第四話その1「格好いいなゆうくん、って」
時刻は朝五時。目覚ましの音が鳴り響き、わたしは目を覚ました。
「あー……」
まだ五時じゃん、あと二時間眠れると、布団に潜り込みそうになるわたし。でもその強烈な誘惑を超人的な克己心で乗り越え、わたしは布団から抜け出した。スポーツウェアを身にしたわたしは姫宮のお屋敷を出て防砂林の中の遊歩道を、奥へと向かって歩いていく。
――さて、おはようございます。すっかりおなじみになりました姫宮百佳です。普段よりちょっと早起きしたわたしは海岸沿いの防砂林へとやってきています。
防砂林を奥へと進んで、その片隅。これ以上近付くと気付かれるからこの辺で我慢することにして、わたしは双眼鏡を取り出してそれを覗き込む。それが映し出しているのは、
「いち! に! さん! し!」
柔道の特訓をするゆうくんの姿だった。ひときわ大きなケヤキの木にタイヤのゴムを巻き付け、それを対戦相手に見立てて背負い投げをくり返している。右背負い、左背負い、一本背負いに片手背負い。前世のわたしもそうだったけど背負い投げはゆうくんが一番得意としている技で、高校の部活の他にこういった自主トレーニングを毎日欠かさず続け、技を磨いているのだ(雨の日や雪の日は屋内でできる筋トレやストレッチとなる)。なおわたしが自主トレの様子を確認するのは毎日じゃなく、週に一回くらいである。
一時間後の六時二〇分頃、朝の自主トレを終えたゆうくんが駆け足でこっちに向かってくる。わたしは物陰に身を隠して彼をやり過ごし、その後ゆっくりと姫宮のお屋敷に戻った。そして朝食の用意を始めて、七時頃。ゆうくんが「おはようございます」とダイニングキッチンに顔を出した。スポーツウェアだけどシャワーで汗を流し、髪もばっちりと整えている。
「おはよう!」
「おはようございます」
わたしが朗らかに、エイラが淑やかに挨拶を返した。ゆうくんが自分の席に着いてからようやく、
「おはよぇ……」
七割方寝たままのちーちゃんが玉暖簾をくぐってやってくる。ちーちゃんが身にしているのは寝間着代わりの中学の体操服。髪も寝起きすぐの、爆発した頭のままだった。わたしも蓮ちゃんもそんなに朝に弱いってことはないのに、一体この子は誰に似たんだろうか? わたしとエイラが何とか矯正するべく九年間奮闘し、それでもどうにもならなかったのだ。一応毎日自分で起き出して学校に行こうとしているのだから、ぎりぎりで許容範囲……と思っておくしかなかった。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます!」
姫宮家の朝ご飯は原則として和食で、今朝はご飯・ゆで卵・みそ汁・煮豆・ほうれん草のおひたし等。ゆうくんはお代わりをしながらも速攻で全てたいらげて、ちーちゃんはまだのろのろと食べている最中だ。
わたしが確認した範囲ではゆうくんの生活ペースはわたしのときと大きく変わらない。毎朝五時に起床し、一時間の自主トレーニング。その後シャワーを浴びて朝食を摂って、約六キロの道のりをランニングで登校――でも全く同じじゃない。わたしのときは朝食を自分で用意していたけど、ゆうくんは平日は毎日うちで朝ご飯を食べている。
「いつもありがとうございます」
「気にしなくていいわよ、出世払いで返してくれたら。具体的には金メダル」
わたしの軽口に「判っています」とゆうくんは真剣な顔で頷いていた。
ゆうくんとその両親は生活ペースが全く合わず、彼等が起き出してくるのはゆうくんが朝食を終えた今頃だ。だからわたしのときは自分で朝ご飯を用意していたわけで……まあそんなに凝ったご飯じゃなく、冷凍しておいたご飯をレンジでチンして玉子がけご飯にして、インスタントのお吸い物と作り置きの煮豆を食べて、くらいのものだったけど。
その程度のものではあるけど自分でご飯を作らない分、空いた時間は身だしなみに遣われていた。髪を乾かしてつんつんに立たせるにはそれなりの時間と手間を要するのだ。長くてもスポーツ刈り、坊主頭も珍しくない柔道部の中じゃゆうくんは異端で、白い目で見られることもあるみたいだけど、それでも断固として今の髪型を保っている。九年にも及ぶわたしとエイラの、血のにじむような努力は決して無駄ではなかったのだ! ……ちーちゃんはそれを全部水泡にしやがったけど。
朝食を終えて、ゆうくんはいち早く登校。わたしとエイラは主にちーちゃんの格好を人並みに整えるのに時間を取られて、遅れて自動車で出発。学校に到着するのは大体同時刻だ。
「それじゃ、しっかりやんなさいよ」
「前向きに検討しておく」
やる気なさげにそう言うちーちゃんが教室へと向かい、それを見送ったわたしも職員室へと向かい――その途中で、スマートフォンのあるアプリが着信音を発する。急遽行き先を変更したわたしは保健室へとやってきた。エイラはわたしを待っていたような顔である。
さてさて、とわたし達はそのアプリを起動する。
『……それにしても本当によく食べるわね』
『ひとっ走りしてきたからな』
スマートフォンから聞こえてくるのは男の子と女の子の声。一人はゆうくん、もう一人は彩羽ちゃんのものだ。なおわたしのときもそうだったけど、ランニングで小腹が空くので授業が始まる前にコンビニで買っておいたおにぎりを食べるのが習慣となっていた。
『どんだけ食べるわけ? 朝にあれだけ食べたのに。ゴリラがブタゴリラに進化しそうね』
『それは進化なのか?』
ちーちゃんの憎まれ口にゆうくんは首を傾げた様子だった。
『てゆーか、今は体重減っててピンチだからな。もっと飯と肉食って体重増やさないと』
『ゴリラがゴリラ・ゴリラに進化しそう』
『それはただの学名だ』
『でもそれだけ好き勝手食べてて体重減るのは羨ましい! わたしが五〇〇グラム減らすのにどんな思いをしていると?!』
『百佳さんの組んだメニューを二、三日も続ければ二キロや三キロすぐに落とせるぞ』
『人間にできる範囲で考えてくれない? それで生命まで落としたら元も子もないでしょ』
『いや、さすがに基礎トレーニングだけで死ぬことは……多分大丈夫だと……』
『よく考えて。組んでいるのはあのお母さんよ』
『……い、いや! この臨死体験を乗り越えてこそのオリンピック! たとえ死すとも前のめりに!』
『死んだらうちの庭にお墓立ててあげるわ。「ゴリラ森に還る」って』
それは高校生らしい、他愛のない軽口の叩き合い。ゆうくんもちーちゃんも青春してるじゃないかと、わたしの顔はにやけたものとなった。
「エージェントIはいい仕事をしています」
「そうね、本当に」
そのアプリは別のスマートフォンが収音した音声を流すだけのもので、相方のスマートフォンを持っているのは彩羽ちゃんだ。彩羽ちゃんがゆうくんとちーちゃんと一緒にいる機会があれば、こうやってその会話を盗聴……いや、彩羽ちゃんに無理強いしているわけじゃないから! 聞かれたくない会話は流さなくていいって言っているから! それにこのために用意した高性能スマートフォンの、通話料から一切合切をわたしが負担しているし!
『でもその辺変わるかもしんねーぞ。多分嫌な方向に』
と会話に割り込んできたのは山武君だ。
『萬田が柔道部に復帰するって話を聞いた。二年三年はお通夜みたいになってる』
『ああ、あの嫌な奴』
『それはご愁傷様だねー』
と彩羽ちゃんが同情した。
わたしのときも顧問だったので彼のことは嫌と言うほど知っている。この平成の時代に竹刀を振り回して怒鳴り散らし、平手打ちくらいは当たり前。そのスパルタで強くなった選手は多いだろうけど、潰された選手だって少なくないはずだ。わたしのときは強豪校と言っても「全国にたまに出場する」レベルだったけど、この時間軸ではわたしが早くからテコ入れした結果「全国に出場が当たり前」レベルとなっている。でもそこが頭打ちで、上位入賞するのはよほど運に恵まれたときだけだった。
にもかかわらず、彼は自分のやり方を変えず、むしろそれに固執し続けた。当初は全国出場で大喜びしていた周囲もいつしかそれが当たり前となり、それ以上を期待するようになり、でもそれが達成されず、「柔道部は最大限の優遇を受けているのに」と失望がくり返される。結果を出せない焦りと苛立ちが指導という形で部員へと転嫁され――ついには部員の一人を竹刀で殴って大きな怪我を負わせてしまったのだ。それが今年の三月のことで、わたしのときにはなかった事故なのでちょっとびっくりした。
でもいい機会だったから萬田先生にはこれを理由に謹慎という形で柔道部顧問から外れてもらい、そこにわたしと七熊先生が入り込んで柔道部を掌握してしたのである。
『でもあの百佳さんが、よく知らない奴に今の柔道部を好きにさせるとは思えないけど』
判ってるね、ゆうくん。萬田先生は「よく知らない奴」じゃなく「よく知っている奴」だけど、だからこそあいつの好きにさせるわけないじゃない!
「あいつ等を甘やかして懐柔したみたいだが、そんなやり方が全国に通用するか! 俺が戻ってきたからにはあいつ等に気合を入れ直す!」
萬田先生にいきなり怒鳴られ、わたしは目を丸くしてしまった。ときは六時限目が終わろうとする頃、場所は武道場。柔道部の今後を話し合うためわたしはそこで萬田先生と対面しているたのだが……わたしを委縮させて主導権を握ろうって魂胆なんだろうけど、わたしのバックにはエイラと七熊先生が(文字通り)付いている。その威圧もただの虚勢にしか見えなかった。
「これまでのやり方が通用したのは全国の下位まででしょう。時任がそれで満足していると?」
氷点下の目と顔と声でエイラがそう告げ、萬田先生が歯軋りをする。でもさすがにエイラに、ひいては時任に喧嘩を売るほど彼も考えなしじゃないようだった。
わたしは「まーまー」とそれっぽい笑顔を作り、
「わたし達は先生のこれまでの手腕を認めていないわけじゃありません。飴と鞭じゃないですけど、わたしと先生で役割分担をしてやっていきたいと思っています。具体的には、先生には基礎トレーニングと全体の底上げを。わたしと七熊先生でレギュラー陣の強化をしていきます」
「俺に二軍を担当しろと?」
「七熊先生に二軍を担当しろと言うんですか?」
七熊先生が不敵に笑い、萬田先生は「けっ」と顔を背けた。
……そして始まる部活動。ひとまずは三年と二年レギュラーをわたしと七熊先生で指導し、二年残りと一年を萬田先生が担当する形となっている。基礎体力強化トレーニングのメニューはこれまでと変わらず(変更の権限を萬田先生に与えていないので)、萬田先生からは竹刀を取り上げて鉄拳制裁禁止を厳命している。今度やったら即馘首だ、と。
それでも、部員がのびのびと柔道をしているかと言えばそんなわけもなく、萬田先生は「俺は不機嫌だぞオーラ」をまき散らし、部員達は首をすくめて嵐をやり過ごそうとしていた。で、その嵐の直撃を食らっていたのかがゆうくんである。
「おらおらどうした! メダリスト!」
乱取りの稽古で萬田先生はゆうくんに目を付け、ひたすらいじめようとしていた。萬田先生はゆうくんよりもわずかに背が高く、体重差は二〇キロにもなるだろう。萬田先生がゆうくんを捕まえて力任せに振り回し、投げ飛ばし――今のは技ありかな。
「けっ! この程度でオリンピックだと? 笑わせるな!」
さらに払い腰を仕掛ける萬田先生だけど、失敗。次の大外刈りは、せいぜい有効ってところか。萬田先生の攻撃をゆうくんはしっかり受けて、耐えている。ゆうくんの目は闘志に輝き、相手の隙を狙い続けている。萬田先生は苛立ちを強めたようで、
「おらっ!」
雑に仕掛けてきたその瞬間に、ゆうくんが出足払い! 萬田先生は一本あげてもいい勢いで派手にひっくり返った。萬田先生は自分が投げられたことが信じられないような顔で、自分を見下ろすゆうくんを見上げていて、
「くそが!」
跳ね起きた萬田先生がゆうくんに掴みかかり、その勢いで頭突きをし――確実にわざとだな。鼻を強打されて怯んだ隙を突かれ、ぶん投げられるゆうくん。ゆうくんは受け身に失敗して起き上がれない様子……あれも半分以上わざと、受け身が取れないように投げたな。ゆうくんを殺す気か?
「ふん、邪魔だ。寝るなら隅で寝ていろ」
それで留飲を下げたのか、そう言い捨てて次の獲物を探す萬田先生。ゆうくんは山武君に引きずられて隅っこに移動し、わたしはそこに駆け寄った。
「大丈夫? 動ける? エイラ呼ぶ?」
「あー、大丈夫大丈夫。ちょっと油断しただけ」
ゆうくんは顔をしかめながらもすぐ起き上がり、わたしは安堵した。
「馬鹿だね、お前も。おとなしく投げられてりゃ痛い目に合わずに済むのに」
「なんで自分より弱い奴に投げられないといけないんだよ」
山武君の言葉に、ゆうくんは本気で不思議そうに言う。
「あんな手段を使ってくる奴だと、最初から判っているならやりようはある。次は負けない」
「いやあれ反則だから」
静かに闘志を燃やすゆうくんを、わたしは半ば呆然と見つめていて、
「……何かありました? 姫宮先生」
「え、あ、うん。格好いいなゆうくん、って」
ついぽろっと出た言葉にゆうくんは大いにうろたえ、「俺は?! 俺は?!」と山武君が騒いでいる。……それにしても、わたしってこんな子だったっけ? 負けず嫌いなのはそう変わっていないだろうと思うけど。
「お、オリンピックに行くなら相手が誰だろうと負けるわけにはいかないだろ」
「じゃあ七熊先生が相手でも勝ちに行くのかよ」
「当然」
ゆうくんは即座に断言した。
「負けるつもりで挑みはしねぇ。いくら金メダリストでも二〇年も前の話で、もうアラフィフだろ。一本取られないよう粘りに粘って、スタミナ切れを待てばきっと隙が」
「ホウ! それは面白いネー!」
いきなり声をかけられてゆうくんと山武君が硬直した。振り返るといつの間にそこにいたのか、七熊先生の巨体がそびえ立っている。
「その作戦が通用するか、試してみますカ?」
七熊先生は牙を剥き出しにして笑い、ゆうくんを挑発する。ゆうくんは一瞬の逡巡を呑み込み、
「押忍!!」
と彼に立ち向かった。頑張れゆうくん! 負けるなゆうくん! ……いやまあ、さすがに七熊先生は相手が悪すぎで、一本一本技あり一本技あり一本って感じでぽんぽん投げられちゃうんだけど。
「テクニック! パワー! スピード! スタミナ! ウエイト! 何もかもが足りないネ! オリンピックには一〇年早い!」
「お、押忍……ありがとうございます……」
粘りも何も全く通用せず、へたばったのもゆうくんの方がずっと先。七熊先生は涼しい顔のままである。
「ゼンナ君は、九〇キロ級でしたカ。階級を下げるネ」
七熊先生の言葉に、ぶっ倒れたままのゆうくんは「え?」と起き上がった。
「八一キロで戦えってことですか? でも俺の身長なら」
「まだまだ身体ができていない。今のままじゃ勝てないネ。九〇キロでやるのは来年の話ネ」
それはゆうくん自身も百も承知で、何度も考えたことだった(実際わたしも一年のときは八一キロ級だった)。でも階級を下げるのは逃げのように思えるから九〇キロにしがみついていたわけだけど、七熊先生の忠告に耳を閉ざすほどゆうくんは頭が固いわけじゃない。
「……考えます」
うん、しっかり考えるべきだと思うよ。相談にはいくらでも乗るから! 七熊先生は「オリンピックには一〇年早い」って言っていた。でも、今のゆうくんにはなかなか想像が難しいかもしれないけど――一〇年後のゆうくんって、二五歳。柔道選手としての全盛期になるんだよ?
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