献金。岩倉具視と出会う。朝廷の財政窮乏の実態を知る。
経済:開明塾・五教館に初等・中等・高等部設立。海軍伝習所、陸軍調練所の設立構想。
技術:大砲鋳造13回目。反射炉2基で同時溶解、計3600kgの鉄を使用。鉄湯の流動性さらに向上。
4月
政治:幕府、海防強化のため小笠原諸島の巡視指示。英龍、海防意見書提出。
経済:大村藩、メートル法導入開始。次郎左衛門、大村藩の財政状況確認。様々な事業の収支計算。
技術:コカイン単離研究開始。過マンガンカリウム生成必要性判明。化学物質生成設備の建設を次郎へ提案。大砲鋳造12回目で製造の砲、試射実施も破裂。鉄成分の結合と均一化が課題。大砲鋳造14回目。水車動力による穿孔開始も難航。蒸気機関による効率化必要性認識。
7月
政治:アメリカ東インド艦隊司令長官ビドル、浦賀に来航し通商要求。幕府、薪水給与。
技術:ミニエー銃の改良。前装式ニードルガン開発開始。紙製薬莢試作。
8月
政治:純顕の病状悪化。家老から隠居と後継者問題提起される。
経済:大村藩、捕鯨事業開始。捕鯨船団帰港。日本近海の不漁を確認。
軍事:大砲鋳造15回目。36ポンド砲1門完成。鉄湯の流動性に差があることが判明。大砲鋳造16回目。36ポンド砲1門完成。
技術:ガス灯事業開始構想。プロパン方式か都市ガス方式か検討開始。
11月
政治:次郎左衛門、佐久間象山と面会。大村藩への招聘を試みる。
技術:象山、ガラス、鉛筆、鏡の製法を推測。
12月
政治:象山、松代藩主幸貫に長崎遊学の許可を得る。
経済:大村藩、様々な産物の生産・販売状況調査。木蝋、樟脳の生産開始。
軍事:大砲鋳造8回目で製造の砲、人力穿孔完了。試射実施も破裂。
技術:お里、養豚、養鶏、養殖、鉱山開発など様々な殖産を検討。
弘化4年(1847年)
3月
社会:信州で未曾有の大地震発生。松代藩に甚大な被害。
政治:大村藩から松代藩へ義援金。
5月
社会:地震の復旧作業中。
9月
政治:徳川慶喜が一橋家を継ぐ。孝明天皇即位。大村藩から朝廷へ献金。
技術:緒方洪庵の適塾で、大村藩の種痘の成功や技術開発の噂が広まる。
その他:渡辺清左衛門を中心とした藩論への疑問と同志の模索が始まる。
10月
経済:藩財政収支報告。
技術:村田蔵六が大村藩を見学。コカイン製造設備完成。ドライゼ銃完成。田中久重が蒸気機関製造に本格着手。緒方洪庵が大村藩の尾上一之進に種痘の種提供と医学指導を依頼。村田蔵六、大村藩家老の次郎左衛門と面会。
政治:岩倉具視に、大村藩家老の次郎左衛門が鷹司政道への歌道入門を勧める。
11月
技術:お里、養蚕事業に着手。ガス灯設置。ボルタ電池とダニエル電池の研究開始。信之介、アーク灯製造を指示される。佐賀藩主鍋島直正、伊東玄朴に種痘実施を指示。
その他:佐賀藩、種痘導入を1年前倒しで実施。
12月
政治:次郎左衛門、人材招聘リスト作成。隼人、日本全国へ人材探索の旅に出る。水戸の徳川斉昭が外国人追放の意見書を幕府に提出。薩摩藩で調所広郷が給地高の改正を行う。松代藩主幸貫、佐久間象山の長崎遊学を許可、のち大村藩への遊学に変更。大村純熈(修理)、国許へ戻るよう指示を受ける。
技術:田中久重、蒸気機関の模型製作開始。緒方洪庵、長崎で奥山静叔に再会し、一之進への紹介を依頼。尾上一之進、洪庵と面会、種痘の種と医学書の提供を受ける。一之進、洪庵の健康状態を懸念し、生活指導を行う。ペニシリン完成。隼人、長崎にて浅五郎を介し大島高任と手塚律蔵を知る。
弘化5年/嘉永元年(1848年)
1月
政治:岩倉具視、鷹司政通に入門し政界進出の第一歩を踏み出す。盛岡藩士・大島高任、周防の手塚律蔵、長崎の上野俊之丞・杉亨二が大村藩へ遊学。佐久間象山が大村藩に到着。
技術:大村藩、城下や調練場などにガス灯を設置。大島高任、『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』の訳本を学ぶ。お里、蘭仏辞典を『ドゥーフ・ハルマ』のように作ろうと試みる。
その他:謎の男が大村藩に入る。
2月
政治:次郎左衛門、佐久間象山と面談。
技術:上野俊之丞と宇田川興斎、大村藩の化学実験室を見学。田中久重、蒸気機関の模型製作に取り組む。山中信之介、電信や電球について考察。
その他:隼人、肥後藩で石工の橋本勘五郎(丈八)を探す。
3月
政治:大村藩、五教館大学設立を決定。次郎左衛門が総括、高野長英が学長に就任。
技術:信之介、アーク灯の点灯実験に成功。
その他:隼人、豊前国宇佐郡で賀来惟熊を探す。次郎左衛門、賀来惟熊招聘のため松平主殿頭に許可を求める書状を純顕に送る。純顕、松平主殿頭への仲介を真田幸貫に依頼する。大村藩、平戸・福江・島原藩との同盟構想。
4月
その他:純顕から賀来惟熊招聘の許可を得るための協力を依頼された次郎左衛門、宇和島で人材探索を指示。
6月
外交:オランダ国王ウィレム二世より幕府への書簡。軍艦と大砲の提供を拒否。
政治:幕府、オランダからの軍艦・大砲購入が頓挫し、国産化へ方針転換。高島秋帆を海防掛に任命。長崎・大坂に製鉄所と造船所を建設予定。
技術:田中久重、小型蒸気機関模型の製作に成功。
その他:大村藩の捕鯨船が琉球沖で目撃される。
7月
政治:幕府、大村藩の大船建造の噂を調査。
8月
軍事:越前藩、西洋式大砲を鋳造。
その他:加賀藩の能登領に外国船が出没。
外交/技術:大村藩、ヘルハルト・ペルス・ライケン、ヘンドリック・ハルデスらオランダ人教官・技師109名を招聘。
9月
政治:島津斉彬、琉球沖における外国船団目撃情報の調査を指示。次郎左衛門、蒸気機関の国産か輸入かを検討。最終的に、ハルデスに工作機械一式を発注。造船所は佐賀の三重津海軍所方式で建造決定。
経済:大村藩、捕鯨船倍増、石鹸の量産と廉価版販売好調。蒸気船建造のための予算捻出を検討。生糸、お茶、石炭の販売拡大を計画。真珠は販売量に課題あり。
技術:田中久重、蒸気機関開発に尽力。ハルデスと協力して製造開始。信之介、水車を改良。
その他:次郎左衛門、馬車を作成。適塾の5人が大村藩に戻る。
10月
政治:高島秋帆、幕府の海防掛就任要請を辞退。江川英龍と下曽根信敦を推薦。
経済:次郎左衛門、椎茸、塩、鯨の生産倍増を決定。他藩の資源開発(鉱山、油田)に着手。茶畑の買収計画。
11月
経済:次郎左衛門、北海道留萌の炭鉱開発に着手、松前藩と交渉開始。越後、松代、相良の油田開発に着手。松代藩とは共同経営の形をとる。
12月
経済:次郎左衛門、石油事業の収益性を試算。石油価格の高騰を見込むも、米価高騰による需要減退を懸念。信之介に石油精製方法の研究を依頼。石炭・鉄鉱石鉱山の設備投資費用を試算。蒸気機関導入による排水、水車による動力化を検討。石油採掘費用を試算。石油精製、缶詰製造技術、焼き玉エンジンの開発を五教館大学の研究課題とする。ニシン・イワシの油の活用法を模索。
政治:鍋島直正、長崎港防備に関する幕府の最終回答(保留)に落胆。大村藩の技術進歩に焦りを感じる。佐賀藩、大村藩の石炭販売量に圧倒される。
技術:佐賀藩、反射炉の建設開始。
嘉永二年(1849)
一月
幕府より大船建造の禁を犯したとの疑いで目付が来藩。疑いは晴れる。
薩摩江戸藩邸にて帆船が大村藩のものとバレる。
二月
島原藩の賀来惟熊、宇和島藩の前原功山が来藩決定。
島原藩に経済援助
三月
電信の実験成功。しかし信号の減衰等で距離の問題あり。絶縁や継電器の研究にすすむ。
四月
大船建造の禁違反として幕府より目付が来藩。しかしえん罪。
2,400石船建造開始(機帆船仕様)
閏四月
お茶の受注。35,000斤となる。八女をはじめ九州全域に仕入れの根回しをしていたため。全極的にお茶の仕入れ先を拡大。
マリナー号浦賀・下田に来航。
五月
領内で産出されていたモンモリロン石を利用した魚油の精製を開始。増産と販路拡大。
6月
蒸気機関を各鉱山へ導入するも、大島鉱山にて不具合発生。さらなる改良が必要。
7月
石油精製実験中に火災。死傷者なし。精製に近づく。お茶の追加発注有り。81,600斤。全力で掻き集める。
8月
ゴムの品質向上実験、酸化マグネシウム添加にて粘着性低下。
10月
高林謙三、大野弁吉スカウト
11月
勝海舟スカウト
下水道整備計画
嘉永三年(1850~1851)
1月
下水道の敷設を1858年の年初に設定。高炉セメントを開発するが、不可であれば間に合うようにポルポライドセメントにて施工する事が決定。
2月
川棚型(67.5トン/450石)に蒸気機関を載せ、外輪式で航行成功。4.8ノット。
吉田松陰、宮部鼎蔵、大村へ
スクリュー開発(潤滑油とゴム問題)
ジャスポー銃開発(ゴム問題)
5月
写真、ダゲレオタイプとカロタイプ生産完了
冷蔵後の自動化研究
幕府台場造営開始
8月
大型造船ドック完成
昇龍丸完成(360t)
御座船飛龍丸完成(73.5t)
9月
参勤交代
大阪まで蒸気船にて移動
高林謙三、廻転焙じ茶機開発
11月
大村藩、大船建造の禁の解除を条件に技術供与を交渉
破談
大村藩領内ならびに同盟諸藩の沿岸部測量
嘉永四年(1851)
1月
西国諸藩からの大村藩への遊学希望多数。
ゴム加硫法発見
2月
継電器の開発、電信距離大幅延長(実質無限)
佐賀藩より遊学希望の書面届く。
3月
以降の他藩への技術供与を禁じる代わりに、大村藩への大船建造の禁を廃止。
時限信管(榴弾・炸裂弾・ぺクサン砲用)開発進む。
幕臣多く川棚海軍伝習所へ入学
4月
大村藩主の弟純熈(当時利純)、江戸から大村へ。
ジョン万次郎、大村藩へ。
5月
ジャスポー銃完成。
6月
松代藩、油田開発
松前藩炭鉱含む蝦夷地全域開発
ソルベイ法の開発進む。
7月
台場造成開始
8月
昇龍丸型2番艦蒼龍丸就役
徳行丸・至善丸建造開始
9月
ゴムの加硫完成
スクリュー・金属薬莢・後装砲研究
10月
蝦夷地開発
川棚型売却(小曽根乾堂)
11月
商船学校
海軍兵学校設立(来年4月開校予定)
0号ドック改修
3~4号ドック建造開始(ポルトランドセメント)
12月
基礎的な炭素アーク溶接完成
蝦夷地場所請負商人と交渉(魚油)
嘉永五年(1852)
1月
開港予定の港の近くで将来の開港に向けて準備
2月
大阪にて淀屋清兵衛と会談
閏2月
打抜き底蓋開発
3月
静岡清水湊、浦賀をへて、江戸商人と会談。茶の仕入れと魚油、灯油の販路拡大のため。
4月
九条幸経、岩倉具視、次郎左衛門を通じて一之進の治療を受けることを決定。
ソルベー法完成。
6月
スクリュー試作品完成。近海での試験航海成功。
7月
五島沖にてスクリュー部故障要改善
別段風説書アメリカ開国のため来航予測(オランダ)
8月
幕府、純顕の意見をいれ、開国はせず時間稼ぎの方針へ。
川棚造船所にてスクリュー改良継続
10月
新型石油精製装置完成硫酸仕様。大型化。
各藩、大阪商人から帆船と汽帆船の発注があるが、レンタルと輸送業を行う事を具申(純顕へ)
12月
ダイナモによるアーク灯の点灯成功。改良続く。
嘉永六年
1月
オランダよりフェアベーンが改良したリベット打ち機を輸入。⇒倍の厚さの鉄板にリベットが打てるようになり、理論上耐圧性能が2倍。
前原功山が煙道にフランジを付けて、それをリベットで接合する方法を開発。
欧米にてボイラーの爆発事故が多発しているという情報を取得。原因は2/3が設計上の不備や老朽化、1/3が腐食によるものだと判明。藩内では同様の事故は発生していないが、予防策を講じるため研究。
ソルベー法の完成によりガラスの量産化、石けんの廉価版の販売、商品の多様化が進む。
田中久重、雲龍水を完成させる。加えて消火器を開発。
時津~浦上間の電信敷設が完了。宮村~三浦間は来月完了予定。
佐賀藩に打診し、領内に敷設許可をもらう。その過程で佐賀城までの敷設と操作方法伝授の依頼をうける。同時に島原藩、平戸藩からも要請あり。
外海六カ所、台場造成完了。各10門ずつ32
ペクサン砲、試作品完成。
小倉藩、長州藩、豊後と石灰石の採掘交渉
2月
手動はんだ付け機開発(打抜き蓋底は嘉永五年九月に開発済み)
ペクサン砲、艦載。
4月
ペリー琉球来航
鉄砲隊にて威嚇、首里城ではなく砂浜で会談
5月
浦賀にペリー来航
7月
幕府より独断交渉の質し状届く
江戸城にて弁明
プチャーチン、長崎来航
8月
外海沖にてプチャーチンと会談、江戸へ向かう事を勧める。
10月
プチャーチン会談するもクリミア戦争の影響で日本を離れる。
11月
大船建造の禁、廃止(9月)
12月
陸軍ならびに藩政改革を上書
鋼鉄艦の製造研究依頼
嘉永七年
1月
800トン級艦艇二隻を起工
次郎の依頼により新型炉の研究開発開始(手探り)
2月
ペリー再来
坂本龍馬と会い、艦艇・藩邸自由行き来の許可を与える。
9条ならびに11条を改正した和親条約をアメリカと結ぶ。
4月
5月に鳳凰丸(幕府海軍帆船)竣工見込み。
幕府に通訳派遣を申し出る。
信之介のアドバイスにより転炉(新型炉)の開発(具体的に)始まる。
雲龍水と消火器、製造途中。随時関東方面へ。
大村藩蒸気船建造の噂広まる。
5月
下田にて和親条約の追加条約結ぶ。
オランダ、幕府に海軍創設を打診する事を決定。
阿部正弘、徳川斉昭、次郎の才覚に感嘆するも幕府に敵対するのではないかとの危機感を募らせる。
次郎、松前崇広に箱館奉行所設置と蝦夷地上知の恐れを予測、両藩の権益を守るため、共同で拒否をする提案を手紙で送る。
鯨油価格下落。
7月
箱館奉行所は再設置されるも松前藩の管轄となり、幕府からは役人の派遣にとどまる。
大村藩内幕府派の鳴動
8月
長崎にて海軍伝習所開設、幕臣移る。伝習艦は観光丸(スンビン号)
安政元年(1855)
12月
次郎、クルティウスと大蘭密約
日露和親条約締結、樺太は国境なし、混在地となる。千島列島は択捉島以南を日本領。
安政二年(1855)
1月
大村城下下水道、ポルトランドセメントにて施工開始。
2月
ディアナ号乗員をロシアへ送ることを幕府へ提案するも却下。樺太までとなる。
4月
オランダに1,700トン級の軍艦発注(先行して設計図を受領する)
国産でも造船。(設計図到着後)
5月
蝦夷地開発、防衛進行中
7月
鉄道を計画するも、膨大な予算が必要で断念。
8月
イギリス船、雪浦沖に来航。厳重抗議。
10月
ベッセマー転炉とトーマス転炉、並行研究。
11月
蝦夷地上知問題再燃、老中首座堀田正篤と対談。なんとか保留。
安政三年(1856年)
1月
薩摩海軍設立
4月
吉田松陰・高杉晋作ら長州へ戻り松下村塾
5月
大村藩、前原功山を宇和島藩へ(帰郷)
6月
大村藩、5号、6号船渠造成開始。
7月
アメリカ・イギリス・フランス・オランダとの交渉開始。
安政四年(1857年)
1月
長崎開港(1年後)と和親条約に準拠する旨の条約調印。
・長崎開港。
・下田、箱館の補給迅速化。
・不履行の場合は居住権を認める。
純顕・利純・次郎左衛門、襲撃され全治三週間となる。
3月
幕府、築地に海軍操練所創設。
ピンファイア式小銃完成
輸血・血液保存法の研究開発
6月
阿部正弘没
京都に病院設立
8月
咸臨丸長崎回航
9月
補給に3日以上かかれば居住権の許可
為替レートはそのまま(ギルダー参考・金本位)
11月
ハリス江戸出府
大村藩、将軍継嗣には関与せず。
12月
長崎にてアメリカ、管理貿易始まる。
井伊直弼、大老就任。
安政五年(1858年)
4月
~形式上の合議が続く。
徳川斉昭、海防参与、軍制改革参与罷免。
6月
日米修好通商条約締結も、神戸開港と大阪開市が物議をかもす。
事前に勅を得なかったとして、朝廷反発。
ベッセマー転炉完成
7月
江戸城にて次郎、井伊直弼と対談。神戸開港の代替え地、大阪開市の延期等修正を求める交渉をハリスとするように要求。
不時登城のため処分を受けた斉昭親子、春嶽、慶喜の処分を不問にするようもとめ、直弼の逆鱗にふれる。
襲撃事件の黒幕に井伊直弼がいることが判明。
薩摩、斉彬存命で京都出兵画策、大村藩へ助力要請。
安政の大獄の前夜
9月
不時登城の罰は現状維持
薩摩藩からの出兵協力は拒否
10月
次郎、鹿児島にて斉彬を説得、薩摩出兵保留。
11月
朝廷にて三条実美・九条尚忠と面談。条約是正交渉をすることで納得させる。
不時登城の罪減刑の勅許を依頼。
12月
次郎、3度目の襲撃を受ける。彦根藩脱藩浪士、長野主膳は知らず。
安政六年(1859)
1月
岩倉具視と共に次郎参府にて井伊直弼と面談。勅許を渡す。
事件の真相を直弼に告げ、牽制する。
2月
長野主膳、切腹
ハリスと交渉、神戸の開港と江戸・大阪の開市を7年後で合意
3月
主膳の死を直弼が知る。
水戸藩より5千両の賠償金他
5月
オールコックと井伊直弼密会。イギリスが幕府を支援、武器を幕府のみとする事で諸藩の軍事力を抑制しようと提案されるも小栗上野介は反対。却下される。
6月
一橋慶喜、平岡円四郎配下の渋沢栄一を小栗上野介へ推挙。
小栗上野介、渋沢をともない大村藩へ視察。その化学技術と社会文化の違いに愕然とする。
8月
大村純顕、従四位下に叙任
太田和次郎左衛門、六位蔵人へ叙任
9月
条約締結に伴い法整備、海外渡航許可、領事館の設置等。
純顕、参与となるが大村にて。次郎は名代。
ガスマントル完成。
幕府、電信を京大坂より江戸まで敷設決定。工事開始。
藩の武器弾薬、軍艦輸入を規制する『兵備輸入取締令』発布。
次郎、オランダに2,500トン級鋼鉄艦を発注、可能になり次第建造。同時に設計図を輸送、到着後、研究開発、建造予定。(1861年起工予定(63年完成予定)。1862年に日本に設計図到着(63年起工、65年完成予定)
幕府、大村藩と共同で天領の油田開発、駿河の茶園開発着手。(利益は折半)
土佐藩、坂本龍馬と後藤象二郎に大村藩から蒸気商船(軍艦)購入交渉
10月
佐賀・鹿児島で教育制度充実(しかし大村藩ほどではない)
11月
越前が蒸気船購入をする噂を聞き、商人も購入を模索する。
樺太にてロシアが日本人開発地を襲撃・強奪・占領。
立石昭三郎、武力で排除。
次郎、樺太に祥鳳・天鳳・烈鳳(各1,000t)ならびに瑞雲・祥雲(各800t)、至善(400t)と一個連隊派兵。
箱館にて日露領土主権条約締結。
イギリス、大村にて海底ケーブル敷設事業提案するもお里に却下される。
安政七年・万延元年(1860年)
1月
次郎、二個艦隊計画と陸軍増強計画発表、実施に移る。
2月
桜田門外の変。井伊直弼死亡。
3月
安藤信正は事件公表と犯人逮捕を宣言、警護強化策を実施。水戸藩への処罰を検討。
4月
安藤信正大老は厳しい姿勢を示し、逃亡者の捜索を指示。一方で、攘夷派の思想転換を図るため、大村藩への遊学を提案。次郎は受諾。薩摩では、幕府の捜索隊を拒否し関与を否定。同時に、イギリス領事からの接触要請。
6月
幕府は公武合体を画策するも政権運営については今まで通り譜代中心を堅持。攘夷派の面々が大村藩到着し、川棚港で藩の近代化を目の当たりにした彼らは戸惑いを隠せず、朝廷の立場を懸念。偶然、海軍伝習中の坂本龍馬と遭遇し、旧知の再会も。一方、鹿児島では斉彬がイギリス船の入港に警戒心を示す。
7月
朝廷で和宮の降嫁問題が議論される。三条実美らは反対するが、岩倉具視は妥協を提案。次郎左衛門武秋は和宮の降嫁を機に朝廷の権威を高める策を示すが、九条尚忠は幕府への一任を主張。一方、薩摩藩主島津斉彬とイギリス領事モリソンは密談を行い、薩摩藩との技術協力の提案がなされるが、斉彬は慎重な態度を取る。
9月
大村藩領内で土佐藩の武市瑞山等攘夷派の状況と真木和泉らの状況
10月
次郎は和宮との会見。和宮の降嫁が決定。
長井雅楽の航海遠略策……次郎は慎重。
五品江戸廻し令のうち生糸の詳細
モリソンと斉興の密会
12月
清川八郎、京都にて攘夷志士を集める。
ヒュースケン襲撃されるも一命をとりとめる。
斉彬逝去
万延二年・文久元年(1861)
2月
ロシア艦対馬来航
4月
大村海軍、ロシア艦を撃沈
次郎、箱館にてロシア領事ゴシケーヴィチと会談
5月
ロシア以外の列強を味方に引き入れ、ロシアに対して賠償請求。
7~8月
ロシアに対して賠償・謝罪を求めるため、列強を味方にすべく会談
9月
サンクト・ペテルブルクに箱館よりポサドニック号撃沈の報せ
11月
カラー写真の試作機完成、しかし紙に写すのは不可。
連発式小銃完成、二十一式と命名
トーマス転炉完成
12月
アメリカの戦時国債購入交渉(鋼材や真鍮で物納)、幕府が15%の額面。
次郎、上総介に清国との交渉を打診
薩摩にて斉彬暗殺の黒幕にイギリス関与が発覚
文久2年(1862年)
1月
政治:江戸城で大老安藤信正襲撃されるも無事。水戸藩士6名逮捕。長州との繋がりを示唆する供述。次郎、大老襲撃と水長盟約について情報を得る。朝廷・幕府に働きかける。京都で破約攘夷の気運高まる。
技術:大村藩、缶詰製造技術の革新を進める。
2月
政治:皇女和宮降嫁。次郎、川路聖謨、竹内保徳、箱館でロシアとの交渉に向け打ち合わせ。対馬問題、樺太問題に関する交渉方針を決定。日露交渉開始。樺太問題と賠償金の関連性について議論。領土問題と賠償金について協議継続。日露交渉8日目。樺太・千島の領有権、対馬問題の賠償金について合意。条約締結へ。
外交:日露交渉開始~終結。
3月
政治:日魯間領土境界確定並びに対馬事件賠償条約、批准を1年後に決定。次郎、安藤信正に謁見、将軍家茂との謁見が決定。京都の攘夷派の動き、長州処遇について意見する。島津久光、上洛を決意。長州藩、大老襲撃への関与を否定。
4月
政治:島津久光の上洛の報、次郎に届く。岩倉具視と久光の上洛目的、攘夷派対策について協議。寺田屋事件発生。次郎、真木和泉、平野国臣を説得。薩摩藩士数名、大村藩へ。島津久光、寺田屋事件後、幕政改革の勅許を得て江戸へ向かう。安藤信正、久世広周、久光の上洛目的を把握。長州藩、大老襲撃への関与を改めて否定。
6月
政治:江戸城にて久光と安藤信正、幕政改革について会談。五大老設置、人事などについて合意。老中院、大老院設置。久光、信正の条件を飲む。京都守護職設置、会津藩主・松平容保就任。
7月
政治:参勤交代緩和など幕政改革案を提示。生麦村で島津久光一行とイギリス人遭遇。イギリス人負傷。生麦事件発生。次郎、生麦事件を受け江戸へ。
軍事:大村藩、新式機銃と大砲(エイガー機銃、アームストロング砲)開発。
社会:生麦事件発生。イギリス公使館付き医師ヘボン、横浜診療所で負傷者治療に立ち会う。
技術:北海道、小笠原、千島列島、樺太、琉球周辺諸島の測量終了。領内島嶼部ガス灯による灯台建設完了。
8月
政治:江戸城にて安藤信正、久光に生麦事件の事情聴取。イギリスへの対応を協議。次郎、純顕、信正、イギリスとの交渉開始。次郎、信正、純顕、交渉内容を検討。大村藩の商船を上海に派遣し、真相究明のため調査開始。
外交:横浜のイギリス公使館で生麦事件の交渉開始。慣習法などを根拠に交渉を進める。イギリス側、上海租界における捜査協力を認める。賠償金の額について議論。
社会:高杉晋作ら、上海で生麦事件の真相究明に乗り出す。高杉晋作ら、青幇に接触を試みる。イギリス側、上海へ逃亡した2人の捜索を依頼。イギリス側、上海で2人の捜索を強化。
9月
政治:イギリス領事、日本からの捜査協力要請を本国に報告。
社会:上海で晋作らと紅幇が衝突。領事館員を含む3名が死亡と思われたが済生丸へ搬送。一之進らによる治療開始。上野彦馬、現場の写真撮影。済世丸、上海出港。済生丸、長崎到着。パーシー・ホッグ、済世丸船内で死亡。
10月
外交:イギリス側、生麦事件への関与を否定。次郎、真相を明らかにした上で交渉決裂。
政治:イギリス政府、対応を協議。
11月
外交:オランダ総領事、生麦事件の早期解決を要望。
軍事:次郎、大村藩の軍備増強を提言。
12月
政治:大老院設置。大村純顕、大老に就任。朝廷で攘夷論が台頭。長州藩でイギリスへの強硬論が出るも、松陰は静観を促す。
外交:文久遣欧使節、帰国。イギリスとの交渉継続中。駐日英国公使代理エドワード・セント・ジョン・ニールが、本国に対し生麦事件の報告と日本側の主張を伝える。日本側はオールコック前公使が事件を計画し、ニールが隠蔽工作に関与したと主張。
文久3年(1863年)
1月
政治:高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎がイギリスとの戦争の可能性を議論。安藤信正が大老会議に大村純顕を加える提案。
3月
政治:イギリス本国で生麦事件に関するニールの報告書が届き、パーマストン首相とラッセル外相が対応を協議。ラッセル外相がニール代理公使に生麦事件に関する指示。家茂上洛
その他:和宮懐妊
5月
政治:イギリス議会で生麦事件に関するパーマストン首相とスタンリー議員の論戦。
軍事:キューパー少将が日本近海の封鎖戦略を検討。
6月
政治:次郎左衛門が島津久光と安藤信正に書状を送り協力を要請。岩倉具視と面会し朝廷工作を画策。大村純熈、安藤信正へ向け哨戒網構築を指示。大老会議にて大村純顕が攘英を提言。
技術:大村藩で新型蒸気機関が完成。
7月
政治:次郎左衛門、孝明天皇に謁見し攘英を奏上。朝廷は5年後を目処とした攘英を決定。
第315話『軍事作戦か開戦か』
1863年10月4日、幕府は攘夷派の勢力が減少したことを受け、開国と交易を進める方針を採用した。イギリスのオールコック卿は、日本での国益を優先し、無法者を雇って威嚇射撃を行ったことが問題視され、パーマストン首相はこの件を不問にする決定を下した。
第316話『薩摩と長州』
1863年11月12日、次郎はイギリスとの戦争準備のため、薩摩藩主に謝罪と見舞金の支払いを提案。これにより、日本が国際的な正当性を持つことを狙った。また、沖縄本島までの電信ケーブル敷設や哨戒ラインの構築も計画された。
第317話『江戸の備えと江川英敏』
1863年12月22日、江川英敏は江戸湾防衛の重要性を認識し、新型砲の導入を進める。次郎は江戸湾がイギリスによって封鎖される可能性が高いと考え、防衛策を講じる必要性を訴えた。
第318話『全体戦略会議とロシア』
1864年1月10日、イギリス東インド艦隊司令官は、日本との開戦に向けた兵力不足を認識し、次郎は日本側での防衛策を練りつつ、ロシアとの関係構築も図った。
第319話『アラスカ売却交渉とロシア太平洋艦隊のネーバルプレゼンス』
次郎はロシア領事と交渉し、アラスカの売却提案を行う。この交渉は、日本がイギリスに対抗するための戦略として機能することが期待された。
第320話『南北戦争とフランスとオランダ』
次郎はアメリカやフランス、オランダとの関係強化を図りつつ、イギリスとの対立に備える。各国との交渉が進む中、日本国内でも一致団結した戦争準備が進められた。
第321話 『僅差可決と艦隊派遣』
1864年3月、イギリスは日本への武力行使を可決、艦隊を派遣した。キューパー提督は補給の困難さから江戸湾封鎖を諦め、馬関海峡封鎖を計画。同時に、補給線確保のため大村藩海軍の撃滅を優先する。大村艦隊は大きいが、イギリス艦隊の火砲性能が勝ると見て、撃滅後に馬関海峡を封鎖する作戦とした。江戸城では、次郎がイギリス艦隊の標的を馬関海峡か鹿児島湾と予測。安藤信正は連合艦隊でも10隻しかなく対抗は難しいと懸念。次郎は大村艦隊14隻でイギリス艦隊15隻程度なら戦えると答えたが、実際は17隻。楽観的な見通しは危険だった。
第322話 『国外退去ならびに臨戦態勢』
1864年4月、駐日イギリス代理公使ニールは本国からの訓令を受け、在日イギリス人退去を勧告。開戦は不可避となった。江戸城にはイギリスから最後通牒が届き、生麦事件の責任者処罰と賠償金支払いを要求、4月30日までの回答なき場合は宣戦布告すると通達された。大村純顕は冷静に在日外国人の安全確保を指示。毛利敬親と島津忠義は自領防衛のため国許への帰還を命じられた。大村藩では、次郎が新鋭艦の試験航海中にイギリス艦隊上海出港の報が入る。鹿児島では、琉球在番奉行からイギリス艦隊来航の知らせ。艦隊は琉球で条約締結後、北上し奄美群島を攻撃する恐れがあった。久光は奄美防衛か艦隊温存かで苦悩し、大村純顕に援軍を要請した。開戦は目前に迫っていた。
第323話 『イギリス東インド・清国艦隊の奄美侵攻』
イギリス艦隊司令官キューパーは、奄美大島への侵攻を開始。薩摩の抵抗を予想しつつ、大村艦隊の動向を探る。奄美大島には防御施設はなく、少数の守備隊がいるのみ。イギリス艦隊は容易に上陸を開始した。大島代官所から薩摩藩へ、イギリス艦隊襲来の急報が届く。忠義は即時救援を主張するが、久光は冷静に大局を見据え、大村艦隊との連携を優先し、鹿児島防衛に徹するよう指示。苦渋の決断ながら、大島を見捨てるしかなかった。一方、大村藩では次郎がイギリス増援艦隊到着の報を受け、大村海軍を鹿児島へ向かわせる。イギリス艦隊を鹿児島で撃退後、長州藩の救援に向かう計画だ。上海では、増援艦隊司令官キング少将が、大村艦隊の規模に驚き、最新情報の確認を指示。キューパーの指揮下に入ることに不満を持ち、単独で長州攻撃を企てる。イギリス艦隊内部の不協和音が、戦況に影を落とす。
第324話 『払暁の奄美大島』
薩摩藩士、大山、川村、松方、赤塚の4人は、奄美大島救援のため独断で出撃を決意。久光の命令に反する行動だったが、3隻の軍艦でイギリス艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける。夜陰に紛れ奄美大島に接近し、夜明けと共に奇襲攻撃を開始。不意を突かれたイギリス艦隊は混乱するも、圧倒的な火力で反撃。薩摩艦隊は奮戦するも多勢に無勢、旗艦ユーライアラスに損害を与えた後、撤退を余儀なくされた。一方、鹿児島城では久光が激怒するも、既に後の祭り。ユーライアラスへの損害に驚愕したキューパーは、鹿児島湾突入作戦に変更なく、キング艦隊の到着を待つ。しかし、キング艦隊の動向は不明。キューパーの不安は募る中、イギリス艦隊は鹿児島へ向けて出航した。
第325話 『激闘!鹿児島湾海戦! -序章-』
独断出撃した赤塚、大山、松方は、忠義の嘆願により蟄居処分となるも、戦争中は戦いに尽力することを命じられる。鹿児島城に到着した次郎は、2人と面会後、3人から奄美大島での戦闘の詳細を聞き出す。敵旗艦への命中弾は幸運によるものだった可能性が高まる。2日後、屋久島南沖でイギリス艦隊が北上中との報せが入る。薩摩藩は湾内で迎え撃つ準備を整え、次郎率いる大村艦隊は枕崎で待機。キューパーはキング艦隊を待たずに鹿児島湾へ突入を決意。薩摩艦隊を湾内に誘い込み、鹿児島攻撃を狙う。両艦隊は鹿児島湾で激突、薩摩艦隊はイギリス艦隊の砲撃を受け、湾内へ逃走する。
文久4年(元治元年)4月
薩摩藩艦船が鹿児島湾から退避後、イギリス艦隊が侵入。翌6日、イギリス艦隊は桜島と大隅半島間の海峡を突破し、薩摩藩の蒸気船と交戦。その後、鹿児島湾口で大村艦隊と遭遇し激戦を繰り広げ、イギリス側はキューパーら上級指揮官を失い降伏勧告を受け入れる。4月9日、イギリス艦隊降伏の報が江戸に届き、防衛強化が協議される中、10日にはイギリス増援艦隊が響灘に到着し偵察開始。11日、関門海峡へ進入を試みるも、下関戦争が勃発。イギリス艦隊は長州藩砲台や連合艦隊と交戦し敗北を喫し、日本側の勝利が確定する。
元治元年5月
下関戦争の戦利艦分配会議で、大村藩はチェサピークとバロッサを希望し、幕府はコンカラー、薩摩藩はワスプ、長州藩はバウンサー、佐賀藩はラトラーを求めた。しかし次郎左衛門が薩摩藩の軍規違反や長州藩の整備不良を指摘し、大村藩がチェサピークとバロッサを選択。結果、大村藩の提案通り分配が決定し、幕府中心の海軍体制が築かれた。一方イギリスでは、艦隊壊滅の報に国中が衝撃を受け、首相は情報収集と対応策を指示。敗北報道により政権は窮地に追い込まれた。
元治元年7月
下関戦争終結後、捕虜となったイギリス兵は横浜の称名寺に収容される。次郎は新見正興と今後の対英政策、捕虜の待遇について協議。文化と言葉の壁を乗り越え、人道的かつ毅然とした対応が必要だと次郎は主張する。一方、イギリス兵たちは日本の捕虜待遇の良さに驚いていた。幕府は対英戦略会議を開き、慶喜、春嶽、島津忠義ら諸藩主や幕閣が集結。次郎はイギリス議会の複雑な政治状況と、国内の対日感情を説明。商人と野党の支持を得るため、新聞や議会への働きかけ、他列強との関係強化を提案する。さらに次郎は、ロシアとの国境問題解決、アラスカ購入交渉、フランスへの造船所建設発注、アメリカへの戦時国債購入継続など、具体的な外交戦略を提示。その卓越した国際感覚と情報収集力に、列強も注目していた。ロシアは日本の近代化、特に大村藩の技術力に警戒心を抱きつつも、イギリスの弱体化を好機と捉え、極東における権益拡大を画策する。
元治元年八月
イギリス国内では日本での敗戦を巡る議論が激化し、パーマストン首相は政権維持に苦慮。議会では保守党が総辞職を要求する。日本では、大村藩邸で次郎左衛門と大村純顕がイギリスとの交渉について協議。次郎左衛門はイギリス艦隊の即時派遣は困難と判断し、和平交渉の仲介役としてオランダを推し、琉球を交渉の場と提案する。次郎は朝廷からの昇進を辞退するが、純顕から他の有力藩主の昇進と合わせて問題回避を図ればと提案される。奄美大島のイギリス軍は孤立し、薩摩藩に捕らえられ横浜へ移送される。
元治元年九月
次郎左衛門と小栗上野介はフランス公使館を訪れ、レオン・ロッシュ公使と借款と技術供与について交渉する。フランスからの借款は240万ドルと決定し、担保として生糸の優先的供給権、製鉄所と造船所の将来的な収益、鉄鋼製品の優先供給が提案される。さらに、フランスから造船技術と製鉄技術の導入、横須賀製鉄所の建設支援が約束された。次郎左衛門は、この交渉がもたらす国内外への影響を危惧する一方で、日本の近代化を加速させる可能性も感じていた。
元治元年10月
小栗上野介は幕府財政の立て直しに奔走していた。大村藩を参考に生糸と茶の増産・輸出政策、関税制度整備、商人からの資金調達など様々な改革に着手。しかし、大村藩の台頭が幕府の権威を脅かす可能性に危機感を抱く。そして、経済活性化と円滑な貿易を目指し、金本位制に基づく新貨幣単位「円」の導入と全国流通を提案。幕閣の賛同を得て、貨幣統一構想は大老院での審議へと進む。
元治元年11月
講和を求めるイギリスは琉球で日本側と交渉を開始。次郎は強気の姿勢で臨み、イギリスの要求を拒否、逆に賠償金を要求し領海立ち入り禁止を主張する。長期の交渉の末、イギリスは戦闘行為の停止と領海立ち入り禁止を拿捕艦2隻の返還を条件として受け入れるが、さらに次郎は返還時期は5年後と7年後という条件をつける。賠償金交渉でも次郎は一歩も引かず、追い詰められたイギリスはついに次郎の要求をのむ。水面下では、ロシアが日本の近代化、特に大村藩の技術力に注目し、極東の情勢変化を分析していた。
慶応元年一月(1865)
日英の賠償金交渉は難航。ロシア領事ゴシケーヴィチは、アラスカ売却益をシベリア鉄道建設資金に充てる計画をビュツォフに語る。フランス公使ロッシュは、イギリスの弱体化に乗じ、仏領インドシナ拡大と日仏安保条約締結を画策する。
慶応元年二月(1865)
日英賠償金交渉で、次郎は詳細な内訳を提示し、イギリス側の反論を論破する。巨額の費用にイギリスは難色を示すが、次郎の強硬な姿勢に押され、分割払いを条件に賠償金の支払いを承諾。ただし、次郎は生麦事件の真相究明と関係者の証人喚問を要求する。イギリス議会では、野党が日本との交渉の遅延を批判。パーマストン首相は早期解決を主張するが、新聞各社は賠償金交渉の難航ぶりを報じ、政府への圧力を強める。
慶応元年三月十二日(1865/4/7)
320万ポンドの賠償金を「経済調整金」という名目に変更することで合意したものの、交渉は難航。次郎はオールコック、ニール、パークスの3名の証人喚問を要求するが、イギリス側は難色を示す。権限の不明確さを指摘され、ガウワーは証人喚問を本国に進言すると約束。最終的に9月に証人喚問を行うことで合意するが、イギリス側の思惑は不明瞭なまま。
慶応元年四月七日(1865/5/1)
捕虜となったイギリス兵から、家族や恋人への手紙がイギリス各地に届く。手紙には生麦事件がイギリス側の陰謀だったこと、そして日本における捕虜の待遇が良いことが書かれていた。この内容は新聞で報道され、国民に衝撃を与える。議会では野党がパーマストン首相を激しく追及。生麦事件の真相究明と戦争責任を問いただす。パーマストンは調査中と繰り返すが、世論と議会の圧力は強まるばかり。ついに女王からも辞任を促され、パーマストンは窮地に立たされる。
慶応元年五月一日(1865/5/25)
パーマストン内閣は総辞職し、ダービー伯爵を首班とする新内閣が発足。新政権は、日本が要求する証人喚問への対応に追われる。オールコック、ニール、パークスの所在確認を急ぐとともに、パークスには国益を最優先に行動するよう指示を出す。
上海では、パークスがオールコックとニールに今後の対応を相談。オールコックは証人喚問への出頭を提案し、3人は口裏合わせをする。生麦事件は国益のために行動したと主張し、銃撃事件への関与は否定。パークスは紅幇を使った領事館員殺害の疑惑も否定する。こうして、3人は証人喚問に出頭することを決める。
慶応元年六月二十六日(1865/8/17)
琉球での証人喚問で、オールコックは事件当時イギリスに帰国中だったと主張、ニールも「知らぬ存ぜぬ」を繰り返す。次郎の追及に対し、ニールは交渉の行き詰まりを軍事行動の理由とする。さらに、上海での領事館員と襲撃犯の死亡事件は、日本側の捜査協力の申し出に応じた結果起きたものであり、イギリス側に責任はないと主張する。しかしその時、実行犯ビル・スレイターが立ち上がり、すべてオールコックの指示だったと証言する。
慶応元年六月二十六日(1865/8/17)
琉球での証人喚問で、ビル・スレイターがオールコックの指示で生麦事件を起こしたと証言。ニールはビルとの面識を否定するが、次郎の追及は続く。オールコックは事件への関与を否定するも、次郎は新聞記事や紅幇幹部の自白書を証拠に突きつける。追い詰められたパークスは、紅幇との関係を疑われ、窮地に陥る。
慶応元年六月二十六日(1865/8/17)
証人喚問に、死んだと思われていたアーサーが現れる。パークスは驚きつつも喜びを露わにするが、アーサーはイギリスに戻らないと宣言。真実を明らかにすると告げ、パークスに衝撃を与える。アーサーは上海領事館員時代、ニールから生麦事件の犯人確保と「適切な処置」を依頼されたと証言。パークス領事の表情が曇る。
慶応元年六月二十六日(1865/8/17)
証人喚問で、ビル・スレイターはオールコックの指示を改めて証言。ニールはビルとの面識を否定するが、次郎はニールが生麦事件の犯人に関する情報を隠蔽していた証拠となる公文書を提示する。ニールは文書の誤記と主張するが、次郎の追及は続き、追い詰められていく。
慶応元年六月二十六日(1865/8/17)
次郎の言葉に、ニールは国益のために行動したと主張。しかし、次郎は公文書との矛盾を指摘。ニールは苦しい言い訳を繰り返しながらも、最終的には自らの行動を正当化しようと努める。さらに、パークスも巻き込まれ、証言を求められる。イギリス側の内部崩壊が始まりつつあった。
慶応元年六月二十七日(1865/8/18)
次郎はニールとパークスの証言の矛盾点を追及する。ニールは国益のための行動だったと主張し、パークスも双方の不信感から生じた事態だと弁明する。オールコックも外交の難しさを語るが、次郎はイギリスへの信頼は既にないと断言。そして、改めて3人に生麦事件への関与の有無を問いただす。ガウワーが部屋を出て戻ってきたとき、事態は急変する。
慶応元年六月二十七日(1865/8/18)
次郎は証人喚問に、前首相パーマストンと前外務大臣ラッセルを召喚する。2人はオールコックが生麦事件への関与を認めていたことを証言。オールコックは青ざめるが、パーマストンは各国代表に、国益と国際関係の板挟みになった場合の対応を問う。そして、外交の難しさを語り、オールコックの行動を黙認した理由を説明する。しかし最終的に、オールコックの犯行は明白となり、彼は罪を認める。
慶応元年八月十八日(1865/10/7)
次郎はオールコックら3人の処遇を列強に諮る。各国代表は本国送還や解任を提案するが、次郎は「市中引き回しの上、処罰」を決定。3人は小塚原刑場へ連行され、断髪という刑に処せられる。その後、イギリスとの賠償金交渉が再開。ガウワーは減額を提案するが、次郎は強硬な姿勢を崩さず、最終的に290万3千ポンドで決着する。
慶応元年九月七日(1865/10/26)
イギリスとの賠償金交渉が終結し、最終的に収支は赤字であったが、堅固な財政基盤により許容範囲内であった。次郎は、イギリスとの信頼関係は容易に修復できないとして、即時の国交回復を拒絶。捕虜交換では、一部のイギリス兵が日本に残留を希望した。次郎は休暇を過ごしていたが、シーボルトの息子アレクサンダーと再会する。その後、ロシアからアラスカ売却、フランスから万博出展の提案の電報が届き、再び多忙な日々が始まる。
慶応元年九月十四日(1865/11/2)
日英戦争後の休暇中、信之介から無煙火薬、電話、内燃機関、計算機の実用化を知らされた次郎は、箱館へ向かう。ロシア領事ビュツォフとのアラスカ売却交渉では、提示価格が予想より安かったため、次郎は即決を避け、江戸での検討を約束する。アラスカ購入は日本にとって大きな転換点となる可能性を秘めていた。
慶応元年十一月二日(1865/12/19)
大村純顕と次郎の昇進をめぐり、幕閣は混乱。朝廷への配慮と大村藩への対応に苦慮する中、アラスカ購入の議題が持ち上がる。ロシア側の提示額は263万両。あまりに高額なため、老中たちは難色を示し、購入は難しいとの見解を示す。その時、次郎が江戸城に到着する。
慶応元年十一月二日(1865/12/19)その2
小栗上野介は、アラスカ購入計画を知り驚く。安藤信正から意見を求められ、上野介は渋沢栄一とともに商人から資金調達することを提案する。資金調達が可能であれば購入すべきという上野介に対し、信正はアラスカ購入の理由を次郎に問いただす。次郎は、金銀などの鉱物資源、石炭、臭水(石油)、海の幸、山の幸など、アラスカの豊富な資源を理由に挙げる。
慶応元年十一月三日(1865/12/20)その3
アラスカ購入の理由を問われた次郎は、豊富な資源の存在を強調するが、幕閣は納得しない。板倉勝静は証拠を求め、次郎は蝦夷地と樺太で金銀が産出していると発言。しかし、この発言は金山の未報告という問題を引き起こし、稲葉正邦から批判される。実は次郎は、アラスカ購入を実現させるため、ある計画を実行していた。
慶応元年十一月三日(1865/12/20)その4
次郎はアラスカ購入は公儀のためと主張するが、上野介は信用していない。稲葉正邦は大村藩の行動を問題視するが、安藤信正はアラスカ購入の真意を聞くべきだと諭す。次郎は地層学に基づいてアラスカの豊富な資源を説明、莫大な金が産出されると断言する。板倉勝静は証拠を求め、次郎は蝦夷地と樺太の金山発見を明かす。未報告を咎められるも、次郎はアラスカの砂金(実際は蝦夷地の砂金=ある計画)を見せ、ロシアの許可を得て調査したと説明する。資金調達について、小栗上野介は渋沢栄一とともに商人からの出資を提案する。
慶応元年十一月三日(1865/12/20) 夜
信正は老中たちに、大村藩を罰すれば幕府にとって大きな損失となりかねないと諭し、今は協力すべきだと説得する。次郎は純顕に謝罪するが、純顕はアラスカ購入資金について尋ねる。次郎は賠償金と商人からの出資で賄えると答える。一方、小栗上野介は渋沢栄一にアラスカ購入資金の調達を依頼するが、金山の存在を伏せるという条件に渋沢は難色を示す。上野介は蝦夷地の金山開発という名目で資金を集めることを提案する。
慶応元年十二月一日(1866/1/17)
次郎は大浦慶と小曽根乾堂からアラスカの開発資金の出資を取り付ける。一方、渋沢栄一は蝦夷地開発への投資という名目で大阪の豪商たちから資金を集めようとするが、商人たちは御用金と勘違いし、難色を示す。渋沢は過去の不正を批判することで商人たちの信頼を得て、詳しい説明を始める。さらに小栗上野介は、蝦夷地開発への出資を募る書状を各地の豪商に送る。
慶応二年一月十七日(1867/3/3)
次郎は岩倉具視にアラスカ購入の真意を説明。アラスカの豊富な資源は事実上幕府ではなく大村藩が管理し、開発も大村藩が行うと告げる。岩倉は幕府の強大化を懸念するが、次郎は朝廷への忠誠を誓う。資金不足の幕府を出し抜く次郎の計画を知り、岩倉は安堵する。一方、渋沢はアラスカ購入資金集めに奔走するが、目標額には届かず、新たな資金源を探していた。
慶応二年一月十七日(1867/3/3)
資金調達に奔走する渋沢は、坂本龍馬の紹介で兵庫の豪商・北風正造と出会う。正造は蝦夷地開発への投資話に30万両の出資を申し出る。一方、大村に戻った次郎は、信之介たちの発明品の報告書を読み、その成果に驚く。京都では、幕府転覆を暗示する落首が出回り、次郎は調査を始める。
慶応二年一月二十四日(1867年3月10日)
京都で清河八郎は同志と今後の策を練る中、牧田孫兵衛という商人と出会う。孫兵衛は大村藩の台頭を指摘し、倒幕の可能性を匂わせる。一方、京都病院では緒方洪庵が倒れ、一之進が治療にあたる。
慶応二年一月二十四日(1867年3月10日)~三月十日(4月24日)
京都病院で緒方洪庵が食道静脈瘤破裂で倒れる。一之進は、最新医療機器を用いて緊急手術を行い、洪庵の命を救う。しかし、洪庵には後遺症が残ってしまう。一方、横浜では、中居屋重兵衛が貿易再開を幕府に願い出るも、五品江戸廻送令に違反した過去から、聞き入れられない。重兵衛は幕府への不満を募らせる。
慶応二年三月十五日(1866年4月29日)
次郎は中居屋重兵衛にアラスカ開発への参加を持ちかけ、協力を得る。一方、小栗上野介は蝦夷地開発への出資を三野村利左衛門からも得ることに成功する。京都では、前田斉泰が諸藩主と密談。薩摩藩を通じて淀屋清兵衛に出資話を持ちかけられるが、清兵衛は幕府転覆の野望を明かす。
慶応二年三月十五日(1866年4/29日)
加賀藩邸に集まった諸大名に対し、淀屋清兵衛は幕府の兵備輸入取締令は諸藩の力を削ぐためのものであり、現状では外敵に対抗できないと主張する。そして大村藩の台頭を危惧する諸大名から打開策を問われ、蝦夷地開発への出資を提案。その上で、諸大名には取締令廃止への働きかけを求める。
慶応二年四月二十九日(1866年6月12日)
諸大名は、淀屋清兵衛の言葉に危機感を募らせ、大村藩への対抗策を模索する。パリ万博出品も決定し、幕府は日本の力を見せつける機会と捉える。大村藩は、最新兵器や技術を展示することで、列強に存在感を示そうとする。アラスカ購入の件では、ロシアとの交渉が成立。資金調達も順調に進むが、イギリスとの国境問題が新たな課題として浮上する。
慶応二年五月十二日(1866年6月24日)
パリ万博出品のため、幕府は出品目録をフランス公使ロッシュに提出。大村藩の最新軍事技術の数々に、ロッシュは驚きを隠せない。一方、江戸城ではアラスカの国境問題が議題となる。イギリスとの交渉が必要となるが、幕府は国交断絶状態のため、対応に苦慮する。次郎はイギリスの思惑とアメリカの動向を分析し、情報収集の必要性を訴える。そして、アラスカの国境問題解決とイギリスとの交渉という難題に挑むことになる。
慶応二年六月二十四日(1866年8月4日)
慶喜と春嶽からイギリスとの交渉を命じられた次郎は、情報収集を開始する。アラスカの実効支配強化のための人員派遣計画を進める一方、万博での技術展示でイギリスに圧力をかける戦略を描く。パリでは、万博に出品された大村藩の最新技術にフランス公使ロッシュが驚愕する。江戸城では、アラスカの国境問題を巡り、イギリスとの交渉の必要性が議論される。次郎は交渉の難航を予想しつつも、情報収集とアラスカの実効支配強化を急ぐ。大村藩では、潜水艦の性能向上を目指し、新たな技術革新が模索されていた。
慶応二年八月四日(1866年9月12日)
次郎は、パリ万博出品のための航路確保に頭を悩ませていた。スエズ運河はまだ開通しておらず、喜望峰経由はイギリス領を経由せざるを得ない状況。フランス公使ロッシュに相談するも、安全な航路の確保は難航。イギリスへの借りを作りたくない次郎は苦悩する。大村に戻った次郎は、藩の財政状況と航路問題の重圧から、過労で倒れてしまう。
慶応二年八月十二日(1866年9月20日)
過労で倒れた次郎は、静とお里に看病され、回復する。次郎は彦次郎を行動の補佐に、顕武には軍事関連の業務を任せることを決める。パリ万博への航路については、イギリス領を避けるため、蘭印か仏印を経由し、マダガスカル、リオデジャネイロに寄港するルートを検討する。しかし、マダガスカルの港湾施設の未整備や現地情勢の不安定さを考慮し、最終的に蘭印アンボイナ経由でレユニオン島を経由するルートが選択される。航海の安全と同時に、フランスとの友好関係を深める狙いもあった。
慶応二年九月二十日(1866年10月28日)
フランス皇帝ナポレオン三世は、大村藩の万博出品物の技術力の高さに驚愕し、科学アカデミーの専門家たちに意見を求める。専門家たちは、潜水艦、水雷、そして電磁波送受信装置の技術水準の高さを指摘、フランスにとって脅威となる可能性を示唆する。一方、大村藩では、次郎が財政状況の報告を受ける。海軍の維持費増大に頭を悩ませつつも、石鹸やマーガリンの輸出など、新たな収入源の確保に成功していた。パリ万博への航路(コーチシナ・バタヴィア経由)も決定し、いよいよ出発の準備が整う。
慶応二年九月二十二日(1866年10月30日)
パリ万博へ向け、大村海軍と幕府海軍、諸藩の軍艦からなる一大艦隊が出港準備を進める。壮大な陣容となったことで、次郎は補給の遅延や機関故障を懸念する。一方、幕府海軍内では旗艦を巡り議論が紛糾。幕府の威信を示すため「富士山」を旗艦とするべきとの意見が出るが、勝海舟は実力主義の観点から「知行」を推す。次郎は、各艦に日の丸、葵の紋、藩の紋を掲揚することで序列を示し、幕府の面目を保つ。
慶応二年十月十日(1866年11月16日)
パリ万博への航海の準備中、次郎はフランス公使ロッシュからスエズ運河開通の遅延を知らされ、航路問題に直面する。イギリス領への寄港を避けたい次郎は、代替ルートを検討するが、いずれも危険が伴う。その後、艦隊は土佐藩の軍艦「南海丸」の機関故障により、仏領コーチシナのサイゴンに寄港。龍馬と再会した次郎は、土佐藩海軍の人材不足と待遇の悪さを知る。
慶応二年十月十七日(1866年11月23日)
サイゴンで各藩の軍艦の整備状況を検査した次郎は、多くの艦の整備不良に愕然とする。航海の続行を決めるが、バタヴィアなどで改めて点検を行うことを決定。その後、出航した艦隊は暴風雨に遭遇する。
慶応二年十月十七日(1866年11月23日)~二十四日(11月30日)
次郎は、各藩の軍艦の整備不良を目の当たりにし、不安を抱えながらもバタヴィアへの航海を続ける。航海中、嵐に遭遇し、加賀藩の李百里が行方不明となる。バタヴィアに到着後、次郎は南海丸の修理を命じると同時に、各艦の徹底的な点検を行う。一方、漂流していた李百里はボルネオ島に辿り着くが、そこはイギリス領だった。
慶応二年十月十七日(1866年11月23日)
サイゴン出港後、嵐に遭い加賀藩の李百里が遭難。バタヴィアで次郎は捜索と各艦の整備を行う。漂流した李百里はイギリス領サラワクへ。国王代理ブルックは、イギリス本国への配慮から手厚く保護する。言葉の通じない李百里の乗組員たちは、厚遇を受けながらも不安を抱えていた。一方、次郎はオランダ総督の協力を得てサラワクへ使者を送ることを決める。
慶応二年十一月三日(1866年12月9日)
バタヴィアにて各藩代表と艦長がサラワク王国への謝意と今後の航海を協議。勝海舟の予測に対し、オランダ総督はイギリスの真意を警告。仙台・福井・宇和島藩は譲歩を示唆、土佐藩は態度保留の中、次郎が藩の利己的な姿勢に激昂し会議は紛糾。イギリスへの対応や他藩の処遇は未決のまま、航海の行方は不透明に。
慶応二年十一月三日(1866年12月9日)
バタヴィアにて各藩代表は今後の航海を協議。次郎は他藩の利己的な態度に激怒し、勝海舟に判断を委ねる。勝は練度と機関部品の有無を理由に、土佐藩以外の艦船を帰国させる決定を下す。慶応二年十一月十日(1866年12月16日)、サラワク王国では次郎が国王代理ブルックに感謝を伝える。しかし、ブルックは加賀藩乗組員を歓待しており、次郎は交渉のテーブルにつくこととなる。
慶応二年十一月十日(1866年12月16日)
サラワク王国にて次郎は前田慶寧と再会、そしてガウワーとの再交渉が始まる。ガウワーは国交回復を提案するも、次郎は感謝を述べつつもこれを拒否。サラワク王国の内情を把握した上で、イギリスの申し出を「人道的支援」として受け止め、費用は日本側が支払うと主張。ガウワーは言葉巧みに交渉を進めるも、次郎は冷静に対応し、国交回復には応じない姿勢を崩さない。
慶応二年十一月十日(1866年12月16日)
ガウワーとの交渉は平行線のまま終了。次郎はイギリスの申し出を丁重に断り、改めて国交回復には時間がかかると伝える。その後、彦次郎の進言で次郎は前田慶寧に今後の対応を協議。慶寧は他の藩と同様に帰国を受け入れ、加賀藩の改革の必要性を改めて感じていた。こうして日本艦隊はバタヴィア出発の準備を整える。
慶応二年十二月七日(1867年1月12日)
レユニオン島にて次郎たちは休暇を楽しんでいた。甲吉郎も合流し、リラックスした雰囲気の中、龍馬が現れる。龍馬は暑さをしのぐため「知行」の冷房設備を借りに来ていたが、他の社中も連れてきてよいかと次郎に尋ねる。甲吉郎の許可も得て、亀山社中の面々も『知行』で休暇を楽しむことになった。
慶応二年十月二十四日(1866年11月30日)
喜望峰沖を航行中の日本艦隊は、嵐に遭遇する。荒波の中、潜水艦「大鯨」を曳航していた「知行」は、曳航索の切断を迫られる。顕武艦長は苦悩するが、次郎の指示で曳航索を切断。「大鯨」と水雷艇「神雷」は嵐の中へ。
慶応三年一月八日(1867年2月12日)~一月十六日(2月20日)
嵐が収まり、次郎は遭難した「大鯨」と「神雷」の捜索を提案。艦隊を二手に分け、東と南東へ向かう。一方、漂流していた「大鯨」と「神雷」は、プリンスエドワード諸島に辿り着く。乗組員たちは疲労困憊していたが、水と食料を確保。しかし、艦の修理が必要な状態で、自力航行は不可能だった。そんな中、日本艦隊が狼煙を発見する。
~慶応三年一月十九日(1867年2月23日)プリンスエドワード島
遭難した大鯨と神雷を救出した艦隊は、レユニオン島へ到着。次郎は今後の航路について、勝海舟らと協議する。嵐への備えとして、補給艦の安全を優先すべきと言う勝に対し、次郎は危険海域では速度を上げて航行するべきだと主張。両者の意見が一致し、荒天時は速度を上げて迅速に脱出することで合意。艦隊は万博に向けて、再出発の準備を整える。
慶応三年四月九日(1867年5月12日) ブレスト
万博に遅れてブレストに到着した日本艦隊は、潜水艦「大鯨」と水雷艇「神雷」の修理を依頼する。フランス海軍の技術者たちは日本の最新鋭艦に興味津々だが、次郎は軍事機密保持のため、情報開示を制限する。フランス側は最小限の情報提供で協力を約束。しかし、潜水艦の動力に関する質問には、「電気モーターとディーゼルエンジン」と答える。
慶応三年五月二日(1867年6月4日) ル・アーヴル
日本艦隊はル・アーヴルに到着。榎本武揚は、大村艦隊の技術力の高さに驚く。次郎は、お里、彦次郎、顕武らと再会。フランス海軍の協力で、「大鯨」と「神雷」のセーヌ川遡上が決定するが、フランス側の技術者たちの関心の高さを次郎は警戒する。そんな中、見慣れない少年が「大鯨」を見学したいと現れる。少年の知識の豊富さに、隼人と廉之助は驚く。
慶応三年五月六日(1867年6月8日) セーヌ川・シュレーヌ~パリ
日本艦隊は、セーヌ川を遡上しパリへ向かう。道中、次郎は「大鯨」を見学した少年ジャンと再会、彼は大村藩の手伝いをすることになる。パリ郊外のシュレーヌを出発した艦隊は、イエナ橋などの難所を乗り越え、多くのパリ市民の歓迎を受けながらシャン・ド・マルスに到着。ついに万博会場へ辿り着く。
慶応三年五月七日(1867年6月9日)~ パリ・ブローニュの森
パリに到着した次郎たちは、万博会場での展示準備を進める。大村藩のブースでは、円盤式蓄音機やガソリン自動車、グライダーなどが展示される。グライダーの実演はブローニュの森で行われることが決定。隼人と廉之助は、グライダーの性能や飛行原理について次郎に説明すし、ジャンも熱心に聞き入る。展示初日を控え、準備は最終段階を迎える。
慶応三年五月十日(1867年6月12日)~ パリ 万博会場
パリ万博の日本パビリオンが公開初日を迎える。蓄音機やカメラの実演は好評で、フランスの技術者たちも驚きの声をあげる。ジャンは蓄音機の仕組みに興味津々。ジャンに対してフランスの技術者が接触を試みるも失敗する。夜には白熱電球の実演が行われ、その明るさに観客は歓声をあげる。大村藩の技術力の高さに、フランスの技術者たちは脅威を感じ始める。
慶応三年五月十日(1867年6月12日)~ パリ 万博会場
パリ万博の日本パビリオンは大盛況。蓄音機やカメラの実演は好評で、フランスの技術者たちも驚嘆する。ジャンは蓄音機の仕組みに興味津々で、その知識の深さは次郎たちを驚かせる。夜には電灯の実演を行い、観客は感嘆の声をあげる。展示二日目に向けて、自動車と計算機の準備を進める次郎たちは、日本の技術が世界に与える影響について思いを馳せる。
慶応三年五月十一日(1867年6月13日) パリ 万博会場
万博会場の日本パビリオンは、連日大盛況。この日、実演されたのはガソリン自動車と計算機。自動車は蒸気機関とは異なる内燃機関で動き、静かで排煙が少ないことに観客は驚嘆。計算機は複雑な計算を瞬時に行う性能を実演し、渋沢栄一と五代友厚も感銘を受ける。ジャンは円周率の計算を披露し、その高度な数学知識を周囲に示す。次郎は、自動車と計算機が社会を変える可能性を語り、渋沢と五代も同意する。
慶応三年五月十三日(1867年6月15日) ブローニュの森・万博会場
ブローニュの森で、大村藩のグライダーの実演が行われる。天候にも恵まれ、グライダーは滑らかに飛行、見事成功させる。観客からは歓声と拍手が沸き起こり、ナポレオン三世夫妻も感銘を受ける。グライダーに魅せられたオットー・リリエンタール兄弟は、将来の航空技術への影響を予感する。ジャンも感動し、この日の出来事を心に刻む。次郎は、日本の技術力を見せつけることに成功し、安堵する。
慶応三年五月十五日(1867年6月17日) パリ
パリ万博で、グライダーと自動車の設計図、そして自動車の部品が盗まれる。しかし、これは次郎の策略で、盗まれたのは信之介が用意した偽物だった。次郎の狙いは、各国が技術提携や商取引を求めてくるよう仕向け、大村藩の技術力の高さを印象づけること。お里が犯人の手がかりを得る。一方、隼人はリリエンタール兄弟の素性を調べ、プロイセン情報部との関わりを突き止める。次郎は、プロイセンが犯人と断定。そして、明日は電話機と電磁波の送受信装置の実演を行うと宣言する。
慶応三年五月十五日(1867年6月17日)~二十二日(6月24日) パリ
フランス政府は盗難事件を把握しており、ベルクール元公使が次郎に非公式に謝罪。犯人はプロイセン関係者と推測される。日本は事件を公にせず、フランスとの関係強化に利用する。ベルクールは、甲吉郎のための晩餐会に次郎を招待する。万博会場では、電話と電磁波送受信装置の実演を行い、注目を集める。ドイツ人技術者たちは、盗んだ設計図の解読に苦戦していた。
慶応三年五月十八日(1867年6月20日) パリ
パリで渋沢栄一主催の研究会が開催される。「士魂商才」をテーマに、渋沢は武士の精神と商人の才覚を併せ持つ人材育成の必要性を訴える。五代友厚も西洋の商習慣を学ぶ重要性を指摘。次郎は、産業と技術による国家の自立こそが重要だと主張し、株式会社の仕組みについても言及する。参加者たちは熱心に議論を交わし、日本の近代化について様々な意見が飛び交う。
慶応三年五月十八日(1867年6月20日)~ パリ
研究会後、次郎は渋沢、五代と個別に会談、株式会社設立について意見交換を行う。約束を忘れていたお里とのデートでは、ルーヴル美術館を訪れ、パリの街を散策する。
慶応三年五月二十二日(1867年6月24日) パリ 万博会場
大村パビリオンで、鉄鋼業関係者を招いたアーク溶接の実演が行われる。次郎は、技術漏洩を防ぐため、厳重な情報管理体制の下で実演を実施。高熱で鉄を溶かし接合する技術は、エッフェルをはじめとする技術者たちの注目を集める。次郎は、技術は国の礎であり安易に共有すべきではないと釘を刺しつつも、個別の技術協力は協議の上で進める用意があると表明。
慶応三年五月二十三日(1867年6月25日) パリ 万博会場
長与俊之助による医療技術講演会が開催される。消毒法、麻酔法、ワクチンの3つのテーマで講演が行われ、聴衆の注目を集める。質疑応答では、コッホが細菌の病原性について、リスターが石炭酸消毒法の安全性について、モートンが麻酔深度の制御方法について質問する。俊之助は、それぞれの質問に丁寧に答えていく。
慶応三年五月二十五日(1867年6月27日)~ パリ
大村藩の軍事技術展示が行われ、Gew88小銃やマキシム機関銃、潜水艦「大鯨」、水雷艇「神雷」などが披露される。その高度な技術力に列強諸国は驚愕し、技術提携や情報収集の必要性を痛感する。イギリスは潜水艦の脅威を認識する。展示終了後、各国代表から共同開発や技術交換の申し出が相次ぎ、次郎は日本の技術力の高さを改めて世界に示すことに成功する。
慶応三年五月二十六日(1867年6月28日) パリ
パリ万博会場で、次郎はクルティウスと再会。クルティウスは、イギリスがアラスカの国境問題で次郎と非公式に協議したいと考えていると伝える。次郎は、国交回復には触れないことを条件に協議に応じる姿勢を見せる。一方、次郎は徳川昭武から、万博期間中の同行を申し出られる。昭武の真意を測りかねる次郎だが、彼の申し出を受け入れる。
慶応三年六月二十九日(1867年7月30日) パリ
パリ万博で人気を博す大村藩の展示には、各国の要人からの視察要請が相次ぎ、次郎は対応に追われる。そんな中、クルティウスがイギリスとの非公式会談を仲介する。次郎は、アラスカの国境問題に限って協議に応じる姿勢を見せる。徳川昭武の同席を許し、彦次郎の補佐を得て、イギリス側代表のガウワーとの会談に臨む。再会の挨拶を交わした次郎とガウワーだが、昭武が二人の間に割って入り、「因縁の対決」と発言したことで、緊迫した空気が流れる。
慶応三年六月二十九日(1867年7月30日) パリ
イギリスとのアラスカ国境画定問題をめぐる非公式会談がパリで行われる。ガウワー、ヒュースケンらイギリス側と、次郎、彦次郎、徳川昭武ら日本側が出席。ガウワーは国交のない状態での国境画定の矛盾を指摘するが、次郎は逆にイギリスのアラスカへの干渉権限のなさを突く。昭武の鋭い質問により、イギリスはアラスカの日本領有を認めざるを得なくなる。国境画定について基本合意に達するも、イギリスは国交回復の意図を隠そうとしない。会談後、次郎たちは昭武の活躍を評価する一方、彼の予想外の言動にハラハラする。
はい、承知いたしました。以下のようにまとめます。
慶応三年七月一日(1867年7月31日)
パリを舞台に、日本代表の次郎と昭武はイギリスとのアラスカ国境画定交渉に臨む。イギリス側は国境問題に加えて国交回復と、その裏にある日本の技術協力を求めてくる。交渉では昭武がアラスカにおける日本の完全な主権を認めさせるという大きな成果を上げた。次郎は、イギリス側の本音である技術協力に対し、「民間交流」という可能性を示唆して希望を持たせつつ、交渉の主導権を確保。まずは国境画定に集中することで合意を取り付けた。
慶応三年七月二日(1867年8月1日)
交渉最終日、日本とイギリスはアラスカ国境画定合意文書の最終調整に入る。イギリス側はさらに国交回復への道筋として『英日和親条約草案』を提示するが、次郎はその内容を精査。昭武の懸念も汲み取り、技術協力の条項を「民間企業の自主的判断」と修正させた上で、正式な約束を避け「検討材料」として草案を預かる。これにより国境画定の署名を無事に終え、交渉を巧みに妥結させた。
慶応三年七月三日(1867年8月2日)
交渉を終えた次郎は、イギリスが新設した「カナダ自治領」の存在という重大な見落としに気づく。このままでは将来、イギリス側に有利な条件で再交渉を強いられる危険があった。一方、日本の見落としを交渉の切り札と考えていたイギリスのガウワーは、次郎からの再会談の申し入れに驚愕する。自らの戦略を見抜かれたガウワーに対し、次郎は形勢を逆転させ、完璧な合意を目指し最終交渉に臨む。
慶応三年七月四日(1867年8月3日)
次郎は再交渉で、国境合意にカナダ自治領の承認を盛り込ませることに成功した。一方、交渉から疎外されたカナダ首相マクドナルドらはイギリスに反発し、日本の協力を得て国家統一と自立を目指すことを決意する。次郎はこの動きを読み、カナダに協力することで北米に新たなパートナーを得て、イギリスの影響力を削ぐという大きな戦略を描いていた。
慶応三年七月十五日(1867年8月15日)
カナダ首相マクドナルドとブリティッシュ・コロンビア総督が次郎を訪問。日英交渉から疎外されたことを受け、イギリスを介さない日本との直接的な経済協力を提案する。鉄道建設や資源開発での技術支援を求める彼らに対し、次郎はこの申し出を好機と判断。カナダがまだ知らない豊富な地下資源の情報を武器に、政府全権の慶勝との会談を約束し、北米における新たな外交の道筋をつけた。
慶応三年七月十六日(1867年8月15日)
幕府代表の慶勝は、フランスから六百万ドルの資金援助と引き換えに技術供与を求められるが、詳細の決定を保留する。一方、次郎は慶勝にカナダからの協力要請を報告し、これがイギリスの影響力を削ぎ、日本の技術発展に繋がる好機だと説いた。慶勝は次郎の意見を全面的に採用し、フランスには限定的な技術を、カナダには民生技術をと、相手によって供与内容を使い分ける多角的な外交方針を決定した。
慶応三年七月二十一日(1867年8月20日)
日仏間の技術供与交渉が始まった。フランスが最も求める無煙火薬の技術に対し、次郎はその供与が欧州の軍事バランスを崩壊させる危険性を指摘。日本の安全保障上、特定の国のみに軍事技術は渡せないと宣言し、他国にも同条件で供与する方針を示す。フランスは単独の優位性を失うが、火薬技術の優先供与を受け入れ、日本は技術移転を段階的に行うことで合意。巧みな交渉で主導権を握った。
慶応三年七月二十一日(1867年8月21日)
日仏交渉で、次郎は無煙火薬の実用化には高強度な特殊鋼の技術が不可欠であると指摘。火薬と製鉄の技術を別個の供与案件として提示し、総額1800万ドルという高額な条件を引き出す。さらにアメリカなど他国も関心を示していると伝え、フランスに「39か月の技術独占期間」という付加価値を与えて決断を迫った。フランス側はこの条件を受け入れ、日本は交渉を完全に主導した。
慶応三年八月二十一日(1867年9月18日)
日本はフランスに加え、オランダ、ロシア、アメリカとも技術供与で合意。その後、慶勝と次郎はカナダ首相らと会談し、アラスカ国境問題での相互理解を確認する。本題のカナダ大陸横断鉄道計画に対し、次郎は日本の地質調査技術を提示。クロンダイクの金鉱など、未発見の豊富な地下資源の存在を示唆し、鉄道建設の資金問題を解決できる可能性を示すことで、カナダ側の期待を最大限に引き出した。
慶応三年八月二十一日(1867年9月18日)
日加会談で慶勝と次郎は、鉄道建設と資源開発の技術協力を「民間契約」として進めることを提案。イギリス本国の干渉を避けつつ、発見した資源の優先取引権を確保する。さらに、カナダ側の独立への願望を見抜き、日本が将来の独立国家としてカナダを見ていると明言。この発言はカナダ側の心を掴み、単なる技術協力を超えた戦略的パートナーシップの基盤を築くことに成功した。
慶応四年一月二十五日(1868年2月18日)
パリから帰国した幕府使節団の慶勝は、大村藩の技術力なくしては幕府の近代化は不可能であり、公儀の在り方を変える必要があると痛感していた。一方、大村藩に戻った次郎は、藩主の純顕が既に憲法制定や議会開設の必要性を認識していることに驚く。二人の意見は一致し、まずは合議制を各藩主に広げ、その後、憲法制定と二院制議会を導入するという、日本の新たな国造りに向けた改革が始まった。
慶応四年二月二十八日(1868年3月21日)
江戸へ向かう途中、岩倉具視から朝廷が『大政委任の宣旨』を出したと聞き、次郎は不吉な予感を抱く。江戸城では将軍慶喜と安藤信正から、雄藩大名たちが合議制から離脱したと告げられる。次郎の外交成果で財政問題に目途が立った幕府は、雄藩の協力は不要と判断し、幕府中心体制への回帰を狙っていた。この一方的な方針転換に、大村藩主の純顕は激怒し、即座に政権からの離脱を宣言した。
慶応四年二月二十八日(1868年3月21日)
江戸城で純顕は、幕府が一方的に合議制を反故にしたことを「狡兎死して走狗烹らる」と厳しく非難した。そして、今後の国政として、全藩と朝廷が参加する「貴族院」の設立を提言する。これは実質的に幕府の権力を議会に移すものであり、幕府側は衝撃を受ける。慶喜が返答に窮する中、純顕は「容れられなければ政には関わらない」と言い放ち、諸藩を巡る遊説と、有事に備え北の松前藩との連携準備を開始した。
慶応四年三月二日(1868年3月25日)
松前藩を訪れた次郎は、藩主崇広から「大村藩と一蓮托生」という固い盟約を得る。一方、尾張で慶勝と会談した純顕は、幕府の合議制解散に危機感を抱く慶勝から、自ら慶喜を説得するという約束を取り付ける。その頃江戸では、小栗上野介が合議制解散の愚策を慶喜に諌めていた。慶喜は諸藩の非難に辟易していたが、事態を深刻に受け止め、小栗の提案に望みを託すことを決める。
慶応四年三月五日(1868年3月28日)
薩摩藩では、大老院解散の報を受け、島津久光が幕府への対決姿勢を鮮明にする。淀屋清兵衛の財力と、忠義の冷静な分析を背景に、武力も辞さない構えで新体制樹立を目論む。一方長州藩でも、若き志士たちが倒幕への意欲を高める中、周布政之助が朝廷工作による大義名分の獲得を提案。木戸孝允は大村藩との連携を提唱し、日本の政局は倒幕へと大きく傾き始めた。
慶応四年三月九日(1868年4月1日)
小栗上野介は慶喜に、雄藩の不満を解消するため、大村純顕の「貴族院」案を幕府主導で実現し、その中で親幕府派の「政党」を結成して主導権を握るという大胆な策を提言する。一方、宇和島藩の伊達宗城は幕府を見限るか苦悩し、土佐藩の山内容堂は藩内の複雑な事情から態度を決めかねていた。その頃、慶喜は朝廷に上奏し、諸藩との協調姿勢を示しつつ、新たな政の仕組みを自ら構築する意志を表明していた。
慶応四年三月十日(1868年4月2日)
次郎は奥州諸藩を巡り、大村藩が提唱する「貴族院」構想への支持を説いて回る。弘前、盛岡、仙台、秋田と、各藩は幕府や薩長とは異なる第三の道に活路を見出し、次郎との同盟関係を強化していく。一方京都では、徳川慶喜が朝廷に恭順の意を示し、幕府主導の議会設立で先手を打ったことで、岩倉具視と大村純顕は危機感を募らせていた。彼らは慶喜の策に対抗するため、薩長とも連携し、独自の議員を推挙する新たな策謀を開始する。
慶応四年(明治元年)三月二十八日(1868年4月20日)
徳川慶喜は幕府主導の『公儀貴族院』を掲げ、諸大名に高圧的な書状を送るが、その内容は反発を招きかねないものだった。先手を打たれた薩摩と長州は、それぞれ「大政奉還」の実現へと動き出す。一方、京では大村藩と岩倉具視が朝廷工作を進め、家臣の次郎は北陸で着実に味方を増やしていた。江戸城では外交問題も山積し、各勢力の思惑が絡み合い、政局は混迷を深めていく。
慶応四年(明治元年)四月一日(1868年4月23日)
江戸城では、川路聖謨ら元外国奉行たちの進言を受け、徳川慶喜が大村藩との和解を決意する。しかしその直後、京で薩長蜂起の風聞が立つと、慶喜はこれを逆手に取り、自ら上洛して「禁裏御守衛総督」に就任することで帝の身辺を固め、政局の主導権を完全に握り返そうと画策する。一方、諸藩の歴訪を終えた次郎は京都に到着していた。
慶応四年四月十日(1868年5月2日)
奥州諸藩の説得を終えた次郎が京で純顕と合流した矢先、徳川慶喜が電撃的に上洛し「禁裏御守衛総督」に就任する。さらに慶喜は自ら大村藩邸を訪れ、純顕と次郎に過去の非礼を謝罪し、貴族院構想への協力を持ちかけた。この巧妙な一手により、薩摩・長州両藩は朝廷工作の道を完全に断たれ、手も足も出ない状況に追い込まれる。
慶応四年四月十七日(1868年5月9日)
徳川慶喜の呼びかけで『小御所会議』が開かれ、各勢力の代表者が一堂に会した。慶喜は自ら貴族院設立を提唱するが、薩摩や長州は幕府に有利な構造であると反発し、大政奉還を優先すべきだと主張する。議論が紛糾する中、慶喜は各派の意見を引き出して対立を明確化させ、自らが調停役として主導権を握ろうと画策。最後に石高に応じた票数配分という妥協案を提示し、議論を有利に進めようとした。
慶応四年四月十七日(1868年5月9日)
御所での小御所会議にて、徳川慶喜が提案した石高に応じた議会設立案を巡り議論が紛糾する。その中で大村藩の純顕は、石高に「経済規模」を加える新たな基準と、考えを同じくする者で「政党」を結成する画期的な仕組みを提案する。慶喜もこれを受け入れ、議会設立が合意に至るかと思われた瞬間、京の佐幕派・尊皇派双方の拠点が同時に放火されるという凶報が舞い込む。会議は混乱し、見えかけた新しい国の形に暗雲が立ち込める。
慶応四年四月十八日(1868年5月10日)
小御所会議翌朝、京で起きた連続放火は小規模な鎮火に終わる。しかし、佐幕・尊皇双方の拠点が狙われたことで各勢力に深い疑念を生んだ。薩摩や長州は互いや大村藩の関与を疑うが、大村藩の次郎は、自藩の技術力を使えばより大きな混乱を起こせると論理で反論し、潔白を示す。数日後、全く関連性のない4名の容疑者が浮かび上がり、事件の謎はさらに深まっていく。
慶応四年四月二十五日(1868年5月17日)
京都で発生した同時多発火災に、大村藩が極秘開発したガソリンが使われたことが発覚する。内部調査で藩の役人の横流しが判明し、大村藩は政治的窮地に立たされる。これに対し家老の次郎は、藩主の純顕と共に自ら蟄居し、幕府と朝廷に裁断を委ねるという奇策を講じる。一方、事件の黒幕を掴めずにいた幕府の慶喜のもとにこの前代未聞の報せが届き、衝撃を受ける。
慶応四年五月一日(1868年6月20日)
大村藩主・純顕と家老・次郎が、ガソリン横流し事件の責任を取り謹慎し、その処分を幕府と朝廷に委ねる。この異例の申し出に、幕府では京都守護職・松平容保が厳罰を主張するが、総督・慶喜は責任問題を逆手に取った大村側の深謀を察し、これを退ける。一方、朝廷でも佐幕派が「不敬」と憤るが、岩倉具視がその真意を説いて場を収める。幕府と朝廷は、大村藩が投じた策への対応に迫られた。
慶応四年五月三日(1868年6月22日)
大村藩への沙汰が下った。幕府総督・慶喜は、罰ではなく責務として「重要技術管理法案」の提出を命じる。これは、大村藩の技術を幕府の管理下に置こうとする政治的な一手だった。慶喜は自らも朝廷に謝罪し、岩倉具視の協力も得て事態を収拾する。その裏で、加賀藩には火災の実行犯と黒幕の繋がりを示唆する新たな情報がもたらされる。事件は政治的に決着したかに見えたが、その謎は深まっていく。
慶応四年五月三日(1868年6月22日)
洛中火災事件の波紋が広がる中、加賀藩に犯人の一人である琉球の元役人が、薩摩以外の謎の人物と密会していたとの情報がもたらされる。一方、大村藩と幕府の政治的決着に、薩摩と長州は疑念を深める。薩摩は幕府と大村の密約を危惧し、長州は梯子を外された形で藩論が揺らぐなど、薩長の足並みに乱れが生じ始めた。渦中の大村藩では、家老の次郎が慶喜の策を逆手に取り、幕府が到底扱いきれないような高度な法律を作ることで、主導権を握り返そうと画策していた。
慶応四年五月四日(1868年6月23日)~六月二十三日(1868年8月11日)
薩摩藩では体調を崩した小松帯刀が大村藩病院で「脚気」と診断され、半信半疑ながらも食事療法を開始する。一方、加賀藩は洛中火災の犯人たちの背後にいる同一人物の存在を突き止め、この情報を幕府と大村藩に伝えることを決断する。その頃、大村藩では次郎が幕府からの「重要技術管理法」の作成命令を逆手に取り、日本の産業基盤そのものを規定する「標準規格」「専売特許」「危険物取扱法」の三大法制度を創設し、その運用組織を事実上支配するという壮大な計画を進めていた。
慶応四年五月~六月(1868年7月~8月)
横浜で行われた幕府とフランスの技術協議は、幕府側の技術力不足で停滞するが、大村藩から派遣された次郎の弟・隼人らが近代的な知識で問題を解決し、技術の主導権が完全に大村藩にあることを知らしめる。一方、京都では加賀藩の隠密からもたらされた情報により、洛中火災の背後にいる黒幕の存在がより確定的になるが、その正体は依然として謎に包まれていた。その裏で、新選組の動きを先読みして危機を回避する勢力が現れるなど、水面下では新たな陰謀が蠢き始めていた。
慶応四年八月~九月(1868年9月~11月)
大村藩が作成した「重要技術管理法案」を審議するため、朝廷、幕府、薩長、大村の要人が集う小御所会議が開かれる。議場が幕府と薩摩の主導権争いで紛糾する中、大村藩の次郎が進み出る。彼は、権力闘争による内乱を避けるには、中立な朝廷の「典薬寮」に新制度を置く以外に道はないと説く。その完璧な論理の前に誰も反論できず、法案は原案通り可決。しかし、敗北した慶喜と久光の胸には、政党という新たな戦場へ向かう闘志が静かに灯った。
慶応四年八月十三日(1868年9月28日)
小御所会議で敗れた慶喜は、議会運営の主導権を握るため、議場を二条城とし自らが議決を奏上する巧妙な策を打ち出す。この動きを察知した大村藩の次郎は、数の不利を悟り、親幕府派に対抗する「政党」の結成を決意。一方、政争から疎外された薩摩藩では久光が武力行使に傾くなど、各勢力の思惑が交錯し、政党政治の胎動が始まった。
慶応四年八月十五日(1868年9月30日)~八月二十日(1868年10月5日)
徳川慶喜が親幕府派五十藩を束ねて『公議政体党』を結成し、議会の主導権を握ろうと動く。これに対抗すべく、大村藩の次郎も『日本公論会』の結成を決意し、日本の政局は二大政党の対立という新時代に突入する。一方、この政争から疎外された薩摩藩は、表向きは大村藩に協力し、その力を利用して幕府を追い詰め、討幕へと誘導するという巧妙な二枚舌戦略を画策。各勢力が言論と武力を背景に激しい駆け引きを開始した。
慶応四年八月下旬~九月(1868年10月)
薩摩藩と長州藩がそれぞれ諸藩を率いて、大村藩の『日本公論会』への参加を表明。これにより会は慶喜の『公議政体党』と拮抗する巨大勢力へと変貌する。しかし、開会された第1回貴族院では、長州藩が過激な幕府批判を展開し、早くも会派内の不協和音が露呈した。その矢先、会津藩の兵糧倉庫で火災が発生。京都守護職・松平容保はこれを長州の仕業と断定し、市内の長州藩士への徹底的な弾圧を命令。議会での政争は、京の街を舞台にした武力衝突へと発展する寸前の、危険な緊張状態に突入した。
慶応四年九月二日(1868年10月17日)
会津藩の倉庫火災を口実に、京都守護職による無法な「長州狩り」が始まった。議会で大村藩の次郎は弾圧を非難するが、慶喜に理想論と一蹴される。しかし次郎は、論点を警備の杜撰さに切り替え、逆に守護職の無能さを弾劾して慶喜を論破。拷問の禁止など捜査に厳しい制限を課すことに成功する。その裏では、次郎の行動を正確に予測し、京の混乱を画策する謎の勢力が暗躍していた。
慶応四年九月三日(1868年10月18日)
議会での弾圧停止の決定は、新選組が「任意同行」という命令の抜け穴を突くことで反故にされ、長州藩士の不満は爆発寸前となる。もはや藩士を抑えきれないと悟った家老の周布と久坂は、藩の誇りを捨てて大村藩の次郎に土下座して調停を懇願。事態の深刻さを理解した次郎は、藩主・純顕自らが動く以外に道はないと決意する。
慶応四年九月三日 夜更け
議会の決定が現場で無視され、新選組による「任意同行」という名の弾圧が続く中、長州藩の怒りは暴発寸前となる。家老の周布と重臣の久坂は、藩の誇りを捨てて大村藩の次郎に土下座し、調停を懇願する。事態の緊急性を悟った次郎は、深夜に主君・純顕の寝室へ直談判するという禁を犯して、純顕自らの出馬を取り付ける。翌日、純顕は二条城で慶喜と容保に会談。議会の権威を盾に二人を論破し、不当な捕縛の中止と捕縛された者の公正な扱いを約束させた。この大村藩主直々の介入という成果が、長州藩の暴発を寸前で食い止め、京に一時の安堵をもたらした。
慶応四年九月四日(1868年10月19日)
自らの過ちを認めた京都守護職・松平容保は弾圧を停止し、捕らえられていた長州藩士を解放。事態は沈静化に向かうかに見えた。しかしその夜、何者かの巧妙な挑発により、料亭で解放された長州藩士と見廻組が衝突し、血で血を洗う乱闘へと発展する。現場に急行した新選組の土方歳三が公平に双方を鎮圧するも、一時の安堵は最悪の形で裏切られ、長州藩の周布と久坂は再び絶望の淵に立たされた。
慶応四年九月~十月(1868年10月)
料亭での乱闘事件の捜査は難航し、京の治安は悪化の一途をたどる。事態を収拾するため、徳川慶喜は政治的決断として見廻組の隊士に切腹を命じ、長州藩にも同等の責任を取るよう迫る。これに対し長州藩の重臣・周布政之助は、藩を守るため自ら切腹。しかしその直後、大村藩が事件の真犯人を捕縛して慶喜の前に突きつける。慶喜は自らの判断の過ちを認めず、長州藩の怒りは消えない憎悪へと変わり、復讐の炎が燃え上がり始めた。
慶応四年十月十四日(1868年11月27日)
周布政之助の死後、大村藩は真犯人を新選組に引き渡し、共同で尋問を行う。しかし、黒幕に繋がる情報は得られず捜査は難航。この事態を受け徳川慶喜は、政治的決断として京都守護職・松平容保を罷免し、弟の定敬に権力を集中させることで事態の収拾を図る。この冷徹な政治手腕に次郎は戦慄するが、同時に日本の司法制度そのものの欠陥を痛感し、「三権分立」と新たな法の制定という、国家の根幹を揺るがす壮大な構想を描き始める。
慶応四年十月二十日(1868年12月3日)
周布政之助の死を受け、長州藩と薩摩藩は議会への出席を見合わせる。これにより議会内での発言力が弱まることを懸念した次郎は、党内の諸藩を集め、法の制定・執行・司法を分離する「三権分立」の構想を説く。幕府による支配の不合理性を訴える次郎の言葉は、諸藩が抱いていた不満を顕在化させ、党内の結束を強める。一方、薩摩藩内では、慶喜の強権的な手法に危機感を覚えた西郷らが、長州との連携による武力討幕へと思いを巡らせていた。
慶応四年十月二十七日(1868年12月10日)
長州藩では高杉晋作を中心に武力討幕論が主流となり、大村益次郎の指導のもと軍備増強を急ぐ。その長州に薩摩から軍事同盟の申し入れがあり、両藩は水面下で連携を模索し始めた。一方、京では岩倉具視が幕府の統治能力の低下を孝明天皇に奏上。天皇の勅許を得て、大村藩に天皇直属の軍事組織『近衛府』と監察・司法機関『弾正台』を創設・管轄させるという、幕府の権威を根底から揺るがす策を実行に移した。
慶応四年十月二十九日(1868年12月12日)
岩倉具視の策により、朝廷は大村藩に天皇直属の「六衛府」と「弾正台」を創設・管轄させる勅許を発する。徳川慶喜はこれを表向きは受け入れつつも、議会で法案を骨抜きにし、新組織を形骸化させる。しかし、次郎はこの動きを予測しており、京都の民衆の前で電気のデモンストレーションを行い、街灯設置を約束することで絶大な支持を獲得。議会での劣勢を技術力で覆し、民衆を味方につけて形勢を逆転させる。そして、次郎は新たに得た弾正台の権限で、以前から疑っていた内通者の捜査に乗り出した。
慶応四年十一月上旬(1868年12月中旬)
朝廷による大村藩への勅許は、横浜の各国公使館に日本の統治権を巡る混乱をもたらす。各国からの面談要求に対し、次郎は「万世一系の天皇」の下での「政権交代」であり、内乱には至らないと説明。フランス公使アウトレイをはじめ列強の外交官たちは、日本の特殊な国家構造を理解し、その安定性に納得する。次郎が外交戦の裏で着々と計画を進める一方、薩摩藩にはイギリス商人から秘密の取引を持ちかける電信が届き、新たな動きが始まろうとしていた。
慶応四年十一月中旬(1868年12月下旬)
長崎の料亭で、薩摩の小松帯刀、長州の井上馨、伊藤博文の三人が、スコットランド商人トーマス・グラバーと密会する。グラバーは武器の密売ではなく、兵器製造技術を持つスコットランド人技術者を両藩に派遣する「人材派遣ビジネス」を提案。これは、兵器輸入取締令に抵触せず、両藩が大村・佐賀藩に依存することなく軍事力を強化できる画期的な策であった。この密約により、薩長は討幕に向けた軍備の自給自足への道を確保し、歴史の歯車は大きく動き始める。
慶応四年十二月八日(1869年1月20日)
江戸から京に戻った次郎は、薩摩と長州が長崎で国籍不明の外国人と密会しているとの電信を受け取る。スコットランド訛りの英語という情報から、次郎は相手を商人トーマス・グラバーと推測。武器密輸とは考えにくい密談の意図を探るべく、主君・純顕の許しを得て長州へ向かうことを決意する。純顕は、武力に傾く薩長を抑え、合議による政体変革を成し遂げるには時間がかかりすぎると懸念を示し、次郎もまたその焦りを共有していた。
慶応四年十二月十日(1869年1月22日)
次郎は長州を訪れ、井上馨と伊藤博文に接触する。グラバーとの密談を問い詰められた二人は、幕府に対抗するための兵器製造技術の導入計画を認める。次郎は、外国勢力との結びつきが幕府に征伐の口実を与えると警告し、グラバーの提案を保留させる。そして、幕府が不当に長州を攻めた際には「加勢せぬ事もない」と約束。これは中立を掲げる大村藩の方針を大きく転換させる発言であり、次郎は幕府との対立も辞さない覚悟を示した。
慶応四年十二月二十日(1869年2月1日)
長州との交渉を終え、鹿児島へ向かう船上で次郎は、内乱を避けたい理想と、薩長に加勢せざるを得ないかもしれない現実との間で葛藤していた。鹿児島では西郷、大久保らと対峙し、長州を説得したことを切り札に、薩摩にもグラバーとの技術導入契約を保留させることに成功する。次郎は幕府が不当に武力を行使した際の協力を約束することで、薩長の暴発をかろうじて抑えた。その頃、江戸城では将軍家茂が、京での騒乱について慶喜の報告と実情の乖離を問い詰めており、幕府中枢に不協和音が生じ始めていた。
慶応四年十二月二十日(1869年2月1日)
江戸城で将軍家茂は、京での騒乱の収拾における大村藩の功績と慶喜の報告の乖離を指摘し、慶喜に大村藩との協調を諭す。一方、京に戻った次郎は、薩長の武力討幕の意志が消えていないことを純顕に報告し、事態の仕切り直しを決意。数日後、貴族院で慶喜は突如、議場の移転と議長の交代を提案し、自らの決定を覆す。次郎が新議長に選出され、議会は新たな局面を迎える。その裏で慶喜は、次郎と純顕を夕食に招き、次なる一手を探り始めた。
慶応五年二月五日(1869年3月17日)
徳川慶喜は、大村藩主・純顕と家老・次郎を夕食に招き、幕府の要職に就くよう懐柔を試みる。慶喜は徳川中心の秩序維持を説くが、次郎は参勤交代などの制度を例に挙げ、それが徳川による力での支配に過ぎないと論破。慶喜の懐柔策は不発に終わる。しかし次郎は、幕府からの申し出を受ける条件として、ある提案を突きつける。慶喜の懐柔は失敗し、逆に次郎が交渉の主導権を握る形で会談は新たな局面を迎えた。
慶応五年二月五日(1869年3月17日)
徳川慶喜の懐柔策に対し、次郎は幕府の財政基盤である天領の議会への移管と、譜代・外様の別なく能力主義で人材を登用するという、徳川の支配体制を根幹から覆す条件を突きつける。激昂した慶喜は交渉決裂を宣言するが、退席しようとする次郎と純顕を寸前で引き止め、将軍の意向を確認した上で条件を検討する可能性を示唆。徳川の支配の終わりを告げる静かな宣戦布告は、予期せぬ形で幕府側に受け入れられ、日本の歴史は新たな転換点を迎えた。
慶応五年二月十五日(1869年3月27日)
江戸から戻った徳川慶喜は、将軍家茂の意向として、次郎が提示した「天領の議会管理」と「幕府人事の開放」という二大法案を貴族院の採決に委ねることを宣言する。これは、現状では否決確実な議会で徳川の正統性を再確認しようとする慶喜の巧妙な罠であった。次郎はこの挑戦を受け入れ、採決前に詳細な審議を行うための委員会設置と一ヶ月の猶予を要求。慶喜もこれを認めるが、審議にも期限を設け、両者の攻防は議会での多数派工作という新たなステージへと移行する。この政治的駆け引きの裏で、薩長は議会制度の本格化に焦りを募らせ、武力討幕への意志を固めていた。
慶応五年二月十六日(1869年3月28日)
次郎は、議会での劣勢を覆すべく、徳川御三家筆頭の徳川慶勝を説得するため名古屋城へ向かう。慶勝は当初、徳川の根幹を揺るがす次郎の法案に激しく反発するが、次郎は内乱の危機と大村藩の中立離脱を示唆し、慶勝を脅迫に近い形で追い詰める。最終的に、次郎は法案への賛同が徳川家を救う「真の忠義」であると説き、慶勝を説得。慶勝の支持を取り付けたことで、次郎は徳川譜代大名への切り崩しという、議会での多数派工作の第一歩を記した。
慶応五年三月一日(1869年4月12日)
徳川慶喜は、法案否決に向け東北諸藩の取り込みを図り、仙台藩主・伊達慶邦と会談する。慶喜は、大村藩の法案が徳川の支配を覆し、ひいては全大名の所領没収に繋がりかねないと説き、奥羽諸藩の取りまとめを依頼する。一方、慶喜の命を受けた勝海舟は土佐で山内容堂を説得するが、容堂の鋭い論理の前に返り討ちにあう。容堂は、議会を欠席している薩長が「朝敵」と見なされる危険性を察知し、次郎に警告を発するなど、各藩がそれぞれの思惑で動き始め、議会での多数派工作は混迷を極めていた。
慶応五年四月一日(1869年5月12日)
徳川慶喜は、大村藩の法案に対し「反対」から「時期尚早」へと方針を転換し、議会での多数派工作を進める。京都で開かれた「公儀御料所詮議方」では、大村藩側が財政改革の理念を説くが、慶喜側の幕府実務官僚が長年の経験に基づく具体的な問題点を突きつけ、議論の主導権を握る。理想論と現実論が激しく衝突し、詮議は膠着状態に陥った。次郎は、旧知の渋沢栄一が幕府側にいることに複雑な思いを抱きながら、この難局をどう乗り越えるか、次の一手を模索していた。
慶応五年四月一日(1869年5月12日)
詮議方での敗北を受け、大村藩邸では重い空気が流れていた。しかし、次郎は隠密が入手した幕府の財政帳簿の写しを提示する。そこには、歳入の3分の2を貨幣改鋳益が占め、それを除けば大幅な赤字であるという衝撃的な事実が記されていた。この決定的な証拠を得た次郎は、数日後の詮議方で、幕府財政の現状を明らかにするよう要求。幕府側の「時期尚早」という主張の根拠を突き崩し、議論の主導権を完全に奪い返した。
慶応五年四月一日(1869年5月12日)
徳川慶喜は、大村藩が入手した幕府の財政帳簿を逆手に取り、次郎を国賊として断罪する策を練る。詮議方で次郎の帳簿の入手経路を問い詰めるが、次郎は「拾った物」と主張。その真偽を確かめるため、幕府に公式な出納帳の提出を要求するという奇策で応戦する。このあまりにも正当な要求に幕府側は反論できず、慶喜の策は完全に裏目に出た。結果、幕府は出納帳の提出を余儀なくされ、大村藩が提出した二つの法案は本会議に付託されることが決定。
慶応五年四月十日(1869年5月21日)
貴族院本会議で「公儀御料所管理法案」の採決が行われる。次郎と小栗上野介による息詰まる論戦の末、法案はわずか七票差で否決された。しかし、勝利に沸く公議政体党から、幕府の譲歩案として「勘定奉行の任命に議会の承認を要する」「官吏登用試験の導入」という付帯決議が提出され、可決される。これにより、次郎の改革案の核心部分が実現することになった。徳川慶喜は天領こそ守り抜いたものの、幕府の権威が決定的に揺らいだことを痛感し、議会政治の本格的な幕開けを予感するのだった。
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