#010「動く木と宙の異常識」



「グほッ──!? が、ァ……!?」


 激痛が全身をのたうち回る。

 突然の暴力に、ワケも分からないまま宙を舞う。

 回転する視界、混乱する意識。

 遅れてやってきた実感は、自分が〝なにか〟に攻撃された事実。


 ──まるで、太くて長いゾウの鼻のような、しなやかでありつつも、けれど決して柔らかではない硬質感も併せ持つ物体。


 それが、勢いよく鞭のように横腹にぶつかり、この身を虚空へ放り出した。

 内臓がシェイクされ、下手をすれば肋骨とかも折れていたかもしれない危険な一撃。

 俺は気がつくと、なすすべもなく十メートル以上は飛んでいた。

 地面に墜落し、ゴロゴロと転がった距離を含めれば、さらに五メートルは追加されるだろう。


「ッ、グゥ……!」


 それでも、なんとか意識を保って地面に膝をつく。

 痛みに呻きながら──否、呻くだけの余裕があるがゆえに、たったいま自分に何が起こったのかを、速やかに把握しようとした。

 場合によっては、一も二もなく逃げ出すことを考え、一瞬前まで、自分が立っていた場所を確認する。

 すると、


「おい、なんだオマエ……」


 驚愕し、頬が引き攣った。

 そこには、俺がここ数ヶ月でうっすらと忘れかけていた、この世界の真実が顕現していて──



 ゴゴゴゴゴ……


 

 地より這い出で、地より蠢く。

 かつての世界では空想の産物とされ、遠い歴史の彼方では神話のキャラクターとして片付けられた。

 ドリュアス、ドリュリアス、ドライード。

 その名は広く知られている。


 しかし、この場は敢えて別の名で──トレント。


 樹木の精であり緑の防人。

 ロールプレイングゲームなどでは、敵性エネミーとして人間と植物の中間のようなイメージでデフォルメされた姿が多々散見された。 

 いま、俺の目の前に存在しているのは、自らの根を海底に棲まう軟体生物のようにくねらせ、枝と幹をグリュングリュンとしならせている『木』である。


 そう……あくまで木。


 人間らしい顔や手足などは存在しない。

 木にあるのは、あくまでも枝や根、触れれば時に容易に肉を切り裂く鋭利な葉。

 目や耳、口は存在しない。

 そんな感覚器官は、彼らには無い。


 ゆえにこそ、意思の疎通は完全に不可能。


 種としてまったく生きる世界が違う。

 植物と人間とでは、そもカラダの造りからして掛け離れすぎているワケで。

 手にした石斧が、急にちっぽけで頼りないオモチャに見えてくる。

 数百、数千、あるいは数万。

 植物は人間が誕生するよりも、はるかに早く生命として誕生した。

 異世界であろうとも、そのあたりの順番が違ったとは思えない。

 その威容は、普段は〝静〟の状態であるがゆえに忘れられがちだが……


「クっ……」


 実際に動き出し、タコのように蠢き、その巨いなる意思を外界に〝動〟として表出できるのであれば、結果は見たまんま。


「……なる、ほど? これ以上は、やめといた方が、よさそうだ……」


 したたかに打ち付けられた左の横腹をさすり、走った痛みに脂汗を流して、俺はジリリと後退った。

 石斧を作って、樹木の伐採に精を出し、かれこれ十日の今日。

 なんだかんだで長いこと、大きな怪我も負わずにやって来れていたこれまでの記録に、とうとう歯止めがかかってしまったらしい。

 どうやらこの世界、樹木でさえ警戒せねばならないようだ。


「痛ゥ……まいったな。絶対アザになってるわ、これ」


 ダークエルフの体が頑丈なのと、たまたま新雪の上に落ちたのが幸いしたね。

 








 というワケで。


「はァァ〜〜……」


 林の内奥から帰還した俺は、真っ先に湯船に浸かり、先ほどの出来事を反芻していた。

 いやぁ、まさか。

 ここにあんなおっかないのが潜んでいるなんて。

 恵だなんてとんでもない。とんだビックリ林である。

 まったく、実に驚いた。


「久しぶりに、まざまざと、突きつけられちまったなぁ……」


 バシャリ、と顔にお湯をかけ「ァァ」と呻くように嘆息。

 俺はそのまま、ゆっくりと体を滑らせ空を仰いだ。

 天気は曇り。

 それと少々の細石雪。

 顔に当たる冷たい氷の粒。


「……ちべたい」


 突きつけられたと言えば、季節についても同じだ。

 できることなら、勘違いであってほしいと。

 このごろは密かに、真摯に願い続けてきたんだが、段々それが、意味の無い現実逃避だったと察している。


 シベリアやアラスカ、フィンランドにスウェーデン。


 俺はどこにも、行った経験はない。

 けれど、ここはおそらく、かつての世界で聞いたどんな北方諸国より、遥かに過酷な土地なのだろう。

 異世界なんだから当然か?

 地球の常識は通用しない。


「誰でもいいから、嘘だッ! って言ってくれないかなぁ……」


 冬が終わらない。

 いや、正確にはこれからが冬。

 なぜなら、陽の上っている時間が明らかに短くなった。

 一日の内、夜目に頼る時間が七割程度にも増えている。

 極夜と云うんだったか?

 いずれ完全に、昼の消え去る季節が到来するんだろう。

 川からは生き物も減っている。

 前は一時間程度で、二匹はエビを見つけられたのに、最近は最悪二時間近くかかって一匹。いよいよ以って割に合わない。


 林の内奥に向かったのは、急ぎ冬越えの準備を始めるためだった。


 ダークエルフがどれだけ寒さに強かろうと、今までの季節認識が間違っていて、これからが冬の本番だっていうなら、そんなのはもう、雪洞ごときで耐え凌げる環境じゃない。


 ただでさえ、寒さにブルブル震えていたのだ。


 五ヶ月だか半年だか、それだけの『極寒の夏』を経験して、どうして『未知なる冬』に怯えずにいられる?


 嫌な予感というのは、得てして当たってしまうもの。


 木を伐採し、本格的な『基地』を作り、これまで種族の頑健さに物を言わせていたお粗末なライフスタイルを、ちゃんと改善していかなければ。

 そうでないと、マジで死ぬ。

 確実に死んでしまう。死んでしまうぞ俺!


「嫌だ! 死にたくない!」


 お湯をバシャンッ! と叩きつけ、急に泣きそうになった。

 ああ、どうして……どうして、世界はこんなにも静寂なんだ?

 風呂を作っているまでは、たしかに楽しかった。

 生活が上を向いて、文明の利器に感激して。

 残念ながら、シカやイノシシの類いは見つけられなかったけれども、代わりに小さな地栗鼠や、それを食べるキツネのような動物は見つけて。


 ──ああ。これでやっと、きちんとした肉が食える。


 木の枝と石のふたつ。

 地面に枝を立て、そこに大きめでなるべく平たい石を斜めに立てかけるようにして設置。

 横から見ると、石と枝の間に三角形の隙間ができる単純な罠。

 簡単な衝撃で、すぐに崩れるようにしないといけないため、ちょうどいいバランスを生み出すのになかなか苦労をしたが、枝の真下には川沿いのベリーを置いて、運よくイタチじみた胴長の地栗鼠を何匹か捕まえることにも成功した。

 皮を剥いで内臓を取って、久しぶりに食った焼き肉は、どことなく木の実の風味のするリス肉。

 餌にもしていたベリーを添えて、気分はさながら高級レストランの五つ星だった。


 ──だが。


「木が動くとか、なんだよそれ……」


 この世界は、どれだけ適応の努力を重ねても、まるで底なしの沼のように異常な未知が転がっている。


 異世界も、ファンタジーも、とてつもなく奥が深い。


 ダークエルフに生まれ変わった時点で、何を今さらと思われるかもしれない。

 だけど、俺からすれば、ダークエルフはただ肌の色が黒くて容姿に優れているだけの、普通の人間だ。

 耳が長くて尖っているけど、そんなのは人種の差だろう。

 二本足で歩いて言葉を喋り、文化的な暮らしを送って、高度な社会生活を営んでいた時点で、ちょっと変わった外国人の範疇を出ない。

 そりゃ、たしかにホモサピエンスに比べてだいぶ頑丈な身体かもしれないが、それだって限度はある。

 猛獣に襲われれば命の危険を感じるし、飢えて倒れれば普通に死ぬ。

 これまで糧としてきたエビやサカナ、地栗鼠も、前世に比べれば、たしかに奇妙な姿形をしている。

 しかし、生物学者でもなかった俺が、いったいどれだけ地球生物を知っていたと言えるのか?


 カブトエビ、ウナマズ、エビカリス、シジミモドキ。


 まだ名前をつけていない胴長の地栗鼠と、キツネっぽい四足獣。

 どれもぜんぶ、「変わった生き物なんだな」の一言で片付けられる。


 だから、真に目を見開き、愕然とすべきは、先ほど遭遇した動く『木』や、イケオジを惨殺した掛け値なしに怪物と言えるドラゴンのような存在。

 あれらは根本的なところで、俺の常識には当てはまらない、予想もできない初見殺しだ。

 天候や自然の理不尽に比べて、遥かに「そりゃないだろう……!」と感じてしまう。



「──ま、それを言ったらキリがないんだけど」



 言葉の壁はあらゆる情報を俺に与えず。

 すなわちそれは、本来親や身の回りの大人から自然と供給されるべき『常識』の不足となって、いくつもの謎を謎のままにした。


 オラ、なんも分からん。


 だいたい、俺は前世の基準にしたがって、なんとなくこの世界の一日も二十四時間感覚と捉えて日々を送っているが、体内時計なんてアテにならない。

 もしかすると、この世界は一日が、三十時間の可能性だってありはしないか?

 今までだって実際のところ、時間の観測はずいぶんテキトーなものだ。

 そもそも、きちんと統一された暦や、時計の発明が済んでいるかも分からない。

 家にいた頃は時計のような器具を見た気もするが、あれは時計ではない別の道具だった可能性もある。

 それに、太陽があって、月があって、昼と夜、星の輝きがあって。

 そこまでは前世と同じでも、



「あの雲の向こう側には……」



 異世界を異世界たらしめる、本物の異常識が存在している。

 考えても仕方がないため、これまであまり意図して注目してこなかったが、アレはいったいなんだ?

 まったく理解が追いつかない。

 天気がいい日にだけ姿を拝める、星屑をまとった八つの円環。

 空を裂く帯状のドーナツ。

 最初は土星みたいに、星の周りを氷の粒が輪っかになって廻っているのかと推測したが、見れば見るほど違うコトが分かった。


 仮に、今こうして俺が息をしている大地を、地球と同じ円形の惑星だと見立てた場合。


 宇宙ソラには絶えず、八つの円環リングが覆い被さっている。

 いや、この場合は、囲んでいるというのが正しい言い表しか?

 まるで、遠い昔に博物館か何かで見たアーミラリ天球──渾天儀のような惑星の構造。

 どことなく天体模型じみたカタチをしていて、しかも、それらすべてのリングが、明らかに


 何を言ってるのか、分からないだろ? 俺だって意味不明だ。


 けど、現実にそう見えてる。

 例えるなら、そうだな。地球の衛星写真みたいなイメージか。

 形もドーナツ型だし、それぞれまったく、地球とは似ても似つかない色だったりしているものの……とにかく

 挙げ句、



「……ぜんぶ壊れてるってのが、これまた意味深で気味が悪い」



 八つの円環。

 それらはどれも、大きく崩れて真円を欠いていた。

 空を裂く境界線は、いずれもどこかで断絶してしまって絶大な綻びを生じている。

 まるで、何か強い力が、外側から強引にリングを打ち砕いてしまったみたいに。

 ひとつの円環それぞれの周辺には、破砕した欠片が、離れもせずにくっつきながら廻っている。

 一番近い水色のリングに関しては、ほとんど月と変わらない大きさで視認もできた。縮尺いかれてるんじゃないか?

 おかげで地球に比べて、かなり幻想的な天体観測が可能だ。



「異世界め」



 まるで神話だ。

 深淵で壮大なSF的要素もある叙事詩。

 自分がつくづく、ファンタジーに紛れ込んだコトを痛感させられる。

 どうせダークエルフもドラゴンも、動く木だって序の口なんだろう?

 この世界にはまだまだきっと、とんでもなく目を瞠る〝なにか〟が潜んでいるはずだ。



「──とりあえず、地栗鼠食って今日は寝よ」



 ぬるくなってきた湯船を、ため息をついて上がる。

 あらかじめ温めておいた苔のタオルで体を拭い、痛む横腹を眉を顰めておさえた。

 焚き火の前に移動し、雪洞の上にストックしておいたリス肉を、枝にブッ刺して火にかざす。


 ……まあ、少なくとも。


「冬越えの前に、獣肉にありつけたのは不幸中の幸いか」


 肉は天然の滋養強壮剤。

 このくらいの怪我、きっとすぐに治してくれる。







────────────

tips:〈渾天儀世界〉


 その星は最初、一つの渾天儀Armillary Sphereと見なされた。

 神話的な意味でも、実際の現実としても、我々がよく知る渾天儀と非常に酷似したカタチをしていたため。

 この星は世界神エル・ヌメノスの創り給うた至高の芸術品である。

 しかし、ひとつのスフィアと、それを囲う八つの帯状のリングは、何らかの原因によって、すでに大きく綻びを生んでいる。

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