#031「書物から上がる異世界解像度」



 この世界には本がある。

 すなわちそれは、紙の製法が発明されていて、書物というものがおよそ一般的に認知されるほどに、常識になっている事実を俺に指し示した。


 ダークエルフの城屋敷。

 ヴォレアスの我が家。


 都市部として明らかに栄えていた前者に本があるのは、まあ正直、何の不思議にもならない。

 だが、辺境を超えていっそ秘境とすら呼べる後者においても、何ら変わらず本が置かれているのは、それなりに沈思黙考に値した。


 本とは、知識であり教養。


 それを所有するものに、ある程度の社会性と知性とを保証する。

 よって、都市部と未開拓地とで、その有無に変わりがないなら、この世界の全体的な文明レベルも、意外と高水準なのかもしれない。

 少なくとも、書物に関する諸々の事業は、それなりに発展している可能性がある。

 グーテンベルクの活版印刷。

 脳裏に過ぎらなかったといえば、まさしく嘘だ。


「……」


 ぺらり、ぺらり。

 夜目が効くことを良いことに、蝋燭の明かりも点けない。

 勉強机の上、捲っている紙の質感は、コピー紙には遠く及ばず。

 どのページも多少黄ばんでいて、端の方など一部完全な茶色に変色していたりもする。


 けれど、これらはたしかに紙だ。


 本の体裁をきちんと成していて、驚くほど丁寧に装丁されている。

 いささか古臭くて黴びっぽい感じもするけれど、読み物としては、立派に役目を果たす重厚な堅板本ハードカバー


(中世の聖書……いや、この紙の平滑加減だと、やっぱ産業革命くらいは行った後かぁ?)


 書かれている文字が手書きのものもあるが、中には大量印刷されたとしか思えない画一的な字体フォントもあった。

 うちの書棚は意外と、長い歴史を持っているのかもしれない。

 それか、この世界は現在、時代観的にちょうど中世と近世の狭間くらいなのだろうか?

 だとしたら、家の書棚に所蔵されている書物が、手書きと印刷でバラバラなのにも納得がいく。


 しかし、そう考えると案外微妙な時代だ。


 不便な暮らしが段々と改善されていく過渡期と見なせばプラスに思えてくるが、高度文明の黎明、夜明け前の暗黒時代と見なせば、印象はガラリと変わってしまう。


 とはいえ、それも今さらの話ではあるか。


 着の身着のまま、たった一人で二年近くもサバイバルをしていた。

 不便だ何だという考えは、所詮前世の惰性でしかない。

 やらなければ死ぬ。

 だったら、たとえ不便でも黙って手を動かすしかない。

 そういう考え方も、今では自分の中でだいぶ主流的なポジションに移動している。

 この世界の解像度を上げるために、地球の知識を参考にするのはやめたくてもやめられないが。

 安穏とした生活を手に入れた後でも、俺は未だこの世界をほとんど知らない。

 ……そりゃあ、多少の常識は学んだけれど、いつだったかケイティナに言われた通り、実際はまだまだ何も知らないラズワルドくんのままだ。


 ──なので。


「……ああ? なんだこの文字の書体。くそ」


 夜。

 皆が寝静まった深夜。

 ベッドを密かに抜け出して、俺は書棚から何冊かの本をピックアップすると、ひとり勉強をしていた。

 もちろん、徹夜をしているワケじゃない。

 そんなことをしても、逆に非効率なだけだ。


 では、何故こんなことをしているかというと、これまでのやり方だけだと相当な時間がかかると察してしまったため。


 あれから、五週間が経った。

 鬼教師ケイティナちゃんは、宣言通りビシバシと指導をしてくれる。

 だが、あの姉はなんだかんだ言って、根が優しすぎる。

 ママさんもママさんで、子どもに対しては基本的に激甘すぎてヤバい。

 二人とも、俺に決して無理をさせようとしないからな。

 なので、


(むしろ、俺は逆に追い詰められたと感じてしまったね。こうなったら、ひとり隠れて血反吐を吐いてでも、努力するしかねぇや)


 そうでもしないと、日本の一般的な英語教育のように、無駄にダラダラした時間を送ってしまう。


 なまじケイティナが、日本語を話せるのも問題だった。


 普段の生活からつい忘れそうになるが、彼女も立派な異世界ファンタジー。

 半ば対面しただけで、勝手に相手の言語を修得してしまうなど、チート種族もいいところ。

 しかも、本人は使用している言語を切り替えている自覚も無くて、どんな言葉を話していても必ず相手に意図を伝えられるというのだから、まるで天性のエスペラント語話者かなにか。

 それか、歩く自動翻訳機。

 日本語を話せる相手がすぐ身近にいるってのは、心から嬉しいし感謝もしている。

 けれど、こと語学学習という面において、ケイティナの存在は無意識の『甘え』に繋がりかねなかった。


 エルノス語の修得も、主に発話の部分で足を引っ張っている。


 基本的な文字種と文法のルールは把握した。

 アラビア文字と悉曇文字の融合も慣れれば分かりやすい。


(助詞として使う時は一文字、単語や熟語として使う時は筆記体のように連なせて書く)


 それだけ抑えておけば、あとはパターンごとに意味を覚えるだけ。

 ケイティナによる童話の読み聞かせと、写本の繰り返し。

 最初はそんなんで平気か? と少しだけ不安に感じもしたけど、言葉の意味がストーリーと一緒にしっかり文字と絡みつくので、勉強法としてこれは非常に優れていた。

 前世でも、海外ドラマを字幕付きで見ることで語学学習が捗るという話を聞いたことがあったが、なるほど、これはまさしくその通りの経験かもしれない。

 今じゃもう、難解な言い回しや古くからある慣用句などを除けば、日常使いの単語と文章を、時折りつっかえながらも読めるし書くこともできる。


 自分用に翻訳した『エルノス語の基礎体系』も有用だ。


 一つ一つの文字の発音、イントネーションと、文章の中でどういう役割で使われている文字なのか、エルノス語を読んでいて困ることがあったら、これを見返しておけばまず問題ない。


 ……さすがに六ヶ月。


 一言語に集中してまじめに勉強していれば、これくらいの成果は出てくる。

 逆にそうじゃなければ、俺は自分を本気で絞め殺してやらないと気が済まない。


(あとはカタコト会話から脱却できさえすれば、胸を張ってエルノス語を話せるって自信がつくんだけど)


 残念ながら、それはまだ難しい。

 こればっかりは、いくら知識を身につけても経験の数がものを言う。

 この家でエルノス語が使えるのはケイティナだけ。

 必然、エルノス語の訓練相手として選べるのもケイティナだけとなるのだが、彼女はデーヴァリングなので、どんなに拙いカタコトでも問題なく理解してしまう。

 おかげで、日本語を話している時とエルノス語を話している時とで、何の差も感じられない。

 自分のエルノス語にイマイチ自信が持てない原因のひとつだった。


(エルノス語が世界共通語だって言う割に、ママさんが話せないのも意外だったけどな)


 でも、理由を聞いたら蓋を開けてびっくり。

 なんとセプテントリア語、四つの言語を基にした人工言語だと云う。

 言うなればエスペラント語の異世界版で、多種族で満ち溢れた〈渾天儀世界〉では言葉の壁も大きいから、過去にそれぞれの大陸ごとで種族間の交流を助けるための人工言語が作られたそうだ。


 セプテントリア語は、別名北方大陸語。


 基となった四言語は、ティタテスカ、ハーディーンス、古エルノス、ルキフェディッテ。

 ママさんはそれらすべてを使用可能で、要するに五つもの言語をマスターしている。

 それだけ覚えているなら十分でしょう。

 俺に分かったのは、古エルノスがエルノス語の古語ってことだけだ。


(聞いただけで知恵熱が出るかと思ったぜ)


 とはいえ、人工言語というだけあって、セプテントリア語をマスターさえしてしまえば、基となっている四言語の修得は比較的容易らしい。

 希望があると肩の力を抜くべきか、まだまだ先は長いと途方に暮れて天を仰ぐべきなのか、分からなかった。

 ……にしても。


(エルノス語限定とはいえ、本を読めるようになったのはやっぱり嬉しいな)


 文字が分かれば本の内容は面白い。

 特に童話や宗教系の経典、図鑑や伝記の類は、〈渾天儀世界〉の解像度がググンと上がっていく。

 渾天儀世界という名称の由来も、俺はようやく知ることができた。


(なるほど)


 この星は宇宙の中心で、八つの円環帯含めて渾天儀みたいな形をしているから〈渾天儀世界〉らしい。いつだったかの連想がまんま的を射ていた。

 それに、中央の星を〈中枢渾天球センタースフィア〉と呼んで、地球のように丸い形をした惑星だってのも嬉しい誤算。

 八つの円環帯のことは、えー、〈廻天円環帯リングスフィアベルト〉……略してリングベルトと呼ぶのが一般的。

 世界神エル・ヌメノスってのが作ったそうだ。


「ほーん」


 めちゃくちゃ面白いんですけれども?








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tips:異世界言語II


 メランズール(ラズワルド)がこれまでに接触した言語を以下に示す。


 ○メラネルガリア語

  ⇒主使用:ダークエルフ

   文字イメージ:ルーン文字とジャワ文字の融合

   ステータス:未修得

 ○エルノス語 ※全世界共通語

  ⇒主使用:エルノスの三種族(エルフ、ドワーフ、人間、ほか多数)

   文字イメージ:アラビア文字と悉曇文字(梵字)の融合

   ステータス:ほぼ修得

 ○セプテントリア語

  ⇒主使用:北方大陸種族(セプテントリオン)

   文字イメージ:四言語の複合

   ステータス:未修得


 補足:

 ノタルスカ山で遭遇したフロスト・トロールが使用していたのは、実はエルノス語。

 石巨人種は逆に、長い歴史のなかで種族元来の母語を失ってしまっている。

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