Epilogue
食後の水菓子を咀嚼している姿は書生にしては優雅だ。一方で、新聞に目を通している男は居心地が悪そうだった。器と魂の均衡が取れていないことは誰の眼からも明らかだった。
「戻りませんね」
「まだ一日ではないか。事実は小説よりも奇なりと言うだろう」
「明日まで戻らなかったらどうしますか......?」
「寺にでも行って祓ってもらうくらいしか我々には出来ないだろうね」
「そんな」
「それが天の思し召しなら仕方ないではないか」
達観した言葉に、葉織は思わず卓を叩いた。珍しく鴻紀の瞳に動揺が映った。
「俺は! ......俺は困ります」
「僕の身体は気に入らなかったかい? まあ、十近く歳の離れた身体だから動きづらいかもしれないが」
「そういうことでは」
酒の強い鴻紀の身体は年齢を感じさせず丈夫で、ほのかに香る煙草と視線の高さ以外は葉織に不便を感じさせることはなかった。
「では、何が気に食わないのだろうね。僕はお前の身体でも」
「本当に良いと思っているんですか」
見透かす様な自分の瞳に、鴻紀は溜息をつかざるを得なかった。葉織の眼は全てを美しく映す。自分にはない世界にほんの少しの物足りなさを感じつつも、甘やかな秋の木漏れ日を浴びながら、時折吹く木枯らしに身を縮め、言語感覚を捨ててまでも被写体に焦がれる心を羨ましく感じていた。戻らない未来を考えている鴻紀の瞳は、葉織と違い遠くにあった。
「......僕はね、葉織。諦めることを覚えてしまったのだよ」
重ねた歳は鎖になって、鴻紀を締め付ける。自由に発言をして、夢ばかり語っていい年齢ではなくなった。酸化した世界は、色褪せて整然と記号化されている。
「鴻紀さん。俺は、文芸は門外漢です。でも、......貴方は物書きから離れていい人間じゃあない。貴方が苦労して手に入れて、湧き上がってくる言葉たちを閉じているなんて勿体ない。この言葉は他人のためにあるんじゃない。貴方の言葉です」
他人の一挙手一投足にまで心を配り、無機物や無形の全てを言語化する鴻紀の身体は、物語を綴るためにあると葉織は感じていた。そして、この手は言葉を紡ぐためにあるのであって、絵をいう表現技法を望んでいないことも分かっていた。
「こんなに美しい世界を表現できる術を持った貴方が羨ましい」
「......そうかい」
美しい世界だと言い切る葉織の方が、鴻紀は余程羨ましく感じた。自身の目を通して見えるのは、知識という枠に囚われたつまらない社会だった。けれど、葉織の目を通して見た
世界は同じはずなのに、何処までも広く淡く優しかった。
「久しぶりに貴方の小説を読みたくなった。こんなに言葉の降る世界に生きている貴方が綴る物語は、きっとこの世界の本質を写していると思うから」
俗世で錆びてしまった身で書ける物など限られているのに、葉織の目は鴻紀が言葉を綴ることこそが唯一であると信じ切っていた。そして、鴻紀にとってもそれは唯一の手段であると思わされた。
「......葉織、お前もだよ。お前にあの日、声を掛けて良かったとつくづく思った。お前の見える世界はこんなにも色彩豊かで、曖昧模糊で......美しいのだね。筆を執り続けなさい。僕がお前を支えよう」
二人は、違った器で、違った魂で、自分を見つめていた。合わせ鏡のように、互いの思考は混ざっていく。誰の物かは分からない儘に、言語と色彩が重なり合う。
翌朝、葉織は自分の布団で目が覚めた。
「戻ったのか......」
ゆっくりと瞼を開ければそこに広がるのは、確かに自分の部屋だった。葉織は、手を開いたり閉じたりして、感覚を確かめた。正しい器は魂と馴染む。葉織は駆られたように立ち上がり、画架に被せた布を取り払った。描き掛けの絵を取り外し、白の画布を立て掛ける。いざ、筆を乗せようと思った時に襖が開いて、聞き慣れた声がした。
「おはよう! 葉織、今日も良い朝だ」
「おはようございます。鴻紀さん。俺、今から絵を......」
「まだ、描いていなかったのかい? 僕はもう書き上げたよ」
「はい? 一晩で?」
「嗚呼。夜中に目が覚めてね。気づいたら魂が戻っていたのだよ」
子供のように笑う鴻紀に、葉織は思わず微笑んだ。あれだ け言葉が溢れている人が、発散させないで生きていられる訳 が無いと思っていたが、たった数時間で詰んでいた物語を書 き上げたとは、彼が文豪と呼ばれる由縁であろう。
「じゃあ俺も絵に専念させて......」
「よし、朝餉にしよう。そうしよう。今朝は栗おこわにして もらったのだよ。さあ、急ぎ給え!」
「一寸、鴻紀さん!? 俺は絵を!!」
「今日はいっぱい食べさせるから覚悟し給え! これは家主命令だ!」
ぐいぐいと袂を引っ張る鴻紀に連れられて、葉織は茶の間に連行された。画壇の未来を消させないためにも、葉織には健康でいてもらわなくてはいけない。それが家主としての使命だと、鴻紀は謎の使命感に駆られていた。
「はは、愉快だなぁ」
「......全く。午後は放っておいてもらいますからね」
茶の間からは、美味そうな米の匂いがしていた。
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