第3話 詩人サービス
どうすれば良いのだろう? 矢印屋からは逃れたがどこへ行くというあてもない。妻がどこへ行ったのか探す術もない。一度引き返したほうが良いのだろうか。シートに座り込んで考えているうちに緊張が解けてきて全身の疲労を感じ激しい睡魔に襲われた。うとうとしたのは数分だったのか、数時間たったのかわからない。気がついたときは相変わらずしんとした夜だった。こんこん、と窓ガラスを叩く音がする。一人の女性が薄汚れ曇ったガラス越しに車内を覗き込んでいた。目のくりっとした童顔でかわいいと言えなくもない。ショートカットの髪は細く柔らかそうでパーマが当たっている。
お蕎麦食べに行かない?
女はそう言っている。何を考えているのか、なぜ誘うのかわからない。ご馳走してくれということなのだろうか。妙に悲しそうな表情だ。私のほうも「蕎麦」と聞いて急に空腹を意識した。家を出て以来、何も食べていない。蕎麦でも何でもいいから食べたいという気はしていた。車のシートで眠っていたので首筋が痛かったが頭はすっきりした。先ほどの白いお化けや矢印屋の姿はどこにもない。GRANGEの明かりも消えていた。
どうして最近の自動車の形はこんなに丸っこいのかしら。まるで昆虫みたいじゃないの。それもだんだん虫っぽさが強くなって気味が悪いわ。前はもっと普通に機械らしいデザインだったのに生命的で、あれは消費者に親近感を持ってもらおうというつもりなのかしら。そうだとしたらあまり成功していないよね。カブト虫みたいな車や、蝶や蛾みたいなくるくるした形はかえって気持ち悪いよ。
女はそんなことを一人しゃべっている。触ったら痛そうなくらい四角っぽかったスタイルが流行りのはずだか確かに彼女の言う通り私が這い出したワゴン車は角が取れて丸い。景気と関係があるかもしれない。景気が悪くなると流線型がはやるという仮説である。第二次世界大戦前の恐慌の後もクライスラー・エアフローという車が衝撃的なデビューを果たし流線型が主流となった。この車は不必要なくらい丸い。空気抵抗を少なくする、という能書きだが当時の車のスピードで空気抵抗がそんなに影響するとは思えない。むしろ機械なのに生命的な感じがして退廃の匂いがある。この車もヘッドランプや窓枠、テールの細部に至るまで歪んだカーヴを描いている。バロック的な奇妙さが大恐慌時代にきそって発表された流線型の車を思い出させるのである。
女は車への関心を失ったらしく手に持ったハンドバッグをくるくると回しながら歩道を歩いている。彼女について行けば蕎麦にありつけるかもしれないと慌てて歩き出した。もう大分夜が更けたのか通りに幾つか灯っていた看板の明かりもほとんど消えてしまっている。寒さが先ほどより増している感じがする。風がないのが幸いだ。空気は澄んでいて頬を刺すような冷たさだが停滞しているので耐えられるのだ。女も薄紫色のもこもこした生地のコートの襟を掻き合わせていた。
蕎麦屋って遠いいのかな?
と聞くと、そこよ、と路地を指差した。薄暗い路地の奥から店の光が漏れていた。女の言う蕎麦屋はよくある二十四時間営業の立ち食いの店だった。入り口で彼女は立ち止まる。私が食券の自動販売機にコインを入れて「てんぷら蕎麦」のボタンを押そうとしていると女の縋るような視線を感じた。仕方なく、
何が食べたい?
と聞くと黙ったまま近寄ってきて「山菜うどん」のボタンを押した。かたん、と小さな紙片が出てきた。それを女に渡すと私はてんぷら蕎麦と卵のチケットを買い、カウンターに並べた。他に客は居なくて中年の疲れた感じの店員は私たちの食券を一瞥すると無言のまま湯気の立っている鍋の中へうどんとそばの玉を投込んだ。
よくここに来るの?
彼女は黙ったまま肯く。ここが好きなの? と聞くと今度は首を横に振って、どこに行っても同じよ、と答える。橋の上はどこに行っても同じ、だって同じ会社が経営しているのですもの。そう、橋自体を経営している会社よ。知らないの?
彼女はうまそうに蕎麦をすすりながら壁のところを指差した。そこには品書きの札が並んでいたが良く見ると
DOT LTD.
という青い文字がさりげなく入っている。太いゴシック体が斜めにかしいで隅のところがスピード感を出すような短冊形に切れ込んだロゴだった。
ドット?
そうよ、ドット株式会社。もとは運送会社らしいけど今は何でもやっているみたい。とにかくこの橋は彼らの所有物なのよ。だから住んでいる人間もみんな彼らの所有物みたいなものね。少なくとも反抗は出来ないわ。あなたもスマホを取りあげられたでしょう。あたしにはよくわからないけど彼らには商売上の秘密があるのよ。いつもどこからかあたしたちを見ているの。
あなたは監視されているのがイヤ? あたしも最初は嫌いだったけど最近はそうでもないの。監視されている、見られているということには快感もあるのよね。きっと芸能人はみんなそうなのよ。デビューしたときはうぶな女の子でもあっという間に綺麗になるでしょう。お化粧とか周りの人の影響もあるとは思うけどきっと見られることによってますます綺麗になる、その理由は快感だと思うの。常にチェックされている、ということが気持ちいいの。有名になるって言うことはチェックされるということなのよね。逆にチェックされなくなったら寂しいじゃない。誰かに監視されているということは鬱陶しいようだけど逆に考えたらそのことによって身分が保証されているわけだし、チェックが厳しければ厳しいほど地位が高いわけよね。クレジットカードだってそうでしょう? 誰でも入れるのは安いカードで、ゴールド、プラチナ、ダイヤモンド、ブラックとか言ってどんどんVIPになるわけよ。そのチェックがなければどんなセレブだってあんた何者、と言われてしまうわけ。そんな風に考えると人に見られているのは快感だし、身分証みたいなものなのよね。まあ連中がどんな風に監視しているか知らないし、普段からそんなこと気にしていたら気が変になっちゃうから忘れるようにはしているけど。
しゃべり終わると女は満足げにうどんの出汁を最後の一滴まですすっている。彼女はともかく私にはどうでも良いとは思えなかった。橋の上が企業体に支配されていてしかもその連中に監視されているとは初耳だったし、少なくとも蕎麦の味は最低だった。ゴムひものような麺と醤油のきつすぎる辛い出汁、ぶよぶよした掻き揚げに古くて生臭い卵はとりあえず空腹だったのでなんとか腹に収めることが出来たのだ。
ああ、満腹した、この近くにいいところがあるのよ、一緒に行かない? と女は言う。彼女の意図を計りかねていると、にっこり微笑んで私の腕にすがり付いてきた。あまりの馴れ馴れしさにどきりとする。大丈夫、変な意味じゃないから、と女は一人はしゃいでいた。私たちはいつの間にか手を取り合って再び夜の街へ出た。女は肩を寄せながら路地を更に奥の方へと導く。狭い通路には人影はないがクラブやパブ、マッサージに占い師、ゲームセンターといった怪しげな小さな店の入り口が幾つも誘惑の明かりを灯し、表通りとは異なりまだ営業している店も多いようだ。風俗店と思しき悪趣味でごてごてした飾り付けの店の前には凍りついたように黒服の男が立っていて通り過ぎる我々の方をじろりと睨んだ。それでも女はますます怪しげな奥へと進んでいく。
詩人サービス
彼女が足を止めた古いビルにはそんな文字が並んでいた。一階の店舗は既にシャッターが降りていたが二階への階段の入り口にほんのりと裸電球の明かりが投げかけられていてそこから上がるらしかった。看板の上の窓は北欧の家のように花や置物で綺麗な飾り付けがなされていてカーテンの隙間からは暖かげな光が漏れていた。
ここは一体何屋さんなのかな? と問うと平然と、詩のサービスよ、と答える。そして私の手をぐいぐい引っ張って二階へと上がっていく。木の扉を開けると薄暗い店内の入り口にはカウンターがあり白髪交じりの髪を短く刈り込んだ初老の男が本を読みながら店番をしていた。あたりにはコーヒーのうまそうな香が漂い、なんだ、喫茶店か! と一瞬ほっとした。蕎麦の出汁のくどい味が口中に残っていてコーヒーでも飲んでさっぱりしたかった。
こんばんは!
女は嬉しそうに店の男に声をかける。彼は目を上げると微笑んでやはり、こんばんは、と答えた。掘りの深い顔立ちで年輪が刻まれたような厳しい顔つきだが優しい笑顔だった。シャープな印象はきっと女性にもてるのに違いない。彼女は馴染みなのか彼が取り出したノートになにやら書き込んでいる。やはりただの喫茶店とは違うらしい。私たちは真紅のビロードのカーテンをめぐらせた店内を案内された。ここでいいですか? とカーテンを開けられ、ちょっととまどった。中にはクラシックな猫足の肘掛け椅子が二脚とテーブル、それにゴールドのパイプ出で来たやはり典雅なデザインのベッドが置いてあった。内装は赤いビロードの壁紙でロココ風の貴婦人たちが森の中を散歩している淡い色の風景画が掛けられている。落ち着いた雰囲気ではあるがなぜベッドがあるのだろう、まさか変態クラブのようなものではあるまいな、と邪推しながら急に緊張と興奮を感じ始めていた。コートを着ていたので気がつかなかったが女が肉付きの良い豊満な身体であるのを初めて意識した。
こくり、と女が頷くと店員は我々に椅子を指し示し、カーテンを閉めて消えた。女は黙ったままコートを脱いで椅子に腰をおろす。口の中がからからに乾燥し、つばを飲み込んだ。どう話しかけて良いかわからなかった。店員はすぐ戻ってきて私たちの前にコーヒーを置き、自分も中に入ったままカーテンを閉めた。何が始まるのか固唾を飲んでいると店員があなたからで良いですか、と女に聞く。女は肯いて立ち上がるといきなりセーターを脱ぎ捨てた。それからブラウスも。慌てて視線をはずすのだが狭い室内ですぐに彼女の色白の裸身が目に入ってしまうのだった。上半身だけ脱ぎ終えると彼女はベッドへ行き、チェック柄の毛布を剥がずにそのままその上にうつぶせに横になった。豊かな乳房が胸の下で押しつぶされているのが見える。
今日はどんなテーマが良いですか?
店員も立ち上がる。私の緊張は頂点に達していた。店員の発する言葉の一つ一つがその本来の意味を離れて限りなくエロティックな響きを持って感じられた。どんな単語も卑猥にしか感じられず腹から下半身に掛けて熱いものが下りて行くような興奮を感じていた。女は伏せたまま答えない。
それではあなたのお母さんの話をしてください、どんなお母さんでしたか? きっと優しい人だったのでしょう。優しくていつも微笑んでいて、でも可愛そうなのです。そうです、今日のテーマはピエタです。聖母マリア様の話ですよ・・・
店員はおもむろにベッドに近づくと女の背中にそっと触れた。細く骨ばった彼の指の先で女の背中は白く輝き、良質のバターかチーズのように滑らかで柔らかそうだった。そして触れるか触れないかというぎりぎりのところで試すかのように指は迷路を描き上から下へ、下から上へと往還を繰り返した。女の口から深いため息が漏れ、全身が時々ぴくぴく震えている。女は恍惚としてもはや完全にこの男の術中にあると思われた。施術者はひとしきり背中を撫ぜ終わるとどこからか墨と硯を取り出した。そしてベッドの下からスツールを引っ張り出し腰かけると墨をすり出す。
母親の愛は無限です、聖母マリアはそのことを示しています、ピエタです、我が子イエス・キリストをどこまでも信じ、慈しむ愛、その愛は全的でどんなものよりも大きく、包容力があり、ついには死にさえ打ち勝つのです。愛は怒りません、愛は妬みません、愛は憎みません、愛は常にあなたと共にあり、たとえ死の床にあっても途絶えることなく魂を救うのです。
硯をすりながら彼は低い声で淡々と続けた。墨が出来ると細い筆を取り上げ深呼吸する。そして突然大きな声で叫びだし、筆を背中に下ろした。
Senza mamma,o bombo ,tu sei morto.
Le tue labbra senza i baci miei,
scolorion fredde,fredde,
e chiudesti,o bimbo,gli occhi belli.
イタリア語はさっぱりわからなかったが男が一筆ずつ文字を背中に並べていくと背筋がぞくぞくするような感覚に襲われた。これは一体何なのだろう? 宗教的な儀式なのか、新種のリラクゼーションなのか、異常な性行為の一端なのか。
わたしの赤子よ、あなたは母親を知らずして死んでしまった
あなたの唇はわたしのキスも知らずに
衰え、冷たくなり、
そして、ああ、お前はかわいらしいその瞳を閉じてしまった
書き終わったのか筆を置くとイタリア語の呪文を男はそんな風に翻訳する。
あなたは救われます、聖母マリアの慈悲によってすべて許され今、ここにあなたの魂は救われました。プッチーニのオペラ、「修道女アンジェリカ」より終曲の一部です、
再び低い声に戻った男がそう言い終ると女の口から嗚咽が漏れた。泣いているのだ。白い背中に黒々と浮かび上がったアルファベットが個別の生を持った生き物のようにぴくぴくと蠢いている。
それで儀式は終わりのようだった。拍子抜けして椅子の背もたれにもたれかかる。先ほどまでの興奮が満たされぬまま気だるい疲労となって全身に滞留している。店員は筆をいったんテーブルに戻して女の様子を見守っていたがすすり泣きが落ち着いてくるとベッドの足元にたたんであったタオルをそっと背中にかけた。それを合図に彼女は起き上がり鼻を啜りながら涙を手でぬぐった。恥ずかしそうに私の方を向いた彼女の頬は紅潮し目はらんらんと輝いている。そして、
最高だったわ、次はあなたの番よ、
と言う。この人が偉大な詩人だということがわかったでしょう? いつも最高の気分にさせてくれるわ。とっても気持ち良いの。あなたもきっと気に入るはずよ、と。詩人と呼ばれた男はにっこりして私にベッドを指し示す。イヤだとは言えない雰囲気だった。私も聖母マリア様のお祈りに参加させられるのだろうか。そしてこの詩人の細い筆で背中を撫でられ得体の知れないイタリア語を並べられるのか? 耳無し芳一じゃないのだ! 呪文のような怪しげな言葉を身体に刻み込まれるなんてイヤだ、そんな思いが巡った。察したのか、初めてですね、大丈夫です、ただ横になっていただければ間違えなくすばらしい詩を書いて差し上げましょう、と詩人は静かな口調で囁きかけてくる。
何も問題はありません、背中というところは人体の中でもその広さに比して日頃ケアされていない部分です、しかし神経の密度は高くここを刺激することは内臓はもちろん身体の内部に他の方法では得られない良い効果をもたらします。背中を掻いて貰うのは心地よいでしょう? あれに更に心理的な快感が伴うと想像してください、最近ではヒーリングの一種として医療機関にも取り入れられているくらいです、もう少しで厚生省の認可も下りそうですよ。何ぶん、自分では触ることも難しく見られない場所ですし人前で背中を晒すということには抵抗感のある方がいらっしゃるのはもちろんなのですが、そこに詩を描きこむという行為は単に今申し上げたような医療的な意義に留まらず芸術としての側面を持っているのです。ですから私が詩人だということで信頼していただければ良いのです。エステやマッサージなどの民間療法とは異なります。どうか、安心してください、
とたたみみ込むように話しかけられ私はコートと上着を詩人と女に剥ぎ取られていった。女の豊満な胸と薔薇色の乳首が一瞬、タオルの合間から覗いてもはや私は騙されてもいいというやけ気味の気分でシャツを脱ぎ捨てベッドの上に横になった。
まず詩人は女にしていたのと同じように背中を柔らかにさすっていた。くすぐったいかと想像していたが、掌の温かさが心地良い。むしろ自分の背中の内側に鈍い痛みのようなものが炙り出されてくる。言われたとおり内臓の悪いところが感応しているのかもしれないとさえ思った。テーマはどうしましょうか、なにか提案はありますか? いいえあたしはわかりません、この人にふさわしいものにしてください、と詩人と女が会話しているのが聞こえる。彼は息を詰めて、筆を持ったようだ。私は目を閉じたまま枕の上で緊張した。するとちっという冷たい感触が左の肩甲骨の上に現れた。
学びて思わざれば、すなわちくらし
思うて学ばざれば、すなわちあやうし
詩人は腹の底から、ふり絞るような深い声でそう唱えた。それは詩というよりもお経のようでもあり、唄のようでもあった。書きながら朗読することによって文字に魂を吹き込もうとでも言うのだろうか。いずれにせよこの詩人サービスを怪しんでいる私でさえ詩が単に物事を文で書き表す文学の一ジャンル、図書館で分厚い本を開いて見出すものではなくて、声に出して初めて伝わるものであることを思い知らされた。冷たい筆は背中の皮膚を切り裂くように進み、体内にうずく膿を押し出してくれているかのような快感がある。ずばりつぼを指圧されている気持ちよさだ。思わず、ああっ、という嘆息が漏れる。揉みしだかれたような軽い痺れと疲労感が背中から全身に広がり天にも登るような心持でそのままうとうとしそうになっていると、はらりとタオルが掛けられるのを感じて意識がはっきりした。慌てて起き上がると女が手鏡を貸してくれた。
学 而 不 思 則 罔
思 而 不 学 則 殆
という感じが黒々と太い漢字が背中に書かれていた。女の背中のアルファベットとは異なる太い筆を用いたらしく、それを水入れで軽くすすぎながら、孔子の言葉ですよ、あとはごゆっくりどうぞ、と言い残しカーテンの向こうに姿を消した。シャツを着て上着を羽織っても背中の文字がしっかりと食い込んでいるような感触が消えない。
どう? なかなか気持ちいいでしょう、
と女に尋ねられて私は思わず正直に頷いてしまった。確かにマッサージや指圧に似ていなくもないし、詩を自分の背中に書かれているという事で精神面でも癒されている気がするのだった。孔子の言葉を背負っている、というのは随分重々しいことだが不思議と人格が高められているかのような自負が沸き起こってくるのだった。自称「詩人」の言った通り心身を同時に刺激する新しいリラクゼーションとして良いアイディアかもしれない。コーヒーを啜りながらすっかり寛いでいる女は、家にいらっしゃい、ゆっくり休みましょうよ、と蠱惑的な瞳で誘う。この女は何者なのか、と訝りながらも今の私には彼女について行く以外に方途は見つからなかった。カウンターで勘定を頼むと結構いいお値段だったのでカードで支払う。しかし損をしたという気分はなかった。
私たちは再び暗い路地を戻って表通りに出た。女の家は通りの反対側にあるらしい。五、六分も歩くと少しせりあがった立派な車寄せのあるビルディングがあり女は入り口の階段を上がるとそのガラス扉をがちゃがちゃ鳴らせて開いた。ロビーは貝の形をした常夜灯がともっているのみで暗かったがモダンな北欧製らしき家具が置いてあるのがわかった。そしてこの橋に来て私は初めてエレヴェーターに出くわした。それは、細い金属製の蛇腹扉を開けて乗るようになっていて古い型式のものに見えるが、どうやら現代的なデザインのこの建物の佇まいからしてアンティークとして敢えて取り付けられたものらしかった。その証拠にいざ乗り込んでみると内部は真新しい白木でデコレイトされ、液晶表示のカラーモニターがスイッチの代わりだった。女は素早くテンキーの浮かび上がった液晶版にタッチするとふわっと浮かび上がる感覚で籠が動き出し、あっという間に加速して液晶の数字は三十五階を示している。橋の中央部にこんな高層建築があるとは驚きだ。もっとも多摩川はそんなに深い河川ではないし、激流でもないから橋げたの上にビルを立てるのは案外経済的なのかもしれない。フロアに下りると柔らかな間接照明に照らし出された廊下にいくつかの扉が並んでいる。女はすぐ近くのドアの鍵を開け、どうぞ、と内部に導いた。かなり高級な住居に思われた。立ち食い蕎麦を私にたかった女の住処としては贅沢すぎる。玄関の叩きも大理石で奥には広々としたリビングがあった。マントルピースの備え付けられた堂々とした客間だが違和感があるとすれば窓がないことだった。これだけの高層階ならばさぞ景色が良かろうと思うのだがどこにも窓が見当たらない。どうして? と尋ねると禁止されているのよ、という答えが返ってきた。
見ようと思えば窓は設置されているの、でもすべて会社側がふさいでいるのよ。なんでも橋の工事に一部不完全なところがあってそれが改善されるまではいけないらしいわ。いつ出来るかもわからないけど会社の問題だけじゃなくて許可しないのは国の方らしいわ。窓が開けないのじゃあ三十五階に住んでいる意味なんてないでしょう、と言われるけど仕方ないのよね、
そう言いながら彼女は壁にある羽目板をとんとん、と押さえた。そこが窓らしい。そして肩をすくめるとキッチンから手際よくティーセットを出してきてテーブルの上に並べた。
もうお茶はいいかしら? あら、いけない、お茶が切れているわ、あたしちょっと買い物行ってくるわ、お金頂戴、
と、さも当然というように手を差し出されて私はしぶしぶ千円札を一枚渡した。奥にベッドがあるから横になっていてもいいわよ、と言い残して女は出て行った。私はリビングからキッチン、ベッドルームを一回りしてますます不審感を強めた。作りは豪華だがホテルのようでまるで生活感がない。ここは本当にあの女の家なのだろうか?
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