#013「飢餓の冬、絶命」



 光が消えた。

 動物が消えた。

 世界は白に塗りたくられ、一寸先は文字通りの闇になった。

 北方特有のホワイトアウト。

 ダークエルフの夜目さえ通じぬ白の障壁。


 ──ごう、ごう。

 ──ごう、ごう。


 太陽の明かりは無くなって、夜の風は『痛い』を超えて『アツい』に変わった。

 焚き火の赤色はあるけれど、今はもうロウソクほどの頼りなさ。

 俺は基地の中で、苔のブランケットにくるまり震えていた。


 寒い。寒い寒い寒い。寒くて寒くて吐く息すら凍って足元に落ちる。皮膚にすら霜が立っている。


 薪は焚べたし炎もある。

 なのに、まったく体が温まらない。


 理由は明白だ。


 熱量の不足。

 エネルギーの不足。

 肉も、魚も、果実も、草も。

 目についたものは、すべて捕食を試みた。


 燻製? 保存食?


 準備が足りなかった。

 あんなものは、とっくに底を突いて無くなってしまった。

 もともとの準備が遅かったのだろう。

 単純に手も足りていなかった。

 それにたった一人じゃ、どう考えてもそもそもの貯蓄量に限界があった。

 謎のクリスタルガエルは、まるで福の神のようにたくさんの魚を連れて来てくれたけど。

 猛然と川を遡上していくニジマスのような魚たちに対し、俺の手はあいにく二本しか存在せず。

 結局、まともに捕まえられたのはせいぜい二週間分の食事のみ。


 あとはせっかく獲れても、燻製の処理が間に合わず中途半端に腐ってしまったり。

 最初の一ヶ月間は、マジでどうにかこうにか、二週間分の食事を切り詰めて耐え凌いだのが実情だ。


 けれど二ヶ月目、たぶん二ヶ月目……世界は嵐の冬。


 天候は悪夢に変わった。

 最悪の意味は毎日更新された。

 一縷の望みをかけて、イタジリスの巣穴を探そうとしたけど、降り積もった雪が何もかもを覆い隠して、絶望しかしなかった。


 四六時中続くホワイトアウト。


 極夜が始まり、降雪量がアホみたいに増え、見慣れたはずの近くの景観が、まるで知らない異郷のように変貌してしまった。

 林は樹氷となり、どういう気象現象か、足元には氷筍まで生えて来ている。

 洞窟でもないのに。

 きっと霜柱が、槍のように成長したんだろう。


 もちろん、地面に氷が生えているんだから、頭上、空だって危険だ。


 吹雪は雪というより、氷の塊となって大地を襲っている。

 基地はギリギリで耐え凌いでいた。

 林の中は、いつ降ってくるかも分からない氷柱のデスゲーム会場。

 氷が大きくなりすぎて、重みに耐えかねた樹氷が、時折りバキンッボキンッと凄まじい轟音を発生させ、地面へ倒壊・墜落してくる。

 鋭い風音に紛れて、とても聞こえにくいが、実際、すぐ近くのところで樹氷が半壊したのを目撃したので間違いない。

 林の外に基地を作っておいてよかった。

 少なくとも、危険な氷柱の塊に下敷きにされ、串刺し・生き埋めにになる危険性はないのだから。

 オバケツリーに感謝である。禍福は糾える縄の如し……


 だがいずれにしろ、俺は極めて甚大な問題に直面している。


 それは飢え。空腹。飢餓。

 食べるものが何も無い苦しみ。

 動ける余力があるうちに、なにか栄養の摂れるものを見つけないと……


「グッ、く……」


 少し動こうとしただけで、貴重な体力がガリゴリ減っていくのが分かる。

 足に力を入れて一歩を踏み出すごと、何か大事なものが、勢いよくすり減っていく感覚にも襲われた。


 それでも、動かなければ飯は出てこない。


 俺は雪を掘り、地面を掘る。

 基地から離れるのは自殺行為なので避けたい。

 たとえ焼石に水の状態でも、焚き火の熱はたしかにそこにあって、絶対に命綱だ。

 ホワイトアウトの中を彷徨いでもして、この場所に二度と戻ってこれなくなりでもしたら、俺の人生はきっとそこまでで終わりだろう。

 だったら、地面を掘って、これまで手を伸ばしてこなかった新しい分野に挑戦するべき。


(頼む、頼むぞ……)


 石斧の柄の部分を使い、必死に地面を掘る。

 数日前、俺は燻製に失敗して腐ってしまったシャケマスを、地中深くに埋めておいた。

 理由はひとつ。


(地上に虫はいない。けれど、地下だったら?)


 このあたりは川の水が染み込んで、苔が生えるくらいには養分に富んだ土壌をしている。

 それなら、地中にはミミズなどの地虫だっているかもしれない……!

 地上じゃ寒すぎて姿を見せない虫たちも、地下ならたぶん、生息しているはずだ。

 腐った魚を埋めておけば、きっとヤツらがうじゃうじゃ集まってくる。

 ゲテモノ食いになってしまうが、生きるためなら我慢は必要だ。

 虫は立派なタンパク質。

 俺は血走った眼で罠の状況を確認した──しかし。



「──っ、ぁ、ぁぁ──」



 虫はいた。

 虫はたしかに、そこにいた。

 腐り果てたシャケマスの腐肉にたかり、ソイツはうぞうぞと蠢き。

 期待した成果だった。

 少なくとも、何もいないよりは遥かに希望を持てた。

 でも……問題は、ソレがたった一匹しかいなかったコト。


 蛆虫。


 小指の爪の、半分にも満たない下等な生き物。


「……これ、じゃ……何も変わらない」


 俺の理想は、地中の腐肉が、一面の隙なく大量の虫に覆われている光景だった。

 だが、現実はこれ。

 死神の鎌がそっと首に触れる。


「ひ、ひひっ」


 引くついた笑みが零れ、俺は自分の中の、なにか大事な線がプツリと断線する音を聞いた。

 すっくと立ち上がり、林の中へ向かう。

 危険は百も承知の上。

 だけど、もはや選択肢は残っていない。


「肉……肉……!」


 イタジリスの巣穴を見つけ、その肉を糧とする。生だって食ってやろう。

 なぜなら生存の可能性は、もはやそこにしか存在していない。

 雪と氷に覆われた死の針葉樹林。

 氷筍を叩き割り、積雪を蹴り払い、あるかも分からない小動物の巣穴を息を切らして探す。


「ハァ……ハァ……ハァ……!」


 それから数時間ほど。

 俺はホワイトアウトの中を彷徨い続け、気がつくとガクンと膝が曲がっていた。

 最後に覚えているのは、何か強い衝撃に大きく体を揺らされたこと。

 極限状態の肉体は、それであっさりとショック状態に陥り──世界と断絶した。


 真っ白な暗闇だった。





 ────────────

 ────────

 ────

 ──





 自身の〈領域〉が荒らされている。

 にとって、意識の覚醒と呼べるものがあるとすれば、それは己の棲家を守ろうという一種の防衛本能に他ならなかった。

 覚醒と同時、同胞たちの声なき声が、地中に張った無数の『根』を通じて方々から送られる。


 ──やめろ。

 ──やめろ。

 ──やめさせろ。

 ──やめさせろ。


 世界を荒らす不届きな獣。

 遠い彼方、太古の土の記憶。

 刻まれたオマエたちの罪を、我らは忘れない。


 地と水と光に生きるソレら。


 普段は静寂を保ち、肉の殻を持つ獣どもとは違って、素早く動くこともない。

 見ようによっては死んで、息絶えているようにも思えるだろう。

 されど、ソレらは実際のところ、たしかに動いている。

 陽のぬくもりと光を求め、地に染み込んだ養分と水を探して。

 非常に緩慢かもしれないが、ソレらはソレらに与えられた遠大な時のスケールに従って、自由に活動しているのだ。


 ……もっとも。


 大昔には本当に、たくさんの〝動ける〟仲間が存在していた。

 厳しい寒さと乏しい栄養のせいか、今でこそソレはソレひとつになってしまっているが、かつてはソレと同様に、大いに自らの枝と根を操れるものが存在していた記憶が地脈に残されている。

 現在、周囲にはソレを除いて、一本たりとも〝動ける〟モノは残っていない。

 ゆえに、



 ゴ、ゴゴ、ゴゴゴゴゴ……



 ソレは己に、守護者ガーディアンの役目を任じていた。


 他に適任なものがいないのだから、仕方ない。

 自然の理に従い、生と死の円環に準ずる獣であれば、いずれ骸を晒し地に還るがために共存を許す。

 しかし、理に抗い、太古より定められた原初の規律に逆らう愚かな獣。

 古くは竜と呼ばれる獣に代表され、ただ傲岸に世界を食い荒らす害獣の係累なのであれば、到底見過ごすコトはできない。


 一度目は、判断に迷い警告で済ませた。


 放置していても、遠からず地に還る小さき命と感じたため。


 けれど、二度目。


 警告を忘れるにしては、あまりに短い。


 やはり害獣か……


 ソレは、〈領域〉の中枢に踏み込んだ愚かな黒獣を、しなる一撃で今度こそ確実に仕留めた。


 ──ビュルンッ!!


 黒獣は虚空を踊り、地に落ちると、ベシャリと音を立ててぐちゃぐちゃになる。

 周囲からは、次々に賞賛の声。

 仕事は果たされた。

 いずれアレも、この〈領域〉を肥やす糧の一部となるだろう。


 すべてはそこで、終わったように思われた。






 だが。





 バキッ、ゴキリ──グシャッ!

 ズルズルズルズルズルゥ──ッ!





 気がつくと、黒獣が妙な音を立てて、元のカタチに戻っていた。

 驚愕とどよめきの声。

 もしや、第八より混ざり込んだ『魔』の係累だったかと、ソレは警戒を露わにする。

 

 ……この時、もしもソレに視覚に準ずる感覚器官が備わっていれば、黒獣──ダークエルフの子どもの体表に、おびただしい数の『紋』が蠢き回っていたことに気がついただろう。

 普段は背中に隠れ、来るべき宿主の命令を待ち侘びる意思もつ〝呪詛紋〟の存在に。


 しかし、この場にいたのは太古の神秘を継承した一本の大樹と、やがて純白の凍気に漂白される寿命わずかな木々の群れだけ。



「█████████」


 ?


 黒獣が何かを言った。

 最後に大樹に許されたのは、そんなかすかな思考のみで、あとは一瞬で形勢が逆転してしまった。


 ダークエルフの子どもから、〝なにか〟が放射されたためだ。


 真正面からまともに浴びてしまった大樹は、数秒後、およそ七割近くのカラダを損失する。

 何が起こったのかも分からない。

 ただズンッ! と轟音がした直後、巨大な杭じみた衝撃が、大樹を打ち砕きながらいたのである。


 そして死んだ。


 誤解のしようがないほど、完膚なきまでに死んだ。

 〈領域〉の主の消滅により、土地は一斉に色褪せ始める。

 ニドアの林の死期は、今この瞬間に大きく早まった。

 木々たちの悲鳴は、もはや誰にも届かない。


 後に残ったのは、ぐっすりと眠るダークエルフの子どもだけ……








────────────

tips:呪詛紋


 メランズールの体に刻まれた皮膚を這いずり回る謎の刺青紋様。

 ネグロ・アダマスは自らの後継に、魔力を持たせることを目的としていた。

 今はまだ、宿主の自覚と命令を待つばかり……

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