#094「メラネルガリアに来た意味」
(ハッ! ここは……?)
気がつくと、俺は幽閉されていた。
半透明のガラス室。
四方を囲まれた狭い空間。
身動きはできない。
カラダの感覚もおぼつかない。
ただ、目を動かすことはできている。
どうやら音を拾うことも可能だ。
ちゃぷ、ちゃぷ……
という水音が、なんだか不思議なことに頭の上──頭の上? よく分からないものの、まるで水中に潜ったときに聞こえる外の音のように──くぐもって聞こえてくる。
(つまり、俺はいま、培養槽的なものに沈められているのか……?)
だが、それにしては妙だった。
視覚も聴覚も、おそらく触覚も。
漠然とではあるが、次第にジワジワ明瞭になっていくのを感じる。
けれど、意識がハッキリして、状況把握が自ずと進んでいくにつれて、俺はますます混乱が深まった。
なぜなら、カラダが無い。
そうとしか思えない。
五体消失というか四肢遺失というか。
とにかく人体を構成するのにあたって必要不可欠とされているパーツが、ことごとく失われている。
なのに感覚……『意識』だけが、十全に働いているのだ。
その証拠に、気色が悪いことに俺の視界はいま、360°全方位をぐるりと捉え、まるで別種のナニカへ魂だけが乗り移ったかのような違和感を伝えている。
(そうだな……人間がいきなり、トンボやウサギとかになったら、たぶんだけどこんな感覚になる気がする……)
憑依、というのが近いかもしれない。
直観だが、なんとなくそう思う。
しかし、だとすれば新たな疑問だ。
(
俺は何に乗り移ってしまったのだろう?
ネグロ・アダマスの書斎を訪れ、怪しげなデスクの引き出しを開けて。
まさか、一発目でアタリを引けるなんて、ラッキーではあるけれど──
(……アレは、あの時のと同じだった)
黒く、黒く、夜より暗い闇の爆発。
まるで蜘蛛の巣糸を絡め束ねて、ブラックホールで染め付けたみたいな異形の紋様。
人のカラダを勝手に這いずり周り、時には勝手に溢れだしたりする奇々怪々。
俺の目には、アレは動物繊維じみた触手……触腕のようにも映るが、実際の姿は極小の文字の連なり。
それが文字であるというコト。
究極的には、それだけしか分かっていない怪奇現象そのものだ(だいたい何で文字が動き回る?)。
そんなモノが、
(俺を此処に引きずり込んだ……)
何故。
分からないが、何か理由があるのは確実だろう。
俺がそう頭を捻らせ(無論、本物の頭は丸ごと無くなっているのだが)ていると……
「──では、本当にこれが……?」
「ああ。安心したまえよ少年。約束通り、本物だ」
(! 声……?)
二種の声が、突然外から響き始めた。
ひとつは低く、疲れ果てた男のもの。
一声聞いただけで、明らかに憔悴している老爺だと分かる。
それも病的。
不安定。
精神の均衡を、欠いているのではないかと邪推できる状態の老人。
それくらいには胡乱な声色だ。
老境に入って、さてはずいぶん長い人間なのだろう。
一方で、
(いま、少年って言ったか……?)
男を少年と呼んだ女の方。
こちらは
ただ、対照的ではあった。
男が病的で、ひどく不安定な様子であるのに対し、女の方は落ち着いていて、ともすれば冷徹なまでに淡々としている。
それでいて、女の声には深々とした
叡智に富んだ言い知れぬ知性まで感じ取ることができた。
声の質からいえば、女の方がはるかに歳下であるにもかかわらず。
「……『月の瞳』よ。貴様が余を若輩者扱いすることが、これまでどれだけ余の心身を
「ふ、ふふ、ふ。ああ、知っていたとも。きっと、さぞや屈辱に耐えかねていたのだろうね」
「だがッ、それも今日この時より二度と! 二度とだ……!」
「うん、もちろん分かっているよ。君が成功したあかつきには、契約に従い私は永遠に君と君の国のしもべとなるだろう。──だがそれまでは、君のほうこそ忘れてはいまい?」
「ッ、く……!」
そこで、男は急に地面へ膝を着いた。
ガクン! と
(いや、それだけじゃない!)
自分がいまいる場所が薄暗な石室であること。
簡素な木製のテーブル上に、およそサッカーボール大のガラス瓶が置かれていること。
中にはサラサラと燐光を発する薄赤い液体がたっぷり容れられていて、
老醜の二文字が相応しい男の名はネグロであり、女は正体不明の怪物であるという事実までが、直観的に理解できた。
否、
(理解させられた……?!)
見れば、ダークエルフの王はこめかみから脂汗を垂らし、血走った目つきでガタガタ震えている。
王族らしい立派な身なり。
メラネルガリアの美観にそぐう純黒の王冠。
淡麗だったろう顔立ちの名残は、なるほどたしかに貴種のそれ。
けれど、やつれ、老い衰え、恐怖に怯えるこの狼狽……
今この瞬間、ネグロ・アダマスにはダークエルフが称揚する男らしい逞しさなど微塵もなく、強さなどという概念とは最もかけ離れた哀れな称号が贈られていた。
親子関係がどうとかより、これでは先に、本当に同じ種族なのかと疑念を挟みたくなるほどの消耗・衰弱ぶり。
……だが、ひとつだけ、たしかに言えることがある。
(この女……)
俺はガラス一枚隔てた向こう側で、ニコリともせず「うん?」と小首をかしげている女を思わず凝視する。
ネグロが狼狽したのも無理はない。
女は明らかに『異常』だった。
超常の、存在だった。
──眼である。
眼、眼、眼、眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼────視線。
翠碧に濡れる泡のような瞳の群れ。
藍鉄色のクラシカルブラウス。
フリルが特徴的なホワイトジャボ。
身につけている衣装は全体的に華美というより地味。
だが、女の肌のさめざめとした曲線。
月光を
顔の半分を覆い、その隙間から、無数に現れては消えていく人ならざる怪物の眼──そこからは、何か見てはいけないマズイものが覗いてしまっている。
深淵。
どういう理屈かは分からないものの、この状態の俺に影響は無い。
しかし、ネグロは真っ向から見つめられて、かなりのダメージを受けている様子だった。
(……魔物)
そう、魔物。
この感覚は忘れられない。
今の俺であれば、たしかに一瞬で理解できる。
この女は、女のカタチをしているだけで、とっくに奈落に堕ちた魂だ。
……『月の瞳』
正体は不明だが、ネグロはどうやらこの魔物と、何かしらの取引を交わしてしまったらしい。
契約。
先ほどから二、三繰り返されているフレーズだが、この様子だとネグロはだいぶ分の悪い賭けに出たようにうかがえる。
今の一瞬。ほんの一瞬に、いったいどんな含み──〝交差〟があったのかは読み取れないものの、ネグロはさっきより更に憔悴の度合いを増していた。
だが、
「ぐっ、くッ……分かっている……! 契約は対等だ……余は必ず、必ず貴様に打ち勝つ……」
「楽しみにしているよ。私はべつに、どちらでもいいからね」
「……忌々しい、悪魔めが……」
「契約を望むのは、いつだって
あくまでも対等だと。
ネグロは虚勢を張るように再び立ち上がった。
そして、震える手足で何度もつまずきそうになりながらも、テーブル上にあったガラス瓶──俺を、とても大切そうに抱きかかえた。
そんなネグロに、月の瞳──魔物が、背後から呟くように言う。
「これは予言だが、君はソレでたったひとつだけ願いを叶えられるだろう。けれどその引き換えに、他のあらゆるものを瞬く間に失うことになる」
「黙れ。千年後の未来で、すべてはどちらが立っていられるかだ……」
と──そこで。
(う! ん!?)
次の瞬間、場面はグニャリと歪んで転換した。
(こ、今度はなんだ……?)
視界が落ち着くと、まず気がついたのは見覚えのある部屋の様子。
本が所狭しと並べられ、摩天楼のように並ぶ書棚が迷宮じみた景観を形作る叡知の殿堂。
つい先ほどまで、実際に目の当たりにしていた王家の書架室。
その〝書斎〟で、
「……水底の石、蛇紋の
老いさらばえた魔術師が、妖しい祭儀を行っていた。
ネグロはどうやら、この場所で魔術を行っていたらしい。
祭壇と触媒。
「湧きいずる
詠唱が進むと、ネグロは堪えかねたかのように血反吐を吐きかけた。
もはや顔には、哀れなほど死相が浮かんでいる。
しかし、老人は自らの衰えよりも、術式の構築途中に不純物となりかねない雑音を混ぜ込んでしまった『不手際』の方を許せなかったのか。
険しい顔をして、
「──神秘の鋳型よ此処にッ」
刹那、
もともと傷を負っていた
だが、その様子を見て、不意にパチパチと拍手の音が鳴った。
「──見事なものだ。まさか錬金術を、魔術のアプローチから成し遂げるとは」
「……貴様か」
「うん、私だよ。体調はいいみたいだね、少年」
「…………」
現れた月の瞳に、ネグロは一瞥を送ることもしない。
というより、魔物の皮肉に言葉を返す余力も無いのだろう。
ネグロは青息吐息しつつもジッと俺を見つめ、丹念にその状態を確認している様子だった。
月の瞳は気にせず、祭壇に置かれていた蛇紋岩にそっと指を這わせ、
「──かつての〈
いとも容易く、術のカラクリを看破してみせた。
(たしかに、〈第一円環帯〉は錬金術と水の都。己が尾を食む蛇神のコスモロジー。彼の並行世界では、当世における
であれば、ネグロが欲した超常の御業。
魔術における錬金術の再演。
(この術式は『霊薬』を作るのと同じこと──神話に登場する不死の果実、若返りの酒……それらに代わる願望器として、愚かにも私の骸を利用したのでしょう……って、俺はいったい何を言って──?)
知らないはずの知識と、知り得るはずもない他者の感慨。
それが、いつの間にか犯すように思考を
だが、それによって、俺はストンと納得することができた。
つまり、
(秘文字の奇蹟は、エル・ヌメノスの尼僧にのみ許された世界改変の大権だ)
遠い神代、神の権能を預かることになった尼僧は、神の権能に触れるがゆえ、己が存在の真体を秘文字へと塗り替えられていった。
神に等しいものは神になる。
要するに魔術と同じだ。
だからこそ、
「尼僧の遺体から、直接吸い出された
「……」
「よくもまぁ、ここまで綺麗に加工したものだね? いや、錬金術の過程を辿るなら自ずと〝昇華〟も兼ねるのだろうけど。だとしても、かなりの劣化状態だったはずだ」
「……余の術式が優れているのではない。素材が類稀なのだ……」
「ああ、実に興味深いよ。あれほどまでに零落しようとも、原初の神権は今なおこの星で頂点に近い優先順位を与えられているだなんて──とはいえ」
月の瞳は、そこで感情の乗らない視線でネグロへ告げた。
「果たして、それを呪いに変えて、継承権をうまいことすり替えられるかどうか……結果は君の息子が生まれて来ないことには、何ともと言ったところかな?」
「…………」
「後悔は無いのかい? 尼僧の骸を弄んだ咎で、君の魂は底の抜けたバケツも同然だ。存在を抹消されてしまうよ?」
それでも、本当にやる価値はあったのかい? と。
月の瞳は、今さら覚悟を揺るがすように問う。
老人はギョロリ。
強い意志力で魔物を睨めつけた。
「だからなんだ? それがどうした? 元より余の命などどうでもいい!」
「……残念だなぁ。とても残念だ。いつか下した予言の通り、未来はやっぱりこの可能性に収束してしまった。君がそう答えることも、私は疾うに知っていたとも」
「ならば黙っていろ! 前にも言ったはず! すべては千年後の未来で、どちらが立っていられるか! ──それに」
「?」
「……フン。貴様が心を砕いているのは、どうせ余の脳髄を啜れなくなったコトであろうが」
「────ふ」
「っ、この魔物め」
短く吐き捨てるネグロの言う通り、月の瞳は正真正銘化け物である。
にわかには信じ難い恐怖の指摘に、ニッコリと花の微笑みを浮かべていた。
(──なるほどな)
俺は事の
気づけば肉体は舞い戻り、俺は虚空に浮いていた。
腕を組み、目蓋を閉じる。
(魔力喰らいの黒王秘紋……)
エル・ヌメノスの尼僧が操りし秘文字の奇蹟。
これまでどんなに調べ続けても、
要するに。
(ネグロ・アダマスは、自らの後継に魔力を持たせることを望んでいて……)
魔力は完全に運否天賦の才能だから、確実を期すには道理のほうを捻じ曲げなけれらならなかった。
必要だったのは世界を変えられる力。
与えられたのは、尼僧の遺体、秘文字の奇蹟。
だからネグロは、
(その願いを叶えるため、言ってしまえば、願いを叶える流れ星である
何でそんなコトができたのかはさておいて、
(何にせよ、ネグロは望んだままに
(そう。器に願いが注がれたなら、その願いを飲み干してしまうのが
(十分だろ)
結果として、ネグロは俺にまんまと〝呪いの紋様〟を刻み込んでいる。
……呪い。そう、呪い。
これはネグロの数千年に及ぶ呪詛の結実。
屈辱の鬱積、執念と怨嗟、羨望と憧憬の綾織物。
(アンタはそんなものに変えられちまった)
(ええ。そして貴方に出会えた)
(望んだ成り行きじゃないだろ)
(けれどそれは、貴方だって同じこと)
重要なのは、今ある現実。
王は俺で、私は
「「ああ──思った通り」」
一拍の間を置いて、場面はもう一度移り変わる。
目蓋を開けると、そこは白銀のヴォレアス。
星河一天を飾る極光の
強風に削り取られ、地表から引き剥がされた氷の破片が、キラキラ輝き肌を刺す絶死の荒れ野。
俺たちはそこで、初めて互いの姿を捉え合い、まったく同じタイミングで息を呑み込んだ。
メラネルガリアに来た意味が、ついに完成する。
────────────
tips:錬金術
その極意は、非物質を物質にするコト。
例としては神話や伝承に語られる不死の果実、若返りの酒が分かりやすい。
これらはすでに地上を退去し、現世には滅多に姿を顕さないものだが、人為的に物質化できれば、まさに霊薬と呼ぶのに相応しい奇跡となる。
現代ではマグヌム・オプス──大いなる業によってのみ精製可能。
元々は〈第一円環帯〉にあった法であり理。
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