第4章-4

 駅前の少し外れた場所に、不揃いな出立ちの集団ができていた。カスミは直感した。それが自分の向かうべき所だと。

 近づくと、集まった彼らの視線の向かう先に、スーツ姿の中年男性が立っていた。手にしたボードをボールペンでとんとんと叩いている。

 ――出席をとっているのかな……。

 だとしたら、いきなり第一関門が現れたことになる。

 どうすれば、自分の存在を彼に知らしめることができるのだろうか。

 カスミはとりあえず、その男性に近づいて声をかけてみた。

「あの!」

 だが、案の定、男はそよ風にほおを撫でられたときほどの反応さえ見せることはなかった。

 ダメだとは分かっていても、カスミはもう一度その男の真正面に立って声をかけた。男の視線は、せわしなく手にしたボードと周囲とを行き来していたが、カスミの姿だけは選んだように透過しているみたいであった。

 ――どうしようもないんだろうか……。

 いや、ここまで来て、あきらめるなんてできない。

 つかんだ糸から手を離すものか。あきらめるのは、その糸が切れてしまったときだけだ。

 ――でも、今の私にいったい何ができる?

 カスミは、そうっと男の持つボードをのぞいてみた。人の氏名が一列に並んだ表が、そこには印刷されていた。すでにたくさんのチェックマークが記されている。

 ――やっぱり、出欠をチェックしてるんだ……。

 どうにかして、自分がこの場に来ていることを伝える方法はないものだろうか。

 ――!

 不意に、カスミは、はっと思いついた。幾ばくかの罪悪感を伴って。

 元の世界では決して許されない発想――数日前のカスミなら思いつきもしなかったことだ。

 ――私は間違いなく、ここにいる……。

 遅刻したわけでも、ドタキャンをしたわけでもない。自分の意志で働こうと、ここにやってきた。そこには嘘偽りなんてない。自分の心に対しても、何も恥ずべきことはない。

 ――だから……。

 カスミはカバンから筆箱を取り出した。ボールペンを手にとる。スーツ姿の男が持つボードを覗きこみ、自分の名前を探す。

 表には数字とアルファベットが一文字ずつ組み合わさった記号を先頭に、横に氏名が並んでいた。そして、その右端には空欄の列が続き、すでに三分の二ほどの箇所がチェックマークで埋まっていた。

 ――あった……。

 カスミは表の中に自分の名前を見つけた。

 男が手にしたボードにできるだけ力がかからないように、カスミはそっと氏名横の空欄にチェックマークを記した。

 自分の名前の前に書かれていた数字とアルファベットの記号も覚えておく。

 ――E5……。

 何かしらの規則がそこにはあるのだろう。だが、カスミにはその規則性がはっきりとは分からなかった。

 アルファベットはAからGまである。しかし、それに続く数字は1から順番に振られてはいたものの、Aは7まで、Bは5までと、アルファベットによって最後の数はまちまちであった。

 カスミのEは9まであった。E5はちょうど真ん中だ。

 ――たぶん、自分の持ち場を表しているんだろうな……。

 カスミは不安になった。もちろん、初めて働くということもある。緊張しない方が無理というものだ。だが、カスミの不安は別のところにもあった。

 ――仕事はする……。

 責任をもって、しっかりと務めるつもりだ。

 お金をもらうというのもあったが、生来の性格だろう、カスミは自分に課せられた仕事や役割はきちんとこなさなければ気のすまない質でもあったのだ。

 ――仕事はしっかりする……。

 だが、仕事を責任をもってやれる――割り振られた役割をきちんと果たす――のとは別に、どうしても拭えない不安がカスミにはあったのだ。

 はたして、自分がその仕事をしていると、誰かに認めてもらうことができるのだろうか――。

 スーツ姿の男が腕時計を見た。そして、伝える気がないのではと思えるほどの小声で、目の前の集団に説明を始めた。

 カスミは男の近くにいたため、今から行う仕事の内容と注意点を聞き取ることができた。だが、後ろの方にいる人間に、男の声は届いているのだろうか。

 カスミはちらっと背後をうかがった。

 ――えっ?

 男の話を真剣に聞いている者は数えるほどしかいなかったのである。残りの者は退屈そうにあくびをしていたり、中にはスマホの画面をじっと覗きこんでいる者までいた。

 ――それでいいの……?

 にわかには信じられなかった。カスミが仕事というものに抱いていたイメージとは、ずいぶんとかけ離れた光景がそこに広がっていた。

 ――これじゃあ、説明をしているあの人も腹を立ててるに違いない……。

 カスミは振り返って、スーツ姿の男を見た。

 ――えっ?

 カスミはふたたび驚かねばならなかった。

 ――見てない……。

 男の顔は確かに集団の方に向いていた。だが、その目には彼らの姿は映っていなかったのである。

 ――こんなので大丈夫なの……。

 カスミは今から行う仕事そのものに対しても、新たに不安を抱かなければならなくなった。

「それでは、今からカウンターとボードを配ります。名前を呼ばれた方は取りにきてください」

 出欠確認の表にあったアルファベットと数字の組み合わさった記号がA1から読み上げられていった。カスミの心臓は破裂しそうな勢いで波打った。

 ――いよいよだ……。

 その思いは、これから仕事が始まるという緊張感ももちろん含まれていたが、カスミに課せられている難問の一つの答えが発表される――その場面が近づいてきていることも大きかった。すなわち――。

 ――私の名前は呼ばれるのだろうか……。

 確かに自分の情報は登録されていた。コンピュータとネットワークで構成されたシステムでは、自分で入力した文字列は機械的に処理され、どういうわけか無視されることはなかった。

 その無視されなかった情報が――氏名が、男の持つボードに記載されている。はたして、そこに書かれたカスミの文字列が無視されることはないのだろうか。

 ――この人は、私の名を呼んでくれるのだろうか……。

 E5――私に割り当てられた記号……。

 その無機質な記号さえ、呼ばれるかどうか定かではない。

 その後に続く自分の名が呼ばれることなど、もっと定かではない。

 カスミの前を、名前を呼ばれた人間が横切っていく。カウンターとボードを手渡されていく。

 ――ああ……。

 名前を呼ばれたとしても、あのセットを渡してくれるとは限らない。いや、おそらく渡されないだろう……。

「E4――」

 カスミのすぐ手前の人間が呼ばれた。

 ――次は私だ……。

 名前を呼ばれても、どうカウンターやボードを受け取る?

 考えもまとまらないうちに、カスミの番がまわってきた。

「E5――」

 はたして、自分の名前は呼ばれるのだろうか――。

「……カスミさん。……カスミさんはいらっしゃいますか?」

 カスミの心臓は今にも飛び出しそうになった。

 自分の名前が呼ばれた――。

 気づかれないことも、無視されることもなかった――。

 カスミの存在は、それが氏名だけだとしても、確かにそこにあったのだ。

 ――私はまだ、この世界に確かに残っている……。

 泣きそうになった。涙がこみ上げてきた。

 だが、カスミの気持ちにはお構いなしに、男は執拗に彼女の名を連呼する。

 早く、あのカウンターとボードを受け取らなければ――。

 カスミの体は動いていた。考えるよりも早く、体の方が動いていた。

 そして、カスミは男の持つカウンターとボードを、はぎ取るようにして奪いとっていた……。

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