第一話その2「一心不乱の青春ラブコメを!」

 外で鳴っている「ガチャガチャ」という音は古い南京錠が外される音で、わたしがそれで目が覚めた。天井には小さな白熱灯、四方は漆喰の壁、地下室なので窓はない。床は畳で、広さは八畳。壁の一方には木製の格子……などということはないけど、やっぱり牢屋っぽく小窓付きの、分厚い鉄の扉がそこにあった。それを開けて入ってきたのは、一人の女性である。

 年齢は二〇の手前くらい。身長はかなり高く、一七〇の半ばくらい。身長に応じておっぱいとお尻も大きいけど均整は取れていて、スマートさとグラマラスさを両立させた奇跡のようなスタイルだ。その容貌もシャープな印象の美人さんで、モデルと言われても信じられる……いや、モデルとしか思えなかった。身にしているのは白いシャツと黒いパンツスーツ、黒い上着を手に持っている。


「お久しぶり……いえ、記憶をなくしているんでしたか」


 一瞬だけ思案した彼女が深々と頭を下げて挨拶をした。


「本日からお嬢様の側仕えとなる、時任エイラと申します」


「なんでメイド服じゃないの?」


 言われたことが理解できないようにエイラさんは「はい?」と首を傾げる。


「お嬢様の側仕え、って言えばメイドさんでしょうが!」


「はあ……そんなものなのでしょうか」


「そうに決まっているの! わたしの側仕えだって言うんなら絶対にメイド服!」


「判りました、できるだけ早く手配します」


 その返答にはわたしはひとまず満足して「よし」と頷き、


「それじゃ次に」


「はい」


「身体が痛い、トイレ行きたい。これほどいて」


 ロープでぐるぐる巻きにされて畳の上で寝転がったまま、わたしがそれを要求。


「普通そちらが先じゃないんでしょうか」


 とエイラさんは言いつつもわたしをトイレに連れて行ってくれた。

 ……さて。それから一時間ほどを経て、時刻は午前八時。トイレに行って昨晩は入れなかったお風呂に入って歯を磨き、しっかりと朝食を食べて。なおこの間エイラさんはほぼずっと付きっ切りだったし、今もすぐ目の前にいる。一緒にいなかったのはトイレのときくらいで、わたしが逃げ出さないか、自殺をしないかと、目を光らせ続けている。

 さて。わたしとエイラさんが今いるのは地下の座敷牢で、畳の上で楽な姿勢で座っている。「話がしたい」というエイラさんの要求をわたしは「他の人に絶対に聞かれない、聞かせない」ことを条件に承諾。その条件に適う場所として選んだのがここなのだ。拘束はもう解いてもらっているけどこの部屋には自殺に使えるものは何もない。エイラさんと喧嘩をしてもこの身体じゃまず勝ち目はないし、何とか隙を突いてこの子を殴り倒して逃げ出しても、階段やその上に何人も見張りが配置されているから(グループのボディーガードだという話だ)どう考えても逃げようも死にようもなかった。

 もっともわたしは一回自殺に失敗し、一晩経って頭も大分冷えて、自殺するつもりはもうなくなっているんだけど。でもそれをこの子に信じてもらうのは簡単ではなく、何から話をするべきか……


「……姫宮宮司や奥さまにはお話できないことなのでしょうか」


「あの二人は信用できない」


 わたしの即答にエイラさんはわずかに目を見開いた。

 ――エイラさんがわたしの側仕えをやるというのは姫宮家や時任家の間ではずっと前からの決定事項だったに違いなく、「歳の近い同性の方が話しやすいだろう」という判断にも異論はない。でも、自分の愛娘が自殺未遂をしたのにその問題解決を他人任せるにするのは、どういう了見なのだろうか? この「姫宮百佳」に対する愛情が少しでもあるのなら、力及ばずとも自力で何とかしようとは思わないのだろうか?


「お二人よりもわたしを信用していただけると」


「知っているから」


 この時任エイラという女性が誠実で、信頼に値し、何かあっても「姫宮百佳」の味方である、という事実を。


「記憶を取り戻したのですか? でもわたしとお嬢様はさほど親しくは」


「ああ、うん。記憶を取り戻したと言えばそうなんだけど……」


 どうするべきか少しの間ためらいながらも、


「――思い出したのは『姫宮百佳』じゃなくて『善那悠大』の記憶なのよね」


 わたしは思い切ってそれをぶっちゃけた。エイラさんが不思議そうに首を傾げている。


「善那? 確かこの町内にそんな名前の方がおられましたか」


「うん、一から全部説明する。突拍子もない、夢か妄想としか思えない話なんだけど、まずは最後まで聞いて」


「判りました」


 エイラさんはわずかの逡巡もなく確固とそう頷いた。






 さて。前世のわたし、「善那悠大」は大歳寺市宮前町在住の善那京大けいた・正恵夫妻の長男である。生まれたのは二〇〇〇年一〇月三一日。今は生前七ヶ月、善那正恵さんのお腹の中でぷかぷかと浮かんでいる。

 生まれたわたし、「善那悠大」はごく普通の子供として、この町で当たり前にすくすくと成長した。しいて特筆するなら小学生から柔道を始めてそれに熱中し、柔道に青春を捧げたことくらいか。将来はオリンピックで金メダル!を本気で信じ、それを実現するために一〇年間頑張ってきた。高校二年のときには全国大会で上位入賞し、オリンピックを公言しても最低限恥ずかしくないくらいの成果は挙げてきたのだ。

 でも高校三年の五月、全てが奪われた。自動車に轢かれたわたしは死ぬ寸前の重傷を負い、かろうじて一命はとりとめたけど長期間入院し、まともに動けない身体となってリハビリに一年以上を費やし、杖があれば何とか自力で動けるくらいには回復し――でもそこまでだった。動けると言っても身の回りのことが最低限できる程度。スポーツや格闘技など望むべくもなく、オリンピックなんて夢のまた夢。さらには高校も中退となってしまい……でもそれだけだったなら、悲嘆に暮れながらもそのうち立ち直っていたかもしれない。

 問題はわたしを自動車で轢いたのが「姫宮百佳」で、最悪なのが彼女が殺意を持ってそれを成したことで、さらに絶望的なのは彼女が罰らしい罰を何ら受けなかったことだった。

 彼女はわたしのお向かいさんだったけど交流があったわけじゃない。その顔もほとんど見たことがなく、対面したのは自動車で轢かれたときがあるいは最初だったかもれしない。

 交流はなかったけど狭い町内のことなのでその噂話は耳にしていた。「姫宮百佳」は中学までは普通の少女で、コミュ障でほとんど口を利かず友達は一人もいなかったらしいがそれでも普通の範疇に収まる話だった。でも高校入学直前に精神のバランスを崩し、高校はずっと不登校のまま退学。姫宮のお屋敷に引きこもりとなってしまう。わたしも含む、近所の悪ガキがその噂を聞いて「座敷牢おばさん」などと綽名したわけだが、彼女はずっと閉じこもっていたわけじゃなく、ごくまれに外を出歩くことがあったという。そのときの彼女は今のわたしと比較すればその体重が倍にもなりそうで、精神のバランスを崩したせいで過食症となったのではないか思われた。

 その彼女が、免許も持っていないのに自動車を運転し、日課のランニングをしていたわたしに自動車をわざとぶつけ、さらにはバックで戻ってローラー掛けをするみたいにわたしの上を何往復もし――本当に、死ななかったのが不思議なくらいの有様だった。

 さすがに殺人未遂で逮捕はされたけど精神鑑定で「責任能力なし」と判定されてしまって……おそらくは時任グループが総力を挙げて警察や検察に圧力をかけた結果だろう。でも色々とおかしかったのは町内なら誰でも知っていることだし、


「あいつに殺される前にあいつを殺してやったんだ」


 事情聴取ではそんな意味不明な供述をくり返すばかりだったそうなので、圧力がなくとも「責任能力なし」となっていたかもしれない。さらには時任グループが善那夫妻と示談を成立させてしまったのも、検察の判断に影響を与えたことだろう。

 グループや姫宮家に逆らって生きていけるはずもない、というのはこの町に暮らす者には常識以前の話である。さらには善那夫妻は二人ともがグループの一企業に所属するサラリーマンだ。巨額の慰謝料を提示されて「逆らうよりも従った方が利口」と判断したのも無理からぬことかもしれない。でも、わたしがその顛末を聞いたのは何ヶ月も経ってから、全てが後の祭りとなってからなのだ。

 容態がある程度落ち着くまでは心身に負担をかける話はできなかった、という言い訳に一利ないではないが、でも息子が殺されかけたのに金だけもらって犯人は無罪放免で(精神病院に強制入院とは聞いたけど)被害者のわたしに一切の相談も断りもなしなど、認められる話だろうか?

 二人とも仕事人間で親らしいことをしてもらった記憶がろくになく、それでも自分の親に対する敬意や愛情は人並み程度には持っていたつもりだったけど、この件で親子関係には修復不能な深い亀裂が入ってしまう。その後、退院したわたしが慰謝料の一部を使おうとし、それが両親によって使い込まれていることが発覚し――しかもその理由が母親の不倫の後始末だったり父親が風俗にはまって作った借金の精算だったりし――親子関係は完全に破綻した。

 ……百歩くらい譲って、勝手に示談を成立させてわたしに散々罵られ、泣かれ、それを互いに責任転嫁したせいで夫婦関係も冷え切ってしまい、不倫や風俗のドツボにはまってしまった、というのは理解できないことではない。でもその後始末をわたしの慰謝料で何とかするのは人としてどうなわけ?

 ともかく。踏んだり蹴ったり轢かれたり潰れたりネコババされたりのわたしは完全に心を折られ、腐ってしまった。障碍を理由に働かず、勉強もせず、漫画やアニメやゲームに耽溺する、ニートの引きこもりとなってしまったのだ。漫画やゲームは人並み程度にはたしなんでいたけどそれよりもずっと柔道に熱中していて、それに溺れるようになったのは引きこもりになってからである。さらにはろくに動けないのに食生活は以前からそこまで減らず、さらにひたすらお菓子を食べ……その結果生まれたのは体重百キロを超える脂肪の塊だった。この重量を壊れた足で動かすのは難儀で、昔を知っている人間に腐り果てたこの姿を見られたくなく、結果ますます引きこもるようになり、ますます贅肉がつき……わたしは奈落へと堕ちていく悪循環にはまり込んでいた。

 何とかしなくちゃ、という焦りがなかったわけでは決してなく、むしろ焦っていたから大失敗したというか……わたしもこの悪循環から抜け出したいと切望していたのだ。慰謝料は億単位の大金だったけどそれでも一生遊んで暮らせるほどじゃない。数割使い込まれた上に少しずつ目減りしていく通帳残高をちょっとでも増やすべく、わたしは株式投資を始めた。最初は小遣い稼ぎ程度のつもりだったけど思いのほか上手くいき、資産は順調に増えていった。調子に乗ったわたしは投資額を増やし、それは倍になって返ってきて、通帳残高も最初の倍となり――でもついには大失敗した。

 持っていた株は全部紙くずとなり、通帳残高はゼロを通り越してマイナス。洒落にならない額の借金を作ってしまい、どうしようもなく両親に相談し、罵倒され、泣かれ、こっちも昔のことがあったからつい逆切れして罵り合いの大喧嘩となり、家を飛び出して。

 行く当てもなくこの町を歩いていて――そこに襲いかかってきたのが「姫宮百佳」だ。精神病院を退院して姫宮家で引きこもりとなっていたとは耳にしていたけど、まさかまた襲ってくるとは夢にも考えておらず、必死に逃げ回るけど壊れた足では自動車から逃げられるはずもなく、ついにはぶつけられて……






「バスで町の方に向かうつもりで歩いていて、ぶつけられたのは橋の近くだったかな。川に落っこちたわたしはコンクリートブロックか何かに頭をぶつけて、頭は完全に砕けたと思う。『善那悠大』はあのとき、確実に死んだ。享年二三歳」


 なむなむ、と合掌するわたしに、「ご愁傷さまです」と神妙な顔をするエイラさん。そうして目が覚めたら「姫宮百佳」という女の子になっていて、記憶は全て失っていて、「善那悠大」を身ごもっている善那正恵さんと出会ったことをきっかけに「善那悠大」の記憶を取り戻し……


「なるほど」


 全ての説明を聞き終え、エイラさんがそう言って頷く。


「つまりは、時間を遡っているということでしょうか」


「そういうこと。二〇〇〇年三月のこの『姫宮百佳』の身体に、二〇二四年三月まで生きた『善那悠大』の記憶が宿っている。わたしはそれを前世の記憶だと思っていたけど」


 死んだ「善那悠大」の魂が時間を遡って「姫宮百佳」として生まれ変わって前世の記憶を取り戻したのか、あるいは死んだ「善那悠大」の魂だけが時間を遡って「姫宮百佳」の身体を乗っ取ったのか、はたまた死んだ「善那悠大」の記憶だけが時間を遡って「姫宮百佳」の脳に宿ったのか。


「記憶という情報だけが時間遡行した、という可能性が一番高いように思います。情報には質量がありませんから光速の壁を超えて時間遡行することも、もしかしたらあり得るかもしれません」


「……あの、エイラさん」


「はい」


「もしかして信じてくれるの? 今のこの、自分でも妄想としか思えないようなトンデモな話を」


 わたしのおそるおそるの確認に彼女は確固として「はい」と頷く。


「確かに夢か虚言としか思えないお話でしたが、心当たりがあります。わたしは先代の『大歳の巫女』、十和様には目をかけていただき、可愛がってもらいました。十和様も色々と不思議な、非常に変わったお方でしたが、それも『時間遡行した未来人』と考えれば腑に落ちることも多いです」


「そう……信じてくれるの」


 信じてくれたのは先代巫女のことが大きいだろうけど、それだけじゃない。「何があってもわたしのことを信じる、味方をする」、そう決めたから――それが一番の理由のはずだ。

 エイラさんと会ったのは今日が初めてじゃない。「善那悠大」のときに何度か会っている。姫宮家の関係者の中で病院に見舞いに来て、「善那悠大」に直接会い、直接謝罪をしたのは彼女一人だけである。それも一度ではなく、何度も、何度も。「善那悠大」が怒り狂い、泣き喚き、散々に罵り、花瓶を投げつけ、それを頭部に受けて血を流しながらも、彼女はひたすら土下座をし、許しを請い続けたのだ。


「ああ……エイラさん、あなたがいてくれて良かった」


 感極まったわたしの泣き笑いに彼女は、


「エイラと。わたしはお嬢様の側仕えです」


「腹心で右腕で左腕で懐刀でブレインね」


「お嬢様はどこに残っているんですか?」


 彼女はそんな軽口を言って薄く笑い、わたしもまた全ての屈託を吹き飛ばして笑った。

 ……さて。話を戻して。


「今の話を信じたなら理解はできたと思うけど、わたしの自殺未遂の理由は」


「自分を殺した『姫宮百佳』を許せなかったから、ですか」


「ああ、うん、なるほど。半分くらいはそうかもしんない」


 今はともかく、記憶を取り戻した直後は自分と「善那悠大」は完全にイコールだった。自分の夢を奪い、足を奪い、人生を奪い、生命を奪った「姫宮百佳」を許せず、自分諸共ぶっ殺そうとするのも当然……というか、その怒りの衝動とエネルギーがなければあんな勢いで自殺するのは、今から思えば無理な話だった。


「でもそれより大きいのは、この『姫宮百佳』を放っておけばまた『善那悠大』を殺そうとするか、殺してしまうから。ならそうなる前にこいつをぶっ殺すしかないでしょ?」


「勢いだけで行動しないでください」


 エイラが疲れたようにため息をつき、不満を覚えたわたしは頬を膨らませた。


「今のお嬢様が善那悠大を殺そうとしなければそれで済む話ではないのですか? そもそも何故、『姫宮百佳』は『善那悠大』を殺そうとしたのでしょうか?」


「根拠や証拠は何もなくて、九割方想像なんだけど……『姫宮百佳』は『大歳の巫女』として目覚めたなら自分が消えてしまうことを知っていたんじゃないかと思う」


 表情を固定したエイラが眉だけを動かす。わたしは構わずに話を続けた。


「今、わたしの中に元々の『姫宮百佳』の記憶も人格も、何も感じない。元々の『姫宮百佳』からすれば今の状態は自分が消えた、殺されたも同然じゃない? 彼女はそうなることを判っていたんじゃないかと思う。明確にじゃなくとも、直感的に、感覚的にくらいは」


 先代の「大歳の巫女」姫宮十和が亡くなり、姫宮家と時任グループは新しい巫女を待ち望んでいた。「姫宮百佳」に巫女としての覚醒を求めていたわけだが、それは彼女にとって自分の死を望まれるのと同義だった。もしそれを理屈として判っていたならこの家から逃げ出す等の選択肢もあっただろう。でも彼女はそれを感覚的にしか判っておらず――そうであっても、両親を含めた周囲全てに自分の死を望まれるのは、どれほどの地獄だろうか? 彼女が精神のバランスを崩したのもそれが要因の一つだと思われた。

 そして今のわたしが姫宮夫妻を信用できないのは、この辺りが最大の理由だった。今のわたしが覚醒前の「姫宮百佳」と全くの別人なことを、一週間一緒に暮らしてきて判らないはずがない。でも二人はそれを気にする様子を一切見せなかった。二人にとって優先するべきは「大歳の巫女」であり、血を分けた自分の娘のことではない――お役目上そういう感覚になるのも仕方ないのかもしれないけど、それじゃ「姫宮百佳」があまりに哀れではないか。またそういう両親だったからこそ「姫宮百佳」の精神は持たなかったのだろうが……と、それはともかく。


「『姫宮百佳』は自分を殺し、自分の身体を奪うのが『善那悠大』だと判っていた。だから殺される前にぶっ殺してやると行動した結果が今のこの状態、なんじゃないかと思ってる」


「……ですがその結果というのが、『善那悠大』に身体を乗っ取られたも同然の今のお嬢様なのでしょう? 原因と結果が逆なのではないのですか?」


「まさしくその通りで、考えれば考えるほどこんがらがるんだけど――でも、根拠はなくても感覚的にはそれが正しいとわたしは確信している」


 わたしの断言にエイラが沈黙、それは思いのほか長く続いた。

 主観的には「善那悠大」の意識がそのまま連続して「姫宮百佳」の身体を乗っ取ったとしか思えない状態なんだけど、「善那悠大」は二四年後に死んで、そこで終わっている。「記憶という情報だけが時間遡行した」という説が正しいのなら元の「姫宮百佳」は死んだわけではなく、単に記憶を失っただけ。「姫宮百佳」に対する恨みつらみがなくなったわけでは決してないが、それは元の人生のときの話であって、今の「姫宮百佳」とは無関係。さらには「姫宮百佳」とわたしは、客観的にはイコールだ。

 そもそも、「姫宮百佳」が「善那悠大」をぶっ殺したから今わたしはこんなことになっているのであって、このトンデモな奇跡を引き起こしたのも「姫宮百佳」、その血に宿る力なのは疑いない。この身体を乗っ取ったことに対する罪悪感はゼロではないけど、諸々の原因を考えれば差し引きゼロ、むしろ「姫宮百佳」がごめんと謝ってしかるべきではないだろうか?……ということで、この件はこれ以上気にしない。わたしはこの身体でこれからを生きていくしかないのだから。ただ問題は、


「……ですがそうなると、今のお嬢様が今の善那悠大を殺そうとするのはあり得ないでしょう。お嬢様が死ぬ理由もないのではないのですか?」


「確かにそうなんだけど、安心はできない。今がそのままあの未来の過去だって可能性もないわけじゃない。もちろん今は進んで死にたいとはこれっぽっちも思ってなくて、何とか死なずにあの未来を回避できないかと思ってるんだけど」


「それなら、知っている未来では確実に起こっていなかった何かをすればいいのではないでしょうか。そうして過去を変えてしまえば」


 その良案にわたしは「おお」と目を見開いた。


「知っている未来はつながらない……! あの未来だって回避できる! ええと……それなら例えば、未来に確実に残っていた適当な建物を爆破するとか」


「本気でお望みなら手配しますが」


「いやちょっと待って」


 今のは古い漫画を元ネタに案を一つ挙げただけだけど、でも他に良案がなければ本気で検討してもいいかもしれない。爆破ではなく、もっと穏当なやり方も。焦らずにそれを思案する時間くらいはあるはずだった。

 あの悲惨で無残で最底辺な未来を回避できる――それを示され、わたしはかつてない晴れやかな気持ちとなった。冤罪で死刑判決を受けた人間が無罪を勝ち取ったならこんな気分かもしれない。低調だったテンションが一気に上がってくる。


「それじゃ『大歳の巫女』として、是非今やるべきことだけど! 後でまとめて指示するから株を買えるだけ買っといてね!」


「株ですか?」


「そう!」


 グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾンの四大企業を筆頭に、今後二〇年で急成長する企業名は「善那悠大」の記憶に残っている。この先の二四年、運用さえ間違えなければ兆に届く収益を上げることだって不可能じゃない話だった。


「わたしが『大歳の巫女』として活動できるのはこの先の二四年。その間にできるだけ稼いでグループの経済基盤を固めておかないとね」


 大威張りで胸を張るわたしに畏敬の目を向けるエイラ。後は、両親の愚痴とか経済新聞の地方面とかネットの記事を参考に指示をするなら、


「今グループのトップって、時任高出だったっけ。できるだけ早く馘首クビにして」


「何か問題が?」


「むしろ問題しかない。セクハラにパワハラに横領まがいの公私混同。これにコロナの大打撃が加わって一時グループは本当にやばかった」


 ちょうど他に大したニュースのない時期だったせいで全国紙や週刊誌にも取り上げられて大問題になったのだ。コロナ?と首を傾げるエイラにその説明は後回しにしてもらい、


「で、転覆寸前まで傾いたグループを立て直したのが時任周広って人。この人はなるべく早くトップに据えた方がいいと思う」


「判りました」


 と確固と頷くエイラに、わたしもまた満足する……いや、「できるだけ早く」「なるべく早く」って指示したのはわたしだけど、まさかその日のうちにそのままやっちゃうとは思わないじゃん。しかも役員の誰一人として反対しなかったとか……まあ、これはずっと後になって知った話なんだけど。


「やっておくべきはそのくらいかな。細かいところまであれこれ口出ししようとは思わないから」


「それがよろしいかと」


 「大歳の巫女」としてのお勤めはこのくらいとして、


「……それじゃ、これからどうするかな。わたし」


 思いがけない人生二周目だけど、この身体じゃさすがにオリンピックは無理だろう。株は約束された勝利のGAFAなわけで、運用もグループの専門家に任せた方が安全だ。他に何かすることは……


「四月から高校生でしょう? 普通に充実した高校生活を送ったらいいのではないですか? 勉強なり、恋なり」


「恋……? 恋……そう、恋! 恋愛よ! ラブコメなくして何が青春かー!!」


 拳を突き上げて絶叫するわたしにエイラが目を丸くした。


「前はあまりに悲惨だった。みじめだった。もう二度とあんな人生にしない! あんな青春は送らない――善那悠大に青春を! ラブコメを!」


「お嬢様が恋愛をするわけでは……?」


「わたしのことなんてどうでもいいのよ!」


 わたしの剣幕にエイラは「ええぇぇ……」という顔になっている。


「ええぇぇ……」


 あ、声にも出した。まあそんなことはどうでもよろしい。


「あの、善那悠大とは、今はまだ生まれてもいない子供の方ですか。その子を死ぬような目に遭わせないのは言うまでもありませんが」


「それだけじゃ足りない! そんなことだけじゃ、わたしのあの悲惨で無残で最底辺だった人生の埋め合わせにはならない! この時間軸の善那悠大が誰よりも幸せになって、それでようやくわたしは救われるのよ! そのためにはラブコメよ!」


 やっぱりわたしのこともどうだってよくはなかったけど、でも優先するべきはわたしなんかより善那悠大の方なのは間違いない。そもそも彼とわたしを区別する必要なんかないじゃないか。善那悠大が不幸ならわたしだって不幸だし、彼の幸せがわたしの幸せ。彼のラブコメな青春がわたしのそれなのだ! だからこれはタイトル詐欺なんかじゃいやそれはともかく!


「とびきり可愛い女の子とキャッキャウフフでイチャイチャラブラブなラブコメを! 善那悠大に一心不乱の青春ラブコメを!」


 オリンピックを目指し、柔道に捧げた青春に悔いがあるわけじゃない……いや、少し嘘。可愛い女の子と一緒に勉強して学園祭の準備をして、海水浴とか夏祭りとか花火とかのデートをして、手をつないで肩を寄せ合い腕を組んで歩いてキスをして――そんな、イチャイチャラブラブな青春が送りたかった。漫画みたいなラブコメはオリンピックにも勝るとも劣らない、永遠の憧憬だったのだ。

 高校時代に特によく読んでいたのは伊青蓮華いせ・れんげの青春ラブコメ漫画だ。伊青蓮華の漫画の大半は海に近い田舎町が舞台となっていて、そのいくつかは大歳寺市をモデルにしたものとされている。世間的にはいまいち人気が出なかったけど地元がモデルの漫画なので、感情移入して読んでいたのだ。特にヒロインの可愛らしさが絶品で、「こんな可愛い子が彼女になってくれたなら」とどれだけ夢に見たことだろうか。でもそれはただの夢想で、独り身の寂しい男子が自分を慰めるための妄想でしかなかったのだが、


「でも今なら、この立場ならそれを現実にできる! 漫画みたいな青春ラブコメを本当にすることができるのよ!」


 わたしの決意と覚悟にエイラはぽかんと口を開け、感動のあまり言葉もないようだった。彼女がおそるおそる疑問を呈したのは随分と時間が経ってからである。


「……あの、具体的にはどのようにそれを実現するのでしょうか。非常に難しいのではないかと愚考する次第ですが」


「確かに簡単じゃないわね」


 うーむ、と腕を組んで唸るわたし。


「まずは何より、必要なのはヒロインか」


「わたしとお嬢様で迫りますか?」


「何歳差になると思ってるのよ」


 三〇代の美女二人に迫られる高校生――それ、ラブコメじゃない。どう見てもエロ漫画です。


「何にもないよりは百倍マシだから計画が全部失敗したならそれも選択肢に入れるけど」


 マジですか、とエイラの言葉遣いが崩れる。しかし何はともあれ、ヒロインの存在が大前提でありそれがいないことにはお話にならなかった。小中高と同じ学校には何百人と女子がいて交流の機会はいくらでもあったし、この町にだって近い年齢の女の子がいないわけじゃなかった。でも結局ラブコメにはならなかったのは「善那悠大」が「可愛い女の子とお付き合いしたい」と熱望していてもそのための行動を何一つとらなかったためであり、放っておけばこの時間軸でもそうなるのは目に見えていた。


「善那悠大とヒロインをどう誘導してラブコメに持っていくか……いやその前に、そもそもヒロインをどこから持ってくる?」


「いっそお嬢様が今から産みますか?」


 エイラの提案にわたしは目を真ん丸に見開き――


「その手があった!! そうよ、それよ! ヒロインがいないのなら自分で産めばいい!」


 最高に冴えたやり方にわたしはとびっきりの笑顔となって、エイラは何故か猛烈に焦っている。


「お、お嬢様、今のはただの冗談……」


「ご近所の幼なじみはラブコメヒロインの原点にして頂点! 親って立場なら誘導のしようはいくらでもある! それに元の時間軸じゃ『姫宮百佳』の妊娠出産なんてなかったんだし、未来を変えるという意味でも一石二鳥! 最高よ、エイラ!」


 喜びのあまりわたしは彼女に抱きつき、エイラは何故だか放心して「失敗した失敗した失敗した」とどこかのバイト戦士よろしくくり返している。どうしたんだろうこの子は。変な子だけどこれでもわたしの無二の腹心なのだ。生温かく見守っておくとしよう。


「ああ、でももうすぐ四月じゃない。まずい、早くしないと同級生ヒロインを産めなくなる!」


 下級生ヒロインも悪くはないけどヒロインの王道にして覇道はやはり同級生だ。


「ちょっとその辺で男捕まえて子種仕込んでくるね!」


 外へと飛び出そうとするわたしだけど「いや待てや」とエイラに拘束されてしまい、そのまま座敷牢に監禁されてしまった。


「出せー! ここから出せー! おとこー! 子種ー!」


 わたしは扉をがんがんと殴るが分厚いそれを破れるはずもなく、エイラはその向こうで頭を抱えている。

 この時間軸でもわたしはこのまま「座敷牢おばさん」となってしまい、未来を何も変えらず、善那悠大もあの悲惨で無残で最底辺な人生をくり返すのだろうか? ――いや、そんなわけがない!!

 わたしは未来を変える! ヒロインを産む! 善那悠大はラブコメな青春を送るのだ! わたしの戦いは今日、ここから始まるのであるっ!



【後書き】

本作は毎日12時更新、最終話更新が2/11となります。しばしの間お付き合いください。

本作をご笑読いただき(文字通り)楽しんでもらえれば幸いです。

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