第五話その1「ゆうくんにはちーちゃんがいるじゃない?」

「おれ、ももちゃんと結婚する!!」


 ゆうくんの笑顔はお日様みたいに明るく無邪気で、その無垢で真っ直ぐな好意にお姉さんの胸は思わずきゅんきゅんしてしまった。ゆうくんのその気持ちはとっても嬉しい。でもそれは「お母さんと結婚する」とか「幼稚園の先生と結婚する」と同種類の、決して実ることのない初恋なの。


「ごめんね? わたしはもう蓮ちゃんと結婚しているから」


 やんわりとそう言うわたしにゆうくんは「えー」と不満顔。


「ももちゃん、おれのこと嫌い?」


「まさか! わたしはゆうくんのこと大大大好きだよ!」


「おれもももちゃんのこと大好き!」


 このくらい!とゆうくんは万歳しながら飛び上がってその大きさを表現した。その微笑ましさにわたしの顔がほころんでしまう。


「だからもんだいないよね?」


「いや待って。その理屈はおかしい」


「えー」


 不満顔のゆうくんにわたしは愛想笑いみたいな笑顔を向ける。さて、どうすればこの幼稚園児にわたしとは結婚できないことを判ってもらえるだろうか。


「えーっとね。ゆうくんにはちーちゃんがいるじゃない? 結婚するならちーちゃんとがいいんじゃないかな?」


「ちーちゃんと結婚したらももちゃんも付いてくる?」


 グリコのおまけかわたしは。まあ、二人が結婚するならゆうくんは姫宮に婿入りする形でこの家に住むことになって、わたしも同居するんじゃないかと思うけど。


「しかたないからそれで我慢する。ちーちゃんと結婚する」


 何様やねん、あんたは。どうしよう、怒った方がいいんだろうか。でも幼稚園児の言うことだし……


「でもおれのほんめーはもももちゃんだから! ぎそうけっこん、って言うんだよねこういうの?」


「何言ってやがりますか幼稚園児?! どこで覚えたのそんな言葉!」


「エイラさんが教えてくれた! こうしたらいいって!」


 エイラああ! 幼稚園児に何吹き込んでるの?! わたしは内心の雄叫びを必死に抑えつつ、


「……あのー、わたしとしてはちゃんと真っ当にちーちゃんのことを好きになって、二人で幸せに」


「ももちゃんもいないと嫌だ。三人いっしょがいい」


 うん、そうだね。わたしも二人とずっと一緒がいいよ?


「おやこどん、って言うんだよね?」


「違うそうじゃないっ!!」


 ……自分の怒鳴り声によって目を覚まし、わたしは自分が眠っていたことを理解した。上体を起こしたわたしはそのまましばらくぼーっとし――頭を抱えたい気分を味わっている。


「なんでこんな夢を……」


 それは夢というよりは一〇年前の記憶そのものだった。人間は眠っているときに脳内で記憶の整理をしていてそれが夢という形で現れる、と聞いたことがある。でもどうしてわざわざこんな、一〇年も前の記憶を引っ張り出してきたんだか。時計を見れば、時刻は一〇時を回っている。


「もうこんな時間?」


 日曜だからって寝すぎだ。わたしは布団から抜け出て急いで身支度を整えた。

 さて。皆さんおはようございます。五月の爽やかな日曜の午前、いかがお過ごしでしょうか。姫宮百佳です。わたしは着替えて顔を洗い髪を整え、ダイニングに顔を出します。その頃には時刻は一〇時半を過ぎていました。


「おはよう、ごめん、なんか寝坊しちゃったみたい」


「おはよう、珍しいね」


「おはようございます……という時間でもないですが」


「おはようございます」


「おはよー」


 食卓には蓮ちゃんとちーちゃんがいて、それぞれスマートフォンを触っている。台所ではゆうくんとエイラが調理中。ゆうくんがメインディッシュを、エイラが総菜を担当している感じである。


「もうお昼にするの?」


「お昼というかブランチですね」


「僕もさっき起きたところだから」


 ちーちゃんは無反応だけど異存はなさそうだ。この子がそんなに早く起きてくるとは思えないし。ゆうくんは今日も五時起きで朝食もしっかり摂っているはずだけど、その逆ならともかく食事の間隔が短いことにこの子が文句を言うはずがないのだった。


「さあ、どうぞ」


「ありがとう」


 で、ゆうくんが作った今日のお昼ご飯は――親子丼。


「……どうかしましたか?」


「いや! なんでもない! なんでもないよ!」


 頬を引きつらせるわたしをゆうくんが訝り、わたしが必死に否定。ああ、なんか返って不自然に思われている!


「百佳さん嫌いでしたっけ親子丼」


「ゆうくんの親子丼は奥さまの好物の一つだったはずですが」


「あんたの親子丼はまあまあ美味しいと思うわよ」


 なんであんた等そんな親子丼親子丼って連呼してんのよ! でもこれ以上何を言っても藪蛇になりそうだったのでわたしは無言で親子丼をかき込む。うん、出汁がよく効いているこの濃厚な味わいはゆうくんのいつもの親子丼だ。わたしは笑顔を作って、


「うん、とってもおいしいわよゆうくんの親子丼!」


 ……何だかどこか、自棄っぽい物言いになっちゃうのはどうしようもないことだったけど。

 さて。ブランチも終わって時刻はお昼ちょうど。ゆうくんは自宅に戻っていって、日曜日はトレーニングを朝の特訓だけにしている休養日だから、午後はゲームや漫画や昼寝でゆっくりと過ごすのだろう。わたしのときがそうだった。ちーちゃんも出不精でインドアな子なので休日もあまり出掛けることがなく(交通の便が悪い田舎だから、という理由も大きいんだけど)大抵は自分の部屋で漫画を描いたりしている。でも今日は珍しく外出しているようだった。


「ちーちゃんがどこに行ったか知ってる?」


「いえ、聞いていません」


「そう」


 気にはなるけど、ちーちゃんだってもう高校生。どこに遊びに行ったか親にいちいち詮索されるのも鬱陶しいだけだろう。それじゃわたしも今日はのんびりと――と思っていたらスマートフォンのアプリに着信音。わたしは蓮ちゃんから離れた上でそれを起動させた。


『……で、これはどういう集まりだ。なんか嫌な予感しかしないんだが』


『可愛い子が三人も遊びに来ているんだし、もっと喜んでもよくない?』


『僕も入っているの?』


『むしろあんたがメインだから』


 スマートフォンから流れてくるのはゆうくんと彩羽ちゃんと唯月君とちーちゃんの声。どうやらゆうくんの部屋に三人が遊びに来ているらしかった。この四人は小学校以来の幼なじみだから集まって遊ぶのは不思議じゃない……いや、男女混合のこの四人が自主的に集まるのは多分ほとんどなかったはず。先週の七輪パーティをきっかけにグループ交際が始まったんだろうか?


『とりあえずあんた等、裸になって抱き合ってキスしてくれないかしら』


『……ええっと、脱ぐのは上だけでいい?』


『待て待て脱ごうとするな。それをスケッチしようとするなこの阿呆。お前も撮影をやめろ』


『えー』


『えーじゃねえ。あとなんで残念そうな顔してるんだよ唯月』


『え、いや、そんな顔してないよ?』


『なんで止めるのよ。あと誰が阿呆よ』


『止めるに決まっているし、阿呆はお前に決まってる。……はあ』


 ゆうくんが深々とため息をつく。三人相手に一人で突っ込みを入れるには大変そうで、その疲れた顔が目に見えるようだ。


『……あれか。またホモの漫画を描こうとしているわけか』


『BLって言ってほしいかな』


『わたしは「愛の形」を表現したいの。それにしっくりきたのがたまたま少年同士の恋愛だっただけ』


『つまるところはホモの漫画じゃねーか』


 ――そう、ちーちゃんはBLが好きな、いわゆる腐女子だったりする。

 元々はちーちゃんの影響で漫画を描き始めた彩羽ちゃんが先に、小学生にして既に腐ってしまって、それに侵食されてちーちゃんも中学で腐ってしまったのだ。何してくれたの?!と言いたいところではあったけど、自分で漫画を描くオタク女子ならBLに触れるのも当たり前で、そのまま腐ってしまうのも当然あり得ることで、早いか遅いかだけの違いであって彩羽ちゃんだけにその責を負わせるのも可哀想ではある。結局のところ本人にその素質があるかどうかで、実際彩羽ちゃんやちーちゃんはわたしにも布教を試みたことがあったけど、わたしはどうにも受け入れられなかった(一方エイラはそれで腐ってしまって、今では立派な貴腐人である)。

 元が男だから、はあまり関係ないと思う。BLが苦手な女性は特別珍しくはないのだから。ただ「自分が理解できないから」という理由でちーちゃんが情熱を傾けていることを一概に否定したくはなく、積極的に応援はしないけど好きにさせてはいた。


『描きたい「愛の形」の、イメージはあるのよ。でも上手く形にできない。紙の上に表現できない。正月からずっとそんな状態が続いていて』


『気が付けばもう五月、締め切りまであと二ヶ月! このままもたもたしていたら何もできずに夏が終わっちゃう! さすがにいい加減どうにかして前に進まなきゃって』


『とりあえずモデルが実際にやってるところ見れば何かのとっかかりになるかなと』


『その発想はおかしい。あと頭もおかしい』


『どこがよ』


『全部だよ! まずは――身近な実在の人物をモデルにホモの漫画を描くな!』


 以前見せてもらったことがあったけど、ちーちゃんが描いているBLはオリジナルのストーリーで、オリンピックを目指す柔道少年とその幼なじみの女の子みたいに可愛らしい少年が、触れ合いやらすれ違いやらを経て愛を確かめるという内容で、雰囲気的には昔の少女漫画をさらに観念的、文芸的にしたような感じだろうか? そして問題なのが、メインキャラの二人が誰がどう見てもゆうくんと唯月君なことだった。


『この物語はあくまでフィクションであり、実在の人物・地名・団体、どこかの柔道バカやご近所の男子は一切関係ありません』


『それで許されると思うな。裁判やったら俺が勝つぞ』


『でもスポーツ少年と可愛い子のカップリングはいくらでも溢れてる、定番のパターンなんだし、そんなに気にする必要なくない?』


『それならもっと名前を変えろよ。なんだよ、「悠斗×睦月」って! ほぼそのままじゃねーか!』


『でもこの二人はこの名前って、わたしの中で固定されているから。今さら名前を変えたら別人になっちゃう』


『だから別人にしろと言っている』


『絶対嫌。わたしはこの二人を、この物語をもう一度世に問うのよ。そうでなきゃリベンジにならない』


 頑として譲らないちーちゃんにゆうくんが沈黙する。BLのモデルにされるのは許容しがたいけどちーちゃんの気持ちも判らなくはない、といったところか。

 ――去年の年末、ちーちゃんと彩羽ちゃんはサークル側でコミケデビュー。ちーちゃんは張り切って「悠斗×睦月」のBL漫画を百冊印刷して参加したんだけど……実に一冊しか売れなかったという、いっそ清々しいくらいの大爆死。しかも、たった一冊買っていった相手はちーちゃんが目標としている有名BL作家だそうで、ちーちゃんの漫画を読んだその人に、


「漫画よりも小説の方が向いているんじゃないの?」


 と酷評されたというのである。散々な結果に、生まれて初めてと言っていい最大最悪の挫折に、ちーちゃんはいっとき荒れまくった。あんなに不機嫌になって、周り全部にひどい八つ当たりしたのはあのときが最初で最後かもしれない。

 蓮ちゃんは自分が商業誌で何百万部も売っていてアニメ化もしているプロだから、「自分が何を言っても聞く耳を持たないだろう」「若いうちはこういう失敗もいい勉強だ」と放置。同じコミケで同じ席で、コピー本二〇冊を完売した彩羽ちゃんは「自分が何を言っても嫌味になるだけだから」と及び腰。

 彩羽ちゃんが描いたのは二次創作の四コマで、ちーちゃんのオリジナルとは単純に比較できない。それに彩羽ちゃんは同じジャンルの他の作家さんとネット上の付き合いがあり、リアルで会ったその人達があいさつ代わりに買ってくれた、という面もある。一方ちーちゃんは、そういう相手がいないわけじゃなかったんだけど方向性の違いで衝突し、オリジナルで勝負する界隈からはハブにされて孤立しているらしかった。あの子の気性を考えれば「そういうこともあるだろうな」と思うけどそれはともかく。

 経緯はよく判っているけどただの八つ当たりを甘受する理由は周りにはなく、わたしが注意しないといけないかな、と思っていたら、わたしより先にゆうくんが反撃。激しい喧嘩となってしまったのだ。とは言っても暴力沙汰になったわけじゃなく――そりゃ身長で三〇センチ、体重で実に倍の差があり、有段者のゆうくんと殴り合って勝てるわけがなく、ゆうくんだってか弱い女の子相手に暴力を振るうような男の子じゃない。ただの口喧嘩ではあったんだけど、それでもこの二人がこんなに激しく言い争っているのを見たのは初めてだったんじゃないかと思う。

 口下手なゆうくんが口だけは達者なちーちゃんに勝てるはずはないんだけど、普通なら。このときはちーちゃんに一方的に非があったから、かなり長い時間の喧嘩ではあったけど、最終的にはちーちゃんが言い負かされて自分の部屋に逃げていった。わたし達に謝りに来たのは大分後になってからだけど、それでもあの子は自分の機嫌を自分でとって、自分の非を認めたのだ。


『あんただって偉そうに言ってたじゃない。負けを認めなきゃ前には進めないって。負けたのは自分が相手より弱かったからで、それを認めて、次は負けないように弱く足りなかった部分を鍛えて強くして――それが前に進むってことだ、って』


『そんなこと言ったっけか』


『言ったわよ。すっごく偉そうに、大威張りで。「俺は公式戦で毎回負けている」って』


 ゆうくんは日本一になったことはまだないからね。ある程度勝ち進んでも結局はどこかで負けている。よくそれでオリンピックなんて言えるな、と笑われるのもいつものことだ。それでもゆうくんは前に進み続けている。自分の弱さを認め、でも次は負けないと――


『わたしだって認めるわよ、前は全然だめだったって。独りよがりの、何も伝わらないものを描いてしまったって。だから今度こそちゃんとしたものを描くわよ、わたしが表現したい「愛の形」を』


『うん、がんばって! 何も手伝えないけど応援するから!』


『手伝えることはあるわよ。とりあえずそのでかいのと裸で抱き合ってキスの一つも』


『だから俺と唯月を巻き込むな』


『前に進めって言ったのはあんたでしょ』


『何を描いたのか知っていたら言わなかったよそんなこと!』


 ……ああ、うん。コミケで挫折したちーちゃんを叱責して立ち直らせたと思ったら、描いていたのが自分と唯月君をモデルにしたホモの漫画だもんねぇ。それを知った後、口喧嘩の第二幕になっちゃったよねぇ。


『……はあ。ともかく、お前が何描こうと知ったことじゃないけど。知りたくもないけど。知らないでいるなら何とか黙認できなくもないけど。俺と唯月を巻き込むな』


『それじゃリベンジできないじゃない』


『そのまま筆を折ってしまえ。俺と唯月の平穏のために』


 ちーちゃんは「えー」と文句を言うけどゆうくんがそれで態度を変えるはずがない。自分がモデルのホモの漫画を描くことを、見て見ぬふりをするのが最大限の譲歩というものだった。


『だいたい、何の交換条件もなしに俺と唯月を絡ませようってのが図々しいだろ』


『判った、それじゃマリカで勝負。わたしが勝ったら二人に絡んでもらう』


『じゃあ俺が勝ったらお前等裸にして百合やらせていいのか』


『死ね』


『それってセクハラー、百佳さんとエイラさんに言いつけるよ?』


『お前等と同じ要求しただけだろ?! 俺と唯月の方がもっとひどい辱めを受けてるのに!』


 ……ああ、うん。ゆうくんが怒るのもよく判るよ? 仮にの話だけど、男子漫研部の誰かがちーちゃんと彩羽ちゃんを露骨にモデルにした一八禁百合ックス同人誌を発表したとしたら、それがみんなに知られたとしたら、その男子はきっと人権がなくなって学校にはいられくなるだろうね。仮にそれでも学校に居座ろうとするなら自主退学を選ぶまでわたしとエイラが追い込むし。

 ちーちゃんがやっているのも同じじゃないのか、と言われればその通りではあるんだけど、それでも男と女は同列にできないと思う。「女子が男に性欲の対象として見られる」ニアリーイコール「レイプ等の性暴力の標的に見られる」なわけで、その恐怖は男にはなかなか理解が及ばないだろう。大抵の男にとって「女に性欲の対象に見られる」ってご褒美の類で、女から男への性暴力だってゼロに等しいくらいだし。

 ……その後、ゆうくん達四人はゲームで遊び、罰ゲームはあったみたいだけど性的なものじゃなく、ありふれた、でも楽しい午後を過ごしたようだった。うんうん、こういうのも青春だよねぇ。わたしのときは家に遊びに来るような女友達はもちろん男友達すら……いや、過ぎたことはいいんです。

 ゆうくんがオリンピックを目指して柔道に熱中するように、ちーちゃんは創作活動に一生懸命。そんな青春だって全然ありだと思うよ? たとえそれがBLであっても。でも周りに迷惑をかけるのはほどほどにね!

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