年表
以下、旧暦表示。随時更新します。
1837年
天保7年11月
幕末大村藩に転生した主人公。妻と子に驚き、純顕・純熈に仕え列強に対抗することを決意。前世の記憶を頼りに、この時代を生き抜くことを誓う。
天保7年12月
玖島城へ。前世の友人と瓜二つの山中信之介に出会い、彼も未来の夢を見るという。 純顕に謁見。藩の財政改革を託される。信之介の夢は未来なのか? 石鹸で金儲けを計画。タイムスリップしてきた尾上一之(一之進)と出会う。石鹸作り開始も失敗。灰汁が必要だと信之介に教わる。原価計算を行う。
天保8年1月
石鹸製造の材料、費用、販売方法を検討。ロウソクも候補に挙がるが、石鹸に絞り、原料調達と人件費を試算。石鹸の販売戦略を策定。藩主一家への試供と口コミ販売で需要創造を狙う。原価と売価のバランスを検討。様々な香りの石鹸試作品完成。お里のアイデアで商品価値を高める。
天保8年2月
石鹸大量生産に向け、原料調達と人件費の課題を検討。お里の発案で香料を添加し差別化を図る。
天保8年3月
純顕に石鹸を献上し販売許可を得る。佐賀藩の動向に警戒。お里が反射炉製造のため技術書翻訳開始。一之進は食糧調査で栄養不足を発見。
天保8年4月
モリソン号事件阻止のため、異国船打払令に関する建白書を作成・提出。肉不足による栄養バランスの悪さを一之進と議論。食生活改善策を検討。大浦慶と石鹸販売契約締結。長崎で販路を確保。
天保8年5月
石鹸販売好調を報告も、藩重臣から妬まれ、偽物が出回る。
天保8年6月
何者かの襲撃を受け、右腕を負傷。一之進の治療で回復。襲撃の黒幕を推理。
天保8年7月
石鹸製法改良のため、信之介とルブラン法、ソルベイ法などを検討。
天保8年8月
純顕の幕府への建白書却下。長崎聞役常駐化、白帆注進の心得を提案。
天保8年9月
信之介にゲベール銃複製を依頼。火薬製造と硝石確保も必要。
天保8年10月
佐賀藩の技術導入調査に警戒。
1838年
天保8年12月
平山醇左衛門とオランダ語で情報交換。石鹸製法は秘匿。
天保9年1月
小曽根六左衛門と取引開始。販路拡大。
天保9年4月
ゲベール銃完成。信之介に雷管式銃開発依頼。硝石製造検討。
天保9年11月
江戸着。献上品を石鹸に変更。
天保10年(1839年)
5月
政治: 次郎左衛門、大村藩家老に抜擢。江頭官太夫も家老に就任。大村藩は津留政策廃止、相対貿易許可、城下大給禄高統一、中堅藩士待遇改善などの改革を実施。
経済: 次郎左衛門、石鹸の薄利多売を検討するも販売上限から断念。ロウソク製造も原価高で断念。
技術: 石鹸からのロウソク製造方法考案するも採算合わず断念。
7月
経済: マッチ製造を検討するも化学物質製造の困難さから保留。高炉と反射炉建築、製鉄事業開始決定。椎茸栽培研究開始。
技術: 高炉・反射炉建設のため波佐見村の窯元に耐火レンガ製造依頼。コークス製造用ビーハイブ炉建設も計画。
8月
技術: 波佐見村で耐火レンガ製造開始。炭焼き職人に石炭からのコークス製造方法伝授し製造開始。
9月
政治: 唐津藩で百姓一揆発生。佐賀藩は国境警備強化。
経済: 大村藩財政難と深澤家破綻の経緯説明。深澤家捕鯨事業復活と藩への借債返済計画。
10月
経済: 江島村で深澤家後継者と交渉、捕鯨事業復活に合意。藩が資金提供、収益を借財返済に充てる計画提示。
技術: 一之進、ペニシリン製造実験失敗。原因分析し実験方法修正。
11月
技術: お里、椎茸栽培に向け菌糸採取・培養、培地作成、殺菌、種駒作成など実施。
軍事/政治: イギリスのアヘン密輸と清との貿易摩擦激化。イギリス議会にてアヘン戦争開戦決定、勃発。
経済: 大村藩主、京都から織物職人井関武輔を招聘し西陣織導入。佐賀藩、多額の借財を50年払いでリスケ。江戸幕府で水野忠邦が老中首座就任。蛮社の獄で渡辺崋山蟄居、高野長英永牢。
技術/その他: 弟の隼人、信之介に師事し蘭学を学ぶことを希望。
天保11年(1840年)
1月
経済: 大村藩の借財を深澤家が肩代わりしていたことが判明。石けん事業の利益を返済に充てることが決定。以前は捕鯨の先納銀で借金を返済していたが、現在は捕鯨事業を行っていないため、先納銀は藩の歳入となっている。
技術:次郎が新しい捕鯨の方法と船の調達を提案。オランダ船の構造を学ぶため、船大工の長崎奉行所への派遣を藩主に依頼。佐賀藩が洋式帆船を建造している情報を次郎が入手。椎茸栽培の研究を進めていることを次郎が報告。鉄の大量生産のための高炉と反射炉の設計図作成中であること、燃料として石炭の代替に大島で発見された石炭の使用を検討していることを次郎が報告。捕鯨銃の開発を信之介が進めている。
その他: 次郎と信之介の負担についての話し合い。次郎が防衛大学校卒業であることが判明。
2月
技術:硝石丘法による製造開始、椎茸栽培、ペニシリンの研究、雷管・捕鯨銃・捕鯨船の開発、耐火レンガ製作、コークス製造、高炉と反射炉の建造準備、蒸気機関開発、鯨組の人員教育など、様々なプロジェクトの進捗状況を確認。人材不足のため、アシスタントの雇用と学校の設立を検討。教育内容や対象者について議論。
3月
技術: 蘭学導入のため、藩校五教館に蘭学を取り入れることを藩主に提案。立石昭三郎をオランダ語教授として招聘。ゲベール銃の製造と洋式調練の必要性を訴える。
その他: 私塾設立の許可を得る。資金は次郎の裁量で賄うことに。
4月
人事: 五教館に蘭学が導入され、立石昭三郎が教授に就任。
技術: オランダ語教育の必要性、英語教育への移行時期、私塾での教育内容について議論。中学校・高校レベルの科目を検討。オランダの教育制度についても情報収集を行うことに。
その他: 私塾の名前を「開明塾」に決定。
5月
政治: 次郎が昨年の風説書(天保10年6月24日付)の内容、つまりアヘン密売の禁止とイギリス・清国間の緊張の高まりについて藩主純顕に報告。オランダの情報操作の可能性、イギリスの強大化と清国の敗北の可能性、そして日本への影響について言及し、近代化の必要性を訴える。
6月
政治: 風説書の内容(アヘン密売の禁止)について藩主純顕に報告。フェートン号事件以降のイギリスとオランダの関係、オランダの国力低下、アヘン戦争勃発の可能性、そして日本への影響について考察。近代化の必要性を訴える。
7月
軍事: アヘン戦争の前哨戦となる戦闘が勃発(九竜沖と珠江口)。この時点では日本にはまだ伝わっていない。
9月
軍事: 7月に発生したアヘン戦争の戦闘の情報が、長崎に寄港したオランダ船の風説書(日付は7月1日)によって日本に伝わる。清の敗北が伝えられ、日本の軍備の現状について議論が始まる。
政治: 高島秋帆が西洋軍備についての意見書(天保上書)を幕府に提出。
10月
政治: 高島秋帆の上申書について幕府で議論。次郎は専門家による検証の必要性を訴える。鳥居耀蔵が登場。
その他: 次郎は高島秋帆に江戸参府時の注意点(謀反の疑いをかけられる可能性)を伝える。
天保12年(1841年)
5月
軍事: 大村純顕の命により建造された久原調練場にて、西洋式軍備の調練を実施。モルチール砲(臼砲/迫撃砲)、ホーウィッスル砲、ゲベール銃を用いた演習が行われた。青銅砲は信之介と昭三郎が鋳造。兵の装束は全身黒ずくめ、黒の軍帽を着用。高島秋帆による徳丸原演習の約1週間前に実施。
技術:信之介が雷汞の開発に成功し、雷管式銃の試作に入る。また、捕鯨砲の開発にも成功。
11月
政治: 渡辺崋山が蛮社の獄により自刃。次郎と純顕は働きかけたものの、救うことはできなかった。
技術: 江川英龍が韮山で西洋式銃の製造を開始。次郎はペニシリンの開発を指示、一之進が研究中。お里は椎茸栽培、翻訳、開明塾での教育に従事。信之介は船とコークスの開発、昭三郎は藩校でオランダ語を教授。
天保13年(1842年)
1月
技術: 耐火レンガ製造に目処、コークス炉(ビーハイブ炉)完成。波佐見村にコークス炉と耐火レンガ製造炉を建設。高炉・反射炉建造に必要な鉄原料(砂鉄・鉄鉱石)の領内産出の有無を確認。
政治: 大村純顕(11代藩主)がビーハイブ炉群と耐火レンガ製造炉群を視察。
2月
政治: 製鉄事業の報告、他藩からの鉄原料購入必要性と他事業利益からの費用捻出を決定。
技術: 流下式塩田構想開始。藩主が視察中に倒れるも、尾上一之進の気管切開術で一命を取り留める。
3月
政治: 藩主手術の一件は箝口令。大村藩医学方設立、長与俊達が頭取、尾上一之進が副頭取就任。
軍事: オランダ風説書でアヘン戦争の経過判明。幕府は異国船打払い令廃止、薪水給与令復活。
7月
政治: オランダ風説書到着。アヘン戦争の経過と今後の見通しを藩主と次郎左衛門が協議。
8月
政治: 開明塾開校。次郎左衛門が社会科授業担当。
9月
政治: 次郎左衛門、江戸参府同行。長崎奉行に本庄茂兵次の情報を流し、高島秋帆逮捕を阻止。
天保14年(1843年)
4月
技術: 洋式帆走捕鯨船完成。6月経済: 真珠養殖成功、長崎で販売開始。閏9月軍事: 精錬方から火術方分離独立、昭三郎責任者就任。大砲鋳造方も分離。次郎左衛門は大坂行きを計画。政治: 江戸で老中人事異動。阿部正弘老中就任、水野忠邦罷免。高野長英恩赦決定。11月政治: 江戸にて次郎左衛門と佐久間象山が出会う。佐久間象山、海防十六策上書。12月技術: 尾上一之進、二宮敬作の依頼で伊予へ行き、楠本イネと出会う。天保15年・弘化元年(1844年)政治: 高野長英恩赦実施3月軍事: ミニエー銃の開発に着手。ライフリングの実装に課題があることが判明。技術: 流下式塩田と石炭燃料を導入し、製塩の生産性向上。経済: 製塩事業の収益性を試算。石鹸、椎茸、真珠、捕鯨事業の収益と比較し、新たな収入源を検討。その他: 一之進が伊予で二宮敬作と出会い、診療所で働く。備前の石井宗謙を招聘する計画を伝える。5月政治: フランス船アルクメール号が那覇入港。幕府は水戸藩主徳川斉昭を謹慎処分。適塾への留学生選定開始。その他: 松林廉之助(後の松林飯山)と出会い、その才能を見出す。一之進が石井宗謙の招聘を次郎左衛門に伝える。9月政治: 水野忠邦が老中に復帰。佐賀藩がオランダからモルチール砲を購入し、伊王島に配備。軍事: オランダ軍艦パレンバン号を視察。大村藩独自の捕鯨用帆船を建造していることを佐賀藩に伝える。技術: パレンバン号の諸元を調査。その他: 高島秋帆、高野長英が大村藩に来る。田中久重(からくり儀右衛門)の仕官が決定。11月軍事: 高島秋帆を火術方に加え、昭三郎の上司とする。部隊の調練を実施。技術: 精錬方を新設。田中久重、隼人、廉之助、高野長英が所属。鉄製大砲の製造に着手。医学: 二宮敬作、石井宗謙を医学方に招聘。おイネを女医として育成する方針を示す。その他: 徳川斉昭の蟄居が解かれるが、藩政への関与は禁じられる。一之進とおイネの関係性が進展。弘化2年(1845)政治: 水野忠邦老中辞任。オランダ国王からの国書に対し、鎖国維持の方針ながら、西洋技術の指南役派遣を要望する返書を送ることを決定。沿岸諸藩に軍備増強を命じる。軍事: 伊予宇和島藩で火薬製造開始。3月政治: アメリカ捕鯨船マンハッタン号に乗船していた漂流民の返還を受け入れ、通商は拒否。経済: 大村藩で石けん製造の材料となるアルカリを、石灰と塩水から作る研究を開始。ソルベー法の導入検討。冷蔵庫開発に着手。3月経済: 大村藩で石炭乾留によるアンモニア生成、エーテルの気化熱を利用した冷蔵庫開発に着手。5月軍事: 大村藩で鋳鉄砲の試射を行うも失敗。その他: 江戸時代における気化熱の理解と応用。6月技術: 大村藩で牛痘種痘法の促進、コレラ・麻疹対策の検討開始。7月政治: イギリス船サマラン号が長崎に寄港。幕府はオランダへの返書を佐賀藩と福岡藩に開示。経済: 大村藩でミニエー銃のライフリング加工開始。軍事: 佐賀藩はサマラン号への対応を指示。大村藩で鋳鉄砲試射、改良進む。技術: 大村藩で炭素鋼ドリルの開発とメートル法の導入。鉛室法による硫酸製造、ジエチルエーテル製造に成功。8月政治: 阿部正弘が海防掛を設置。経済: 大村藩で石油の購入、灯油精製、ガス灯利用の検討開始。9月経済: 大村藩で越後産の石油購入を決定。ガス灯導入検討本格化。軍事: 大村藩で鋳鉄砲の試射、改良進む。12月政治: 大村藩主が長崎湾と外海地区への台場建設、造船所建設を見積もり、幕府への建白準備。軍事: 大村藩で鋳鉄砲の操業継続、流動性向上。技術: 大村藩でガスタンク開発。弘化3年(1846年)2月政治:仁孝天皇崩御。孝明天皇即位。次郎左衛門、朝廷への影響力強化のため工作開始。朝廷の財政難を知る。技術:大砲鋳造12回目。1800kgの鉄で砲1門完成。鉄湯の流動性向上。3月政治:次郎左衛門、朝廷工作のため少額献金。岩倉具視と出会う。朝廷の財政窮乏の実態を知る。経済:開明塾・五教館に初等・中等・高等部設立。海軍伝習所、陸軍調練所の設立構想。技術:大砲鋳造13回目。反射炉2基で同時溶解、計3600kgの鉄を使用。鉄湯の流動性さらに向上。4月政治:幕府、海防強化のため小笠原諸島の巡視指示。英龍、海防意見書提出。経済:大村藩、メートル法導入開始。次郎左衛門、大村藩の財政状況確認。様々な事業の収支計算。技術:コカイン単離研究開始。過マンガンカリウム生成必要性判明。化学物質生成設備の建設を次郎へ提案。大砲鋳造12回目で製造の砲、試射実施も破裂。鉄成分の結合と均一化が課題。大砲鋳造14回目。水車動力による穿孔開始も難航。蒸気機関による効率化必要性認識。7月政治:アメリカ東インド艦隊司令長官ビドル、浦賀に来航し通商要求。幕府、薪水給与。技術:ミニエー銃の改良。前装式ニードルガン開発開始。紙製薬莢試作。8月政治:純顕の病状悪化。家老から隠居と後継者問題提起される。経済:大村藩、捕鯨事業開始。捕鯨船団帰港。日本近海の不漁を確認。軍事:大砲鋳造15回目。36ポンド砲1門完成。鉄湯の流動性に差があることが判明。大砲鋳造16回目。36ポンド砲1門完成。技術:ガス灯事業開始構想。プロパン方式か都市ガス方式か検討開始。11月政治:次郎左衛門、佐久間象山と面会。大村藩への招聘を試みる。技術:象山、ガラス、鉛筆、鏡の製法を推測。12月政治:象山、松代藩主幸貫に長崎遊学の許可を得る。経済:大村藩、様々な産物の生産・販売状況調査。木蝋、樟脳の生産開始。軍事:大砲鋳造8回目で製造の砲、人力穿孔完了。試射実施も破裂。技術:お里、養豚、養鶏、養殖、鉱山開発など様々な殖産を検討。弘化4年(1847年)3月社会:信州で未曾有の大地震発生。松代藩に甚大な被害。政治:大村藩から松代藩へ義援金。5月社会:地震の復旧作業中。9月政治:徳川慶喜が一橋家を継ぐ。孝明天皇即位。大村藩から朝廷へ献金。技術:緒方洪庵の適塾で、大村藩の種痘の成功や技術開発の噂が広まる。その他:渡辺清左衛門を中心とした藩論への疑問と同志の模索が始まる。10月経済:藩財政収支報告。技術:村田蔵六が大村藩を見学。コカイン製造設備完成。ドライゼ銃完成。田中久重が蒸気機関製造に本格着手。緒方洪庵が大村藩の尾上一之進に種痘の種提供と医学指導を依頼。村田蔵六、大村藩家老の次郎左衛門と面会。政治:岩倉具視に、大村藩家老の次郎左衛門が鷹司政道への歌道入門を勧める。11月技術:お里、養蚕事業に着手。ガス灯設置。ボルタ電池とダニエル電池の研究開始。信之介、アーク灯製造を指示される。佐賀藩主鍋島直正、伊東玄朴に種痘実施を指示。その他:佐賀藩、種痘導入を1年前倒しで実施。12月政治:次郎左衛門、人材招聘リスト作成。隼人、日本全国へ人材探索の旅に出る。水戸の徳川斉昭が外国人追放の意見書を幕府に提出。薩摩藩で調所広郷が給地高の改正を行う。松代藩主幸貫、佐久間象山の長崎遊学を許可、のち大村藩への遊学に変更。大村純熈(修理)、国許へ戻るよう指示を受ける。技術:田中久重、蒸気機関の模型製作開始。緒方洪庵、長崎で奥山静叔に再会し、一之進への紹介を依頼。尾上一之進、洪庵と面会、種痘の種と医学書の提供を受ける。一之進、洪庵の健康状態を懸念し、生活指導を行う。ペニシリン完成。隼人、長崎にて浅五郎を介し大島高任と手塚律蔵を知る。
弘化5年/嘉永元年(1848年)
1月
政治:岩倉具視、鷹司政通に入門し政界進出の第一歩を踏み出す。盛岡藩士・大島高任、周防の手塚律蔵、長崎の上野俊之丞・杉亨二が大村藩へ遊学。佐久間象山が大村藩に到着。
技術:大村藩、城下や調練場などにガス灯を設置。大島高任、『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』の訳本を学ぶ。お里、蘭仏辞典を『ドゥーフ・ハルマ』のように作ろうと試みる。
その他:謎の男が大村藩に入る。
2月
政治:次郎左衛門、佐久間象山と面談。
技術:上野俊之丞と宇田川興斎、大村藩の化学実験室を見学。田中久重、蒸気機関の模型製作に取り組む。山中信之介、電信や電球について考察。
その他:隼人、肥後藩で石工の橋本勘五郎(丈八)を探す。
3月
政治:大村藩、五教館大学設立を決定。次郎左衛門が総括、高野長英が学長に就任。
技術:信之介、アーク灯の点灯実験に成功。
その他:隼人、豊前国宇佐郡で賀来惟熊を探す。次郎左衛門、賀来惟熊招聘のため松平主殿頭に許可を求める書状を純顕に送る。純顕、松平主殿頭への仲介を真田幸貫に依頼する。大村藩、平戸・福江・島原藩との同盟構想。
4月
その他:純顕から賀来惟熊招聘の許可を得るための協力を依頼された次郎左衛門、宇和島で人材探索を指示。
6月
外交:オランダ国王ウィレム二世より幕府への書簡。軍艦と大砲の提供を拒否。
政治:幕府、オランダからの軍艦・大砲購入が頓挫し、国産化へ方針転換。高島秋帆を海防掛に任命。長崎・大坂に製鉄所と造船所を建設予定。
技術:田中久重、小型蒸気機関模型の製作に成功。
その他:大村藩の捕鯨船が琉球沖で目撃される。
7月
政治:幕府、大村藩の大船建造の噂を調査。
8月
軍事:越前藩、西洋式大砲を鋳造。
その他:加賀藩の能登領に外国船が出没。
外交/技術:大村藩、ヘルハルト・ペルス・ライケン、ヘンドリック・ハルデスらオランダ人教官・技師109名を招聘。
9月
政治:島津斉彬、琉球沖における外国船団目撃情報の調査を指示。次郎左衛門、蒸気機関の国産か輸入かを検討。最終的に、ハルデスに工作機械一式を発注。造船所は佐賀の三重津海軍所方式で建造決定。
経済:大村藩、捕鯨船倍増、石鹸の量産と廉価版販売好調。蒸気船建造のための予算捻出を検討。生糸、お茶、石炭の販売拡大を計画。真珠は販売量に課題あり。
技術:田中久重、蒸気機関開発に尽力。ハルデスと協力して製造開始。信之介、水車を改良。
その他:次郎左衛門、馬車を作成。適塾の5人が大村藩に戻る。
10月
政治:高島秋帆、幕府の海防掛就任要請を辞退。江川英龍と下曽根信敦を推薦。
経済:次郎左衛門、椎茸、塩、鯨の生産倍増を決定。他藩の資源開発(鉱山、油田)に着手。茶畑の買収計画。
11月
経済:次郎左衛門、北海道留萌の炭鉱開発に着手、松前藩と交渉開始。越後、松代、相良の油田開発に着手。松代藩とは共同経営の形をとる。
12月
経済:次郎左衛門、石油事業の収益性を試算。石油価格の高騰を見込むも、米価高騰による需要減退を懸念。信之介に石油精製方法の研究を依頼。石炭・鉄鉱石鉱山の設備投資費用を試算。蒸気機関導入による排水、水車による動力化を検討。石油採掘費用を試算。石油精製、缶詰製造技術、焼き玉エンジンの開発を五教館大学の研究課題とする。ニシン・イワシの油の活用法を模索。
政治:鍋島直正、長崎港防備に関する幕府の最終回答(保留)に落胆。大村藩の技術進歩に焦りを感じる。佐賀藩、大村藩の石炭販売量に圧倒される。
技術:佐賀藩、反射炉の建設開始。
嘉永二年(1849)
一月
幕府より大船建造の禁を犯したとの疑いで目付が来藩。疑いは晴れる。
薩摩江戸藩邸にて帆船が大村藩のものとバレる。
二月
島原藩の賀来惟熊、宇和島藩の前原功山が来藩決定。
島原藩に経済援助
三月
電信の実験成功。しかし信号の減衰等で距離の問題あり。絶縁や継電器の研究にすすむ。
四月
大船建造の禁違反として幕府より目付が来藩。しかしえん罪。
2,400石船建造開始(機帆船仕様)
閏四月
お茶の受注。35,000斤となる。八女をはじめ九州全域に仕入れの根回しをしていたため。全極的にお茶の仕入れ先を拡大。
マリナー号浦賀・下田に来航。
五月
領内で産出されていたモンモリロン石を利用した魚油の精製を開始。増産と販路拡大。
6月
蒸気機関を各鉱山へ導入するも、大島鉱山にて不具合発生。さらなる改良が必要。
7月
石油精製実験中に火災。死傷者なし。精製に近づく。お茶の追加発注有り。81,600斤。全力で掻き集める。
8月
ゴムの品質向上実験、酸化マグネシウム添加にて粘着性低下。
10月
高林謙三、大野弁吉スカウト
11月
勝海舟スカウト
下水道整備計画
嘉永三年(1850~1851)
1月
下水道の敷設を1858年の年初に設定。高炉セメントを開発するが、不可であれば間に合うようにポルポライドセメントにて施工する事が決定。
2月
川棚型(67.5トン/450石)に蒸気機関を載せ、外輪式で航行成功。4.8ノット。
吉田松陰、宮部鼎蔵、大村へ
スクリュー開発(潤滑油とゴム問題)
ジャスポー銃開発(ゴム問題)
5月
写真、ダゲレオタイプとカロタイプ生産完了
冷蔵後の自動化研究
幕府台場造営開始
8月
大型造船ドック完成
昇龍丸完成(360t)
御座船飛龍丸完成(73.5t)
9月
参勤交代
大阪まで蒸気船にて移動
高林謙三、廻転焙じ茶機開発
11月
大村藩、大船建造の禁の解除を条件に技術供与を交渉
破談
大村藩領内ならびに同盟諸藩の沿岸部測量
嘉永四年(1851)
1月
西国諸藩からの大村藩への遊学希望多数。
ゴム加硫法発見
2月
継電器の開発、電信距離大幅延長(実質無限)
佐賀藩より遊学希望の書面届く。
3月
以降の他藩への技術供与を禁じる代わりに、大村藩への大船建造の禁を廃止。
時限信管(榴弾・炸裂弾・ぺクサン砲用)開発進む。
幕臣多く川棚海軍伝習所へ入学
4月
大村藩主の弟純熈(当時利純)、江戸から大村へ。
ジョン万次郎、大村藩へ。
5月
ジャスポー銃完成。
6月
松代藩、油田開発
松前藩炭鉱含む蝦夷地全域開発
ソルベイ法の開発進む。
7月
台場造成開始
8月
昇龍丸型2番艦蒼龍丸就役
徳行丸・至善丸建造開始
9月
ゴムの加硫完成
スクリュー・金属薬莢・後装砲研究
10月
蝦夷地開発
川棚型売却(小曽根乾堂)
11月
商船学校
海軍兵学校設立(来年4月開校予定)
0号ドック改修
3~4号ドック建造開始(ポルトランドセメント)
12月
基礎的な炭素アーク溶接完成
蝦夷地場所請負商人と交渉(魚油)
嘉永五年(1852)
1月
開港予定の港の近くで将来の開港に向けて準備
2月
大阪にて淀屋清兵衛と会談
閏2月
打抜き底蓋開発
3月
静岡清水湊、浦賀をへて、江戸商人と会談。茶の仕入れと魚油、灯油の販路拡大のため。
4月
九条幸経、岩倉具視、次郎左衛門を通じて一之進の治療を受けることを決定。
ソルベー法完成。
6月
スクリュー試作品完成。近海での試験航海成功。
7月
五島沖にてスクリュー部故障要改善
別段風説書アメリカ開国のため来航予測(オランダ)
8月
幕府、純顕の意見をいれ、開国はせず時間稼ぎの方針へ。
川棚造船所にてスクリュー改良継続
10月
新型石油精製装置完成硫酸仕様。大型化。
各藩、大阪商人から帆船と汽帆船の発注があるが、レンタルと輸送業を行う事を具申(純顕へ)
12月
ダイナモによるアーク灯の点灯成功。改良続く。
嘉永六年
1月
オランダよりフェアベーンが改良したリベット打ち機を輸入。⇒倍の厚さの鉄板にリベットが打てるようになり、理論上耐圧性能が2倍。
前原功山が煙道にフランジを付けて、それをリベットで接合する方法を開発。
欧米にてボイラーの爆発事故が多発しているという情報を取得。原因は2/3が設計上の不備や老朽化、1/3が腐食によるものだと判明。藩内では同様の事故は発生していないが、予防策を講じるため研究。
ソルベー法の完成によりガラスの量産化、石けんの廉価版の販売、商品の多様化が進む。
田中久重、雲龍水を完成させる。加えて消火器を開発。
時津~浦上間の電信敷設が完了。宮村~三浦間は来月完了予定。
佐賀藩に打診し、領内に敷設許可をもらう。その過程で佐賀城までの敷設と操作方法伝授の依頼をうける。同時に島原藩、平戸藩からも要請あり。
外海六カ所、台場造成完了。各10門ずつ32
ペクサン砲、試作品完成。
小倉藩、長州藩、豊後と石灰石の採掘交渉
2月
手動はんだ付け機開発(打抜き蓋底は嘉永五年九月に開発済み)
ペクサン砲、艦載。
4月
ペリー琉球来航
鉄砲隊にて威嚇、首里城ではなく砂浜で会談
5月
浦賀にペリー来航
7月
幕府より独断交渉の質し状届く
江戸城にて弁明
プチャーチン、長崎来航
8月
外海沖にてプチャーチンと会談、江戸へ向かう事を勧める。
10月
プチャーチン会談するもクリミア戦争の影響で日本を離れる。
11月
大船建造の禁、廃止(9月)
12月
陸軍ならびに藩政改革を上書
鋼鉄艦の製造研究依頼
嘉永七年
1月
800トン級艦艇二隻を起工
次郎の依頼により新型炉の研究開発開始(手探り)
2月
ペリー再来
坂本龍馬と会い、艦艇・藩邸自由行き来の許可を与える。
9条ならびに11条を改正した和親条約をアメリカと結ぶ。
4月
5月に鳳凰丸(幕府海軍帆船)竣工見込み。
幕府に通訳派遣を申し出る。
信之介のアドバイスにより転炉(新型炉)の開発(具体的に)始まる。
雲龍水と消火器、製造途中。随時関東方面へ。
大村藩蒸気船建造の噂広まる。
5月
下田にて和親条約の追加条約結ぶ。
オランダ、幕府に海軍創設を打診する事を決定。
阿部正弘、徳川斉昭、次郎の才覚に感嘆するも幕府に敵対するのではないかとの危機感を募らせる。
次郎、松前崇広に箱館奉行所設置と蝦夷地上知の恐れを予測、両藩の権益を守るため、共同で拒否をする提案を手紙で送る。
鯨油価格下落。
7月
箱館奉行所は再設置されるも松前藩の管轄となり、幕府からは役人の派遣にとどまる。
大村藩内幕府派の鳴動
8月
長崎にて海軍伝習所開設、幕臣移る。伝習艦は観光丸(スンビン号)
安政元年(1855)
12月
次郎、クルティウスと大蘭密約
日露和親条約締結、樺太は国境なし、混在地となる。千島列島は択捉島以南を日本領。
安政二年(1855)
1月
大村城下下水道、ポルトランドセメントにて施工開始。
2月
ディアナ号乗員をロシアへ送ることを幕府へ提案するも却下。樺太までとなる。
4月
オランダに1,700トン級の軍艦発注(先行して設計図を受領する)
国産でも造船。(設計図到着後)
5月
蝦夷地開発、防衛進行中
7月
鉄道を計画するも、膨大な予算が必要で断念。
8月
イギリス船、雪浦沖に来航。厳重抗議。
10月
ベッセマー転炉とトーマス転炉、並行研究。
11月
蝦夷地上知問題再燃、老中首座堀田正篤と対談。なんとか保留。
安政三年(1856年)
1月
薩摩海軍設立
4月
吉田松陰・高杉晋作ら長州へ戻り松下村塾
5月
大村藩、前原功山を宇和島藩へ(帰郷)
6月
大村藩、5号、6号船渠造成開始。
7月
アメリカ・イギリス・フランス・オランダとの交渉開始。
安政四年(1857年)
1月
長崎開港(1年後)と和親条約に準拠する旨の条約調印。
・長崎開港。
・下田、箱館の補給迅速化。
・不履行の場合は居住権を認める。
純顕・利純・次郎左衛門、襲撃され全治三週間となる。
3月
幕府、築地に海軍操練所創設。
ピンファイア式小銃完成
輸血・血液保存法の研究開発
6月
阿部正弘没
京都に病院設立
8月
咸臨丸長崎回航
9月
補給に3日以上かかれば居住権の許可
為替レートはそのまま(ギルダー参考・金本位)
11月
ハリス江戸出府
大村藩、将軍継嗣には関与せず。
12月
長崎にてアメリカ、管理貿易始まる。
井伊直弼、大老就任。
安政五年(1858年)
4月
~形式上の合議が続く。
徳川斉昭、海防参与、軍制改革参与罷免。
6月
日米修好通商条約締結も、神戸開港と大阪開市が物議をかもす。
事前に勅を得なかったとして、朝廷反発。
ベッセマー転炉完成
7月
江戸城にて次郎、井伊直弼と対談。神戸開港の代替え地、大阪開市の延期等修正を求める交渉をハリスとするように要求。
不時登城のため処分を受けた斉昭親子、春嶽、慶喜の処分を不問にするようもとめ、直弼の逆鱗にふれる。
襲撃事件の黒幕に井伊直弼がいることが判明。
薩摩、斉彬存命で京都出兵画策、大村藩へ助力要請。
安政の大獄の前夜
9月
不時登城の罰は現状維持
薩摩藩からの出兵協力は拒否
10月
次郎、鹿児島にて斉彬を説得、薩摩出兵保留。
11月
朝廷にて三条実美・九条尚忠と面談。条約是正交渉をすることで納得させる。
不時登城の罪減刑の勅許を依頼。
12月
次郎、3度目の襲撃を受ける。彦根藩脱藩浪士、長野主膳は知らず。
安政六年(1859)
1月
岩倉具視と共に次郎参府にて井伊直弼と面談。勅許を渡す。
事件の真相を直弼に告げ、牽制する。
2月
長野主膳、切腹
ハリスと交渉、神戸の開港と江戸・大阪の開市を7年後で合意
3月
主膳の死を直弼が知る。
水戸藩より5千両の賠償金他
5月
オールコックと井伊直弼密会。イギリスが幕府を支援、武器を幕府のみとする事で諸藩の軍事力を抑制しようと提案されるも小栗上野介は反対。却下される。
6月
一橋慶喜、平岡円四郎配下の渋沢栄一を小栗上野介へ推挙。
小栗上野介、渋沢をともない大村藩へ視察。その化学技術と社会文化の違いに愕然とする。
8月
大村純顕、従四位下に叙任
太田和次郎左衛門、六位蔵人へ叙任
9月
条約締結に伴い法整備、海外渡航許可、領事館の設置等。
純顕、参与となるが大村にて。次郎は名代。
ガスマントル完成。
幕府、電信を京大坂より江戸まで敷設決定。工事開始。
藩の武器弾薬、軍艦輸入を規制する『兵備輸入取締令』発布。
次郎、オランダに2,500トン級鋼鉄艦を発注、可能になり次第建造。同時に設計図を輸送、到着後、研究開発、建造予定。(1861年起工予定(63年完成予定)。1862年に日本に設計図到着(63年起工、65年完成予定)
幕府、大村藩と共同で天領の油田開発、駿河の茶園開発着手。(利益は折半)
土佐藩、坂本龍馬と後藤象二郎に大村藩から蒸気商船(軍艦)購入交渉
10月
佐賀・鹿児島で教育制度充実(しかし大村藩ほどではない)
11月
越前が蒸気船購入をする噂を聞き、商人も購入を模索する。
樺太にてロシアが日本人開発地を襲撃・強奪・占領。
立石昭三郎、武力で排除。
次郎、樺太に祥鳳・天鳳・烈鳳(各1,000t)ならびに瑞ずい雲・祥雲(各800t)、至善(400t)と一個連隊派兵。
箱館にて日露領土主権条約締結。
イギリス、大村にて海底ケーブル敷設事業提案するもお里に却下される。
安政七年・万延元年(1860年)
1月
次郎、二個艦隊計画と陸軍増強計画発表、実施に移る。
2月
桜田門外の変。井伊直弼死亡。
3月
安藤信正は事件公表と犯人逮捕を宣言、警護強化策を実施。水戸藩への処罰を検討。
4月
安藤信正大老は厳しい姿勢を示し、逃亡者の捜索を指示。一方で、攘夷派の思想転換を図るため、大村藩への遊学を提案。次郎は受諾。薩摩では、幕府の捜索隊を拒否し関与を否定。同時に、イギリス領事からの接触要請。
6月
幕府は公武合体を画策するも政権運営については今まで通り譜代中心を堅持。攘夷派の面々が大村藩到着し、川棚港で藩の近代化を目の当たりにした彼らは戸惑いを隠せず、朝廷の立場を懸念。偶然、海軍伝習中の坂本龍馬と遭遇し、旧知の再会も。一方、鹿児島では斉彬がイギリス船の入港に警戒心を示す。
7月
朝廷で和宮の降嫁問題が議論される。三条実美らは反対するが、岩倉具視は妥協を提案。次郎左衛門武秋は和宮の降嫁を機に朝廷の権威を高める策を示すが、九条尚忠は幕府への一任を主張。一方、薩摩藩主島津斉彬とイギリス領事モリソンは密談を行い、薩摩藩との技術協力の提案がなされるが、斉彬は慎重な態度を取る。
9月
大村藩領内で土佐藩の武市瑞山等攘夷派の状況と真木和泉らの状況
10月
次郎は和宮との会見。和宮の降嫁が決定。
長井雅楽の航海遠略策……次郎は慎重。
五品江戸廻し令のうち生糸の詳細
モリソンと斉興の密会
12月
清川八郎、京都にて攘夷志士を集める。
ヒュースケン襲撃されるも一命をとりとめる。
斉彬逝去
万延二年・文久元年(1861)
2月
ロシア艦対馬来航
4月
大村海軍、ロシア艦を撃沈
次郎、箱館にてロシア領事ゴシケーヴィチと会談
5月
ロシア以外の列強を味方に引き入れ、ロシアに対して賠償請求。
7~8月
ロシアに対して賠償・謝罪を求めるため、列強を味方にすべく会談
9月
サンクト・ペテルブルクに箱館よりポサドニック号撃沈の報せ
11月
カラー写真の試作機完成、しかし紙に写すのは不可。
連発式小銃完成、二十一式と命名
トーマス転炉完成
12月
アメリカの戦時国債購入交渉(鋼材や真鍮で物納)、幕府が15%の額面。
次郎、上総介に清国との交渉を打診
薩摩にて斉彬暗殺の黒幕にイギリス関与が発覚
文久2年(1862年)
1月
政治:江戸城で大老安藤信正襲撃されるも無事。水戸藩士6名逮捕。長州との繋がりを示唆する供述。次郎、大老襲撃と水長盟約について情報を得る。朝廷・幕府に働きかける。京都で破約攘夷の気運高まる。
技術:大村藩、缶詰製造技術の革新を進める。
2月
政治:皇女和宮降嫁。次郎、川路聖謨、竹内保徳、箱館でロシアとの交渉に向け打ち合わせ。対馬問題、樺太問題に関する交渉方針を決定。日露交渉開始。樺太問題と賠償金の関連性について議論。領土問題と賠償金について協議継続。日露交渉8日目。樺太・千島の領有権、対馬問題の賠償金について合意。条約締結へ。
外交:日露交渉開始~終結。
3月
政治:日魯間領土境界確定並びに対馬事件賠償条約、批准を1年後に決定。次郎、安藤信正に謁見、将軍家茂との謁見が決定。京都の攘夷派の動き、長州処遇について意見する。島津久光、上洛を決意。長州藩、大老襲撃への関与を否定。
4月
政治:島津久光の上洛の報、次郎に届く。岩倉具視と久光の上洛目的、攘夷派対策について協議。寺田屋事件発生。次郎、真木和泉、平野国臣を説得。薩摩藩士数名、大村藩へ。島津久光、寺田屋事件後、幕政改革の勅許を得て江戸へ向かう。安藤信正、久世広周、久光の上洛目的を把握。長州藩、大老襲撃への関与を改めて否定。
6月
政治:江戸城にて久光と安藤信正、幕政改革について会談。五大老設置、人事などについて合意。老中院、大老院設置。久光、信正の条件を飲む。京都守護職設置、会津藩主・松平容保就任。
7月
政治:参勤交代緩和など幕政改革案を提示。生麦村で島津久光一行とイギリス人遭遇。イギリス人負傷。生麦事件発生。次郎、生麦事件を受け江戸へ。
軍事:大村藩、新式機銃と大砲(エイガー機銃、アームストロング砲)開発。
社会:生麦事件発生。イギリス公使館付き医師ヘボン、横浜診療所で負傷者治療に立ち会う。
技術:北海道、小笠原、千島列島、樺太、琉球周辺諸島の測量終了。領内島嶼部ガス灯による灯台建設完了。
8月
政治:江戸城にて安藤信正、久光に生麦事件の事情聴取。イギリスへの対応を協議。次郎、純顕、信正、イギリスとの交渉開始。次郎、信正、純顕、交渉内容を検討。大村藩の商船を上海に派遣し、真相究明のため調査開始。
外交:横浜のイギリス公使館で生麦事件の交渉開始。慣習法などを根拠に交渉を進める。イギリス側、上海租界における捜査協力を認める。賠償金の額について議論。
社会:高杉晋作ら、上海で生麦事件の真相究明に乗り出す。高杉晋作ら、青幇に接触を試みる。イギリス側、上海へ逃亡した2人の捜索を依頼。イギリス側、上海で2人の捜索を強化。
9月
政治:イギリス領事、日本からの捜査協力要請を本国に報告。
社会:上海で晋作らと紅幇が衝突。領事館員を含む3名が死亡と思われたが済生丸へ搬送。一之進らによる治療開始。上野彦馬、現場の写真撮影。済世丸、上海出港。済生丸、長崎到着。パーシー・ホッグ、済世丸船内で死亡。
10月
外交:イギリス側、生麦事件への関与を否定。次郎、真相を明らかにした上で交渉決裂。
政治:イギリス政府、対応を協議。
11月
技術:大村藩で技術革新が進む。電話の原型完成。
外交:オランダ総領事、生麦事件の早期解決を要望。
軍事:次郎、大村藩の軍備増強を提言。
12月
政治:大老院設置。大村純顕、大老に就任。朝廷で攘夷論が台頭。長州藩でイギリスへの強硬論が出るも、松陰は静観を促す。
外交:文久遣欧使節、帰国。イギリスとの交渉継続中。駐日英国公使代理エドワード・セント・ジョン・ニールが、本国に対し生麦事件の報告と日本側の主張を伝える。日本側はオールコック前公使が事件を計画し、ニールが隠蔽工作に関与したと主張。
文久3年(1863年)
1月
政治:高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎がイギリスとの戦争の可能性を議論。安藤信正が大老会議に大村純顕を加える提案。
3月
政治:イギリス本国で生麦事件に関するニールの報告書が届き、パーマストン首相とラッセル外相が対応を協議。ラッセル外相がニール代理公使に生麦事件に関する指示。家茂上洛
その他:和宮懐妊
5月
政治:イギリス議会で生麦事件に関するパーマストン首相とスタンリー議員の論戦。
軍事:キューパー少将が日本近海の封鎖戦略を検討。
6月
政治:次郎左衛門が島津久光と安藤信正に書状を送り協力を要請。岩倉具視と面会し朝廷工作を画策。大村純熈、安藤信正へ向け哨戒網構築を指示。大老会議にて大村純顕が攘英を提言。
技術:大村藩で新型蒸気機関が完成。
7月
政治:次郎左衛門、孝明天皇に謁見し攘英を奏上。朝廷は5年後を目処とした攘英を決定。
第315話『軍事作戦か開戦か』
1863年10月4日、幕府は攘夷派の勢力が減少したことを受け、開国と交易を進める方針を採用した。イギリスのオールコック卿は、日本での国益を優先し、無法者を雇って威嚇射撃を行ったことが問題視され、パーマストン首相はこの件を不問にする決定を下した。
第316話『薩摩と長州』
1863年11月12日、次郎はイギリスとの戦争準備のため、薩摩藩主に謝罪と見舞金の支払いを提案。これにより、日本が国際的な正当性を持つことを狙った。また、沖縄本島までの電信ケーブル敷設や哨戒ラインの構築も計画された。
第317話『江戸の備えと江川英敏』
1863年12月22日、江川英敏は江戸湾防衛の重要性を認識し、新型砲の導入を進める。次郎は江戸湾がイギリスによって封鎖される可能性が高いと考え、防衛策を講じる必要性を訴えた。
第318話『全体戦略会議とロシア』
1864年1月10日、イギリス東インド艦隊司令官は、日本との開戦に向けた兵力不足を認識し、次郎は日本側での防衛策を練りつつ、ロシアとの関係構築も図った。
第319話『アラスカ売却交渉とロシア太平洋艦隊のネーバルプレゼンス』
次郎はロシア領事と交渉し、アラスカの売却提案を行う。この交渉は、日本がイギリスに対抗するための戦略として機能することが期待された。
第320話『南北戦争とフランスとオランダ』
次郎はアメリカやフランス、オランダとの関係強化を図りつつ、イギリスとの対立に備える。各国との交渉が進む中、日本国内でも一致団結した戦争準備が進められた。
第321話 『僅差可決と艦隊派遣』
1864年3月、イギリスは日本への武力行使を可決、艦隊を派遣した。キューパー提督は補給の困難さから江戸湾封鎖を諦め、馬関海峡封鎖を計画。同時に、補給線確保のため大村藩海軍の撃滅を優先する。大村艦隊は大きいが、イギリス艦隊の火砲性能が勝ると見て、撃滅後に馬関海峡を封鎖する作戦とした。江戸城では、次郎がイギリス艦隊の標的を馬関海峡か鹿児島湾と予測。安藤信正は連合艦隊でも10隻しかなく対抗は難しいと懸念。次郎は大村艦隊14隻でイギリス艦隊15隻程度なら戦えると答えたが、実際は17隻。楽観的な見通しは危険だった。
第322話 『国外退去ならびに臨戦態勢』
1864年4月、駐日イギリス代理公使ニールは本国からの訓令を受け、在日イギリス人退去を勧告。開戦は不可避となった。江戸城にはイギリスから最後通牒が届き、生麦事件の責任者処罰と賠償金支払いを要求、4月30日までの回答なき場合は宣戦布告すると通達された。大村純顕は冷静に在日外国人の安全確保を指示。毛利敬親と島津忠義は自領防衛のため国許への帰還を命じられた。大村藩では、次郎が新鋭艦の試験航海中にイギリス艦隊上海出港の報が入る。鹿児島では、琉球在番奉行からイギリス艦隊来航の知らせ。艦隊は琉球で条約締結後、北上し奄美群島を攻撃する恐れがあった。久光は奄美防衛か艦隊温存かで苦悩し、大村純顕に援軍を要請した。開戦は目前に迫っていた。
第323話 『イギリス東インド・清国艦隊の奄美侵攻』
イギリス艦隊司令官キューパーは、奄美大島への侵攻を開始。薩摩の抵抗を予想しつつ、大村艦隊の動向を探る。奄美大島には防御施設はなく、少数の守備隊がいるのみ。イギリス艦隊は容易に上陸を開始した。大島代官所から薩摩藩へ、イギリス艦隊襲来の急報が届く。忠義は即時救援を主張するが、久光は冷静に大局を見据え、大村艦隊との連携を優先し、鹿児島防衛に徹するよう指示。苦渋の決断ながら、大島を見捨てるしかなかった。一方、大村藩では次郎がイギリス増援艦隊到着の報を受け、大村海軍を鹿児島へ向かわせる。イギリス艦隊を鹿児島で撃退後、長州藩の救援に向かう計画だ。上海では、増援艦隊司令官キング少将が、大村艦隊の規模に驚き、最新情報の確認を指示。キューパーの指揮下に入ることに不満を持ち、単独で長州攻撃を企てる。イギリス艦隊内部の不協和音が、戦況に影を落とす。
第324話 『払暁の奄美大島』
薩摩藩士、大山、川村、松方、赤塚の4人は、奄美大島救援のため独断で出撃を決意。久光の命令に反する行動だったが、3隻の軍艦でイギリス艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける。夜陰に紛れ奄美大島に接近し、夜明けと共に奇襲攻撃を開始。不意を突かれたイギリス艦隊は混乱するも、圧倒的な火力で反撃。薩摩艦隊は奮戦するも多勢に無勢、旗艦ユーライアラスに損害を与えた後、撤退を余儀なくされた。一方、鹿児島城では久光が激怒するも、既に後の祭り。ユーライアラスへの損害に驚愕したキューパーは、鹿児島湾突入作戦に変更なく、キング艦隊の到着を待つ。しかし、キング艦隊の動向は不明。キューパーの不安は募る中、イギリス艦隊は鹿児島へ向けて出航した。
第325話 『激闘!鹿児島湾海戦! -序章-』
独断出撃した赤塚、大山、松方は、忠義の嘆願により蟄居処分となるも、戦争中は戦いに尽力することを命じられる。鹿児島城に到着した次郎は、2人と面会後、3人から奄美大島での戦闘の詳細を聞き出す。敵旗艦への命中弾は幸運によるものだった可能性が高まる。2日後、屋久島南沖でイギリス艦隊が北上中との報せが入る。薩摩藩は湾内で迎え撃つ準備を整え、次郎率いる大村艦隊は枕崎で待機。キューパーはキング艦隊を待たずに鹿児島湾へ突入を決意。薩摩艦隊を湾内に誘い込み、鹿児島攻撃を狙う。両艦隊は鹿児島湾で激突、薩摩艦隊はイギリス艦隊の砲撃を受け、湾内へ逃走する。
文久4年(元治元年)4月5日 (1864/5/10)
薩摩藩の艦船が鹿児島湾から退避。イギリス艦隊が鹿児島湾に侵入。
文久4年(元治元年)4月6日 (1864/5/11)
イギリス艦隊が桜島と大隅半島の間の海峡を突破。薩摩藩の蒸気船と交戦。イギリス艦隊、鹿児島湾口で大村艦隊と遭遇、交戦。キューパー以下上級指揮官戦死。降伏勧告を受ける。
元治元年4月9日 (1864/5/14)
イギリス艦隊降伏の報が江戸に届く。対策を協議、馬関の防衛強化を決定。
元治元年4月10日 (1864/5/15)
イギリス増援艦隊が響灘に到着、偵察開始。
元治元年4月11日 (1864/5/16)
イギリス艦隊が関門海峡へ進入開始。ロシア、フランス、アメリカ、オランダの艦隊が集結。下関戦争勃発:イギリス艦隊は長州藩砲台、大村艦隊、長州海軍、幕府海軍、佐賀藩艦隊と交戦。敗北。
元治元年5月16日 (1864/6/19)
鹵獲したイギリス軍艦の分配協議。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます