#007「希死念慮と希望の林」



 ところで、サバイバル生活におけるトイレ事情について。

 普段あまり考えたことはないけど、実際興味はあるな──って人は、世間一般的にどれくらいいるものなのだろうか?


 トイレ。トイレット。

 または和風に、便所とも呼ばれる白くてツルツル光る素敵なアレ。

 英語ではオシャレに、ウォータークローゼットとか呼んで、時にはイニシャルでWCなんて記載されてたりもしているが、サバイバル生活では当然、水洗式トイレなんて望めない。


 ウォーター?

 クローゼット?

 ハハハハハ!


 一昨日来やがれってんだ。

 たかだか糞尿垂れ流すために、人には見せられないようなふんじばり顔で力んで悶絶したりする場所で、なーにをフランス料理じみた気取った姿勢を貫いてやがる。

 サバイバーってのはなぁ、いつだって御天道様の下でひり出しまくってんのよ!



「ぐ、ぐおぉぉ……!」



 その日、俺は腹を壊して、この世のありとあらゆるものを呪っていた。

 ……ああ、なぜだ。なぜ、俺がこんな目に遭わなければならない……!


「憎いぞ。世界のすべてが憎くて憎くてたまらな──ふぉおぉ……!?」


 ぶりぶりぶり。

 下半身を丸出しにして、即席で掘った穴にまたがり、クソ寒い風に吹きつけられながら、震える足でこの苦痛が早く終わればいいと神様に祈る。

 人は腹痛に襲われると、どうして普段は信じてもいない神様へと、祈りを捧げたくなるのだろう?

 屈辱と怒りで、呪詛まで吐き散らかしてしまう。


 ……あれから、三ヶ月が経った。


 この頃は日にち感覚も怪しくなってきたので、だいたい三十日くらいだな? ってところで、ひと月を計上している。

 シジミモドキは食っていない。

 最初に腹を壊したとき、必要に迫られないのであれば、二度とコレは食べないと誓った。

 アイツらは焼いてもマズイ。

 ファーストキャンプ地から移動を開始して、俺はいま、初めて雪原以外の景色と遭遇している。

 針葉樹林。


 すなわち、緑の恵だ。


 無論、外観的には色鮮やかなグリーンなんて欠片も見当たらず、まるでドイツのシュヴァルツヴァルトのような黒々しい樹林。

 シュヴァルツヴァルトが実際にどんな森なのかは知らないけど、日本語に訳すと黒い森って名前なんだから、きっとこんな感じで、物寂しい木々でいっぱいに違いない。

 とはいえ、ここに来てようやく出会えた自然である。



 や っ た ぜ ッ !



 と、俺は最初に万歳三唱してガッツポーズまでやった。

 歩き続けてようやく。

 ついにセカンドキャンプ地にふさわしい、素晴らしい環境を発見した。

 テンションが上がったのは否めない。

 有頂天になって喜んでしまったのも仕方がないだろう。


 問題はそれが油断を誘い、ついつい林に踏み入る前に、川沿いに成っていたブルーベリーっぽい果実。


 アレに手を伸ばしたのがいけない。

 ビタミンとかポリフェノールとか、貴重な栄養素が取れそうなフルーティな見た目に、「さすがは針葉樹林近くの川だけあるな」なんてテンションアゲアゲ、深く考えもせず洗いもしないままパクっといってしまった。

 味も悪くなかったし、ベリーっぽい見た目に反して、どことなく芳醇な甘みとドロッとした食感。少しの苦味。

 う〜ん、これは大人のスウィーツですわ〜! などと感激し。


「──腐っていた! ありゃよく考えたら、半分くらい腐っていた! そうじゃなかったとしても、熟しすぎていた!」


 まさに孔明の罠である。


「ふぉッ! ぬおぉぉ……!?」


 ギュルルルルルッ!

 げに恐ろしきは、極限生活下の人の食欲。

 理性では絶対警告を発していたのに、本能が欲望を優先させてしまった。

 だって仕方がないじゃないか。

 フルーツなんて、どれだけ久しぶりだろう。

 異世界に転生して不幸だったコトのひとつに、前世の料理がほとんど食べられないことがある。

 俺なんかサバイバル生活だから、極力想像しないようにしているが、ふとした瞬間にどうしようもなく衝動に襲われるのだ。


 肉! 米! 野菜! 果物!


 贅沢は言わない。

 せめて刻みネギと、ごま油を混ぜ込んだ卵かけ納豆ごはんだけでいい。

 ごめん、嘘ついた。

 本当は焼き肉とか寿司とかピッツァとかパフェとか食べたいです。

 美味かった、という感動は残っていないけど。

 美味かった、という事実は引き継いでいるので。

 食いてぇ。

 きちんと調理された美しきディッシュ。


 飽くなき食への欲望。


 腐りかけが一番美味いとかなんとか、そんな俗説を一度は耳にしたことがあるけれど、サバイバル生活では理性を優先させなければ。

 でないと、今の俺のように、世界で一番惨めでクソッタレな気分の中、雪の冷たさに悲鳴をあげてケツを拭くことになる。

 トイレットペーパーが無いから、そこらの雪が紙の代用品だ。

 臭くて汚くて申し訳ないが、俺だって死にたくなっているので勘弁して欲しい。

 手で押し固めて、慎重に擦り付けるやり方でしか、ケツを拭けない。オオゥ、ジーザス。ファッキンゴッド。

 冷てぇし、下手すりゃ滑るから、本当に最悪だよクソッタレ。

 テッテレー! 人生最悪の日が更新されました! ってか?



「いっそ川に飛び込むか」



 あまりの恥辱と屈辱に、ついついそんな危険思想まで浮かび上がる。

 異世界ファンタジーとはいえ、サバイバル生活に夢と希望は存在しない。

 おそまな話である。








 ──しかし、人間誰しも屈辱に打ち震えれば、どうにかして過去の汚辱を取り除こうと決心するもので。


「決めた。風呂を作るぞ……!」


 翌日、俺は樹林を前にし、みなぎるやる気に奮い立っていた。

 腹痛による耐え難い苦しみ。

 クソに塗れた地獄のワンアワー。

 いいかげん、川の水で誤魔化し続けるのも不可能な体の汚れ。

 荒んだ精神と汚れた魂を癒すには、温かなお湯に浸かってストレスを洗い落とすしかない。


 でないと、俺はこのままだと野獣になってしまう。


 オオンオンオン! オオンオンオン!

 悲しみの絶叫を上げる内なる獣に導かれ、いつしか人間であることも忘れて、野生へ還るのだ。


 ──オデ、ニンゲン、キライ!

 ──ニンゲン、ツライ!

 ──ウホッホホッウホォウッ!


 まさに悪夢。

 せっかく容姿端麗なダークエルフに生まれ変わったのに、メスのゴリラとつがいになる未来まで幻視した。

 今さらだけど、もしもこの世界が何らかの物語だったら、俺は絶ッッ対に主人公じゃないんだろうな。


 だって、主人公補正とかまったく無いもの。


 剣と魔法のファンタジーで、剣も握らず魔法も使えず、ヒロインとイチャラブしない主人公とかいる?


 俺、ソロなんですけど……

 まあ、まだこの世界が魔法のある異世界かどうかは全然分かっていない。

 でも、たぶんあると思うんだよなぁ、魔法。


「イケオジは剣持ってたし、そういやぁ家にいたころ、よく浮遊するシャンデリアも見かけたし。ありゃ何だったんだ?」


 言葉の勉強にあたふたしていたので、いまいち気を配る余裕がなかったが。

 原理は不明だけど、あれってきっと魔法的なサムシングなのでは?

 もしかしなくとも、ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・〇ッターだったのでは? では?



「つーか、俺ん家金持ちすぎ」


 あんなの屋敷のレベルを超えて、城か宮殿じゃんね?

 異世界貴族マジハンパないわ。

 ま、過去に想いを馳せても仕方がない。

 俺は今ある現実ときちんと向き合って、できるところから生活を良くしていかないと。


「おーし。じゃあ早速、材料集めからやっていくぜ」


 いつものように雪洞は作ってある。

 食糧もまぁ、川があるから飢えはしない。

 シジミモドキは餌として有能だ。

 ウナギとナマズの中間みたいなウナマズしか引っかからないが、淡水魚の身肉は焼くと美味い。

 もちろん、本当に美味いワケではないが、当社比的な意味で美味い。

 移動してきたことで、川のスケールアップと同時に、残念ながらカブトエビとは出会えなくなってきたが、代わりにアノマロカリスじみた別のエビと遭遇したので問題も無いだろう。

 昨日の今日で、火はまだ焚けていないものの、目の前にはれっきとした林がある。



「どうやら、錐揉み式火おこしに挑戦する時が、いよいよやってきたみたいだなぁ?」



 いろいろ、楽しくなってきた。







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tips:ニドアの林


 デドン川・中流域にポツンと存在する林。

 地球で言うヨーロッパアカマツや、オウシュウトウヒに似た針葉樹が群生している。

 黒い樹皮と暗褐色の葉色が特徴的。

 メランズールはその侘しさから、名前だけでドイツのシュヴァルツヴァルトを連想した。

 なお、実際のシュヴァルツヴァルトはその深さを形容して〝黒い〟と呼ばれているのであって、色的には結構緑色。


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