鏡の中から

鰹節の会

1 「鏡の中から」



 お風呂の横の洗面所に、私は立っている。

いつものように髪を乾かすのだ。私の洗面所は、この狭い一人暮らしの部屋に似合わない立派なものだ。大きな三面鏡が貼ってあり、そこを開くと戸棚になっている仕組みだ。



 あの日は朝から雨だった。


大降りの雨粒が、ただでさえ陰気なアパートをさびつかせてしまうかと思うくらいに降り注いでいた。

急いで洗濯物を取り込んで、ふとしばらく、ベランダで空を見ていた。


 雨の匂いと、どこかで響く小さな破裂音を聞いていると、雨の心地よい冷たさに浸されていくような気がする。


ただ、いつまでもそうして風邪をひきたくもないので、早々に切り上げて部屋へと戻ろうとした時、足の裏で何かを踏んづけた。


 「は、、、?」


それは小さなカエルだった。


ピンク色の潰れた肉に、真っ赤な血を滲ませて、ベランダの硬い床にこびりついていた。そんな状態になってなお、内側に丸めた細い四肢は緩慢に動いており、カエルの命を主張していた。その光景は、まるでカエルが、これから死ぬということを信じたくないという、純粋な叫びであるような気がして、酷く気持ちが悪かった。


 飛び退って、それでもなお、目はカエルに吸い寄せられる。

忘れようとしても忘れられない、蟻などの虫とは違う肉と血の感触が、その欠片が、まだサンダルの裏についている気がして、思わず地面に擦り付けた。


 少量の血とともに、何かが地面に線を描いた。

見る必要もないのに顔を近づけた。


 擦り潰れたカエルの目玉だった。

破れたバスケットボールのように穴が空き、円形からやや凹んでいた。


 私は気持ちの悪さに口元を歪ませながら、カエルの死骸からなるべく遠い方の扉を使って部屋に入った。

自分の奪った命と、その残虐性を照らし合わせて、私はとても死体を掃除するような勇気は出なかった。


 なるべく考えないようにしようと決め、手を洗いに洗面所へ行った。

何も汚いものは触っていないにも関わらず、どうしようもなく身を清めたかった。


 手を洗っていると、視界に影がさした。


目を挙げると、何かがそこにいた。


鏡の中に、本来私が映るはずのそこに、真っ黒な影をした何かが立っていた。

それは、ニンマリと嫌な笑みを浮かべ、不気味な子供のような声でこう言った。



 「 合 わ せ 鏡 し て ぇ 〜 」



 思わず声を上げて、私は洗面所の入り口まで後退した。

鏡には、酷く怯えた様子の私が写っているだけだった。思わず後ろを振り向くが、取り込んだ洗濯物の置かれたいつも通りの部屋だ。


見間違いに決まっている。さっき嫌なことを経験したから、あんな幻覚を見たのだろう。



 


 次の日、私は体調を崩した。


そんなわけはないと思いつつも、カエルの呪いでも喰らったのかと、何度か思った。

でも夕方には回復し、もう一晩寝れば完治するだろうとわかったので、風呂に入ることにした。


 風呂から出て、髪を乾かそうとドライヤーを手に持った瞬間、昨日見たあの影が、鏡の向こう側に勢いよく、バンッと張り付いた。


 そいつは、カエルみたいな女だった。


不自然に離れた目は大きく飛び出て、唇も歯もなく、鏡についた手のひらには水掻きがあった。指の先は大きく丸く膨らんで、カエルのように長かった。


 「 合 わ せ 鏡 し テ よ ぉ 〜 」


もう、何も言えなかった。


 サッと血の気が引いて、視界が薄れる。

力の抜けた足腰に叫びかけて、私は外へと駆け出した。


 早くしないと、あいつが追ってくる。


「合わせ鏡しようよお〜」


「合わせ鏡、合わせ鏡いぃぃぃぃ」


声が背中を追いかけてくる。怒声が、ざらざらと太い声が。



 「早くしろ!合わせ鏡しろおおおぉぉぉぉ!」






 外は、二日続きの雨だった。


向こうから、人が歩いてきた。

一瞬怖くなったけど、普通の人だった。


私はほっと一息ついた。



 でも、さっきのは幻なんかじゃない。現実だ。

お祓いって、どうすればできるのだろうか。スマホを部屋に置いてきてしまった。


 いろんな声が頭をめぐる。


ふと、水たまりを見てしまった。


 「合わせ鏡しろ」



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 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」



 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんね。


カエルに謝った。謝って謝って、泣いた。

でも、声は止まらなかった。


 雨粒の一滴一滴の中に、よく見たら女はいた。

長く先の膨らんだ指をこちらに伸ばそうとして、顔をへばりつけて。



 合わせ鏡しろ。



 私は部屋に戻った。

扉を開けてすぐに洗面所に向かって、玄関の傘立てを投げつけた。


ものすごい音がして、三面鏡は砕けた。両サイドの鏡が開いて、棚の中の物が床に落ちた。









 私は今、自分の部屋にいる。洗面所に続く扉は閉め切って、鍵をかけている。

部屋には机と、ベッドと、洋服箪笥がある。ベッドのすぐ横には、窓がある。


 私はその窓を見つめながら、微動だにできない。

だって、張り付いているんだから。あの女が、あのカエルが。


 さっきも、ゲコと言った。

向こうはまだ、こっちが気づいていないと思っているのかもしれない。


 一ミリも動かずに、こちらを目だけで見下ろしている。真っ黒な髪が、窓越しにばさついている。


私は身震いした。なんせ、あれは鏡じゃないのだ。窓なのだ、ガラスなのだ。


 入ってこれるのだ。


しゃがれた声で、女は言った。




  「 ぁけてぇ 」






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