橋の上で暮らすことの一つの哲学的考察

晶蔵

第1話 空耳

 「あ」がつく方は今日、東京に入れません。

 とラジオ番組『深夜の灯』のアナウンサーが告げた。奇妙なことを言うものだと思った。しんしんと身体の奥まで染み渡ってくるような深い声である。ふざけているとは思えない。

 今、ラジオで変なことを言わなかった? 

 と尋ねようとして黙々と車を走らせている運転手の表情をうかがったが闇にまぎれてよく見えない。空耳だろうか。もしそうならとんでもなく無様だし、頭のおかしな客だと思われるのが落ちだと考え直しそのまま再びシートに身を沈めた。車窓には人気のない深夜の住宅街の夜景が流れていく。白々とした街燈の投げかける明かりがにじんで見えた。疲れているのかもしれない。目を閉じて自分の名前に「あ」という文字が入っていたかどうか考えてみるが幸なことに苗字にも名前にもない。本当に「あ」がついていたら明日は東京都には入れないのだろうか? そんなはずはないだろう。第一、どうやって規制すると言うのだろう。例えば都内に入る全ての交通機関や橋のたもとに臨時の検問所を作って身分証明書を提示させるとしたら膨大な手間と労力がかかる。近隣の県から都内に通勤・通学している人は数百万人にのぼるだろう。真面目にチェックしていたら何日もかかってしまうのに違いない。「あ」のつく人が自己規制するとも思えない。阿部に安藤、有田に相川、荒木、浅井といったありふれた苗字はもちろん、明や篤朗、あゆみ、亜紀、愛子も茜も彩もダメ。こんなことが受け入れられるはずがない。元々都内に住んでいる「あ」の該当者にも出ていけと指示されるのか。それとも自宅にひっそりと篭りその日の終わりまで待機していろとでもいうのだろうか。ともかく「あ」による規制が事実ならば通勤ラッシュが始まる数時間後、大パニックが起きることは間違いない。

 目的もよくわからない。メキシコシティではナンバープレートの番号によって市内に入る車の規制をしていると聞いたことがある。月曜日は偶数の車、火曜日は奇数の車、といった具合に台数制限をして渋滞や公害を緩和するとのこと。都内に入る人間を制限するのも混雑を避けるための処方なのだろうか。誰が考え出したのかわからないが今の都知事なら単なる都内への入場規制より、新税を導入することだろう。「あ」のつく人は明日、百円頂戴いたします、こうすればたいした用もないのにやってくる輩は減り仕事で来る人間からは都民のために使える税金ががっぽり取れると言うわけだ。

 しかしなぜ「あ」なのだろうか。あいうえお順ならば明日は「い」のつく人が都内に入れないことになる。幸いに自分の名には「い」もない。でもいつかはひっかかるときが出てくる。そのときまで気にせず暮らしていたほうが良いのかもしれない。

 この辺ですか、

 と運転手に話しかけられ慌てて背を伸ばすともう自宅の前だった。代金を払ったときちらりと様子を盗み見ると思ったより若い真面目そうな男である。ダッシュボードの上の営業許可証を見ると石井恒夫と出ていた。「あ」のつかない彼はとりあえず今日は無事営業できるというわけか。外は冷たい風が吹いていた。急ぎ足で玄関を入ると明かりをつけずに二階に直行し、寝室に行ってすぐに横になった。妻に今、聞いた話をしてみたいと思ったがもう午前二時を回っていて彼女はぐっすりと眠っていた。

 翌朝、さっそく妻に「あ」のつく人は都心に入れないらしいよ、と告げたらぽかん、としていた。彼女の名前には「あ」がつくのである。私はそのセンセーショナルな宣託がどのような効果を及ぼすのか試すように、そして幾分思わせぶりな間を持たせ情報を先取りした者の優越感を楽しみつつ、『深夜の灯』だよ、と続ける。

 意外にも彼女はあきれた様子でため息をついた。

 新聞には載っていないよ、だいたいあの番組が変なの、パーソナリティが長年、不倫をしていて週刊誌ネタになったし、暴力事件でも訴えられている。信用できないでしょう、 

 と反撃してくる。

 カーラジオから響いていた彼の静かな語り口調を思い出してみた。真面目で落ち着いた感じの声だった。とても不埒な情事に身を窶している男の話し方ではなかった。だが週刊誌によると事実らしい。妻子がありながら三人の女性と交際し、朝はA子と、昼はB美、そして夕方にC恵と毎日のようにホテルへ通い、夜は仕事をして明け方家へ帰るといった生活を繰り返していたらしい。性交のみが人生の喜びだったのか、生きることの支えだったのか、それとも三人の女性の比較を楽しんでいたのか、自分の魅力を確認したかったのか、いずれにせよ五十歳を過ぎたベテラン・アナウンサーのどこにそれほどの精力が貯えられていたのか不思議な気持ちになる。そして一日かけてエネルギーを使い果たした後だからこそあの渋い、品の良い声が出せたとでも言うのだろうか。スキャンダルがあって発言がおかしくなっていたのかもしれない。しかしだからと言って彼の口にしたことが全て出鱈目とは限らない。妻もそんな風に悟ったのかさも関心なさげにパンをちぎっていたが、

 どうやって「あ」がつくのかどうか調べるの? 

 と尋ねてきた。ネットで検索してみたが該当する情報は何もない。むしろ私が知りたいくらいだ。

 きっと高速道路のETCみたいなゲートを作ったのね。でもあれは怖いの。空港のゲートと同じ。飛行機に乗る前に頭を洗ってはダメなの知っていた? 空港の金属探知機から頭に高圧電気が落ちて死んじゃうのよ。最近は物騒な世の中になってテロ対策とか厳しいでしょう? 電圧が高くなっているのよ。そんなバカな、と思うでしょう。確かテレビドラマで見たのだけど、双子の料理研究家がいて片方がもう片方を厄介払いしたくなるの。お風呂に入っているときを見計らって、思い知れ! とか言ってキッチンから持ってきた電動泡だて器をコンセントに差し込んでスイッチを入れたままドボンってバスタブに投げ込むの。アメリカの人ってバスタブを泡だらけにして浸かっているでしょう。裸のまま飛び出そうとした相棒は泡だらけになってのた打ちまわり感電死するのよ。家庭の電源でもあんなに痺れちゃうのだからまして空港の探知機なんて直撃されたら即死。ゴルフ場で雷に打たれるようなものよ。かなりの電圧が必要なはず。でも、もしかすると機械で透視されることにある種の快感を覚える人もいるかもしれないね。全身スクリーニング、ってなんだかエロいじゃない。生身の人間に審査されたら不愉快だけどさ、機械だとゲームをみたいでいいかも、

 そんな風にまくし立てると、じゃあどうなるか行ってみる、と出かけた。

 不安におののきながらもあとを追うようにして家を出た。駅まで早足でたどり着くが前の電車に乗ったのか既に彼女の姿はない。家から都内に入るまでは電車でも自動車でも二十分ほどである。いずれにせよ多摩川にかかる橋を渡ることになるのだがそんな検問が設けられている気配はなかった。いつもの習慣で遅刻ぎりぎりに会社に滑り込む。机の上に積んであった書類を片付け、メールを開いて急ぎの用件を済ませる。一段落してコーヒーを飲んでいるとホワイトボードの名札が目に入った。部長の名札の下にある阿部が赤札だ。デスクの女性に阿部はどうした? と聞くとまだ来ていない、と言う。今のところ欠勤の連絡もないそうだ。立ち寄りで遅れることも多い職場なのでたまたまなのかも知れないが気になった。注意して時折見ていたが、昼になっても彼は姿を現さず、夕方取引先で打ち合わせを済ませて社に戻った時も彼の席はがらんとしていた。ついにそのまま阿部は出社しなかったのだ。嫌な感じが高まってくる。

 夜になって家に帰ると妻の姿はなかった。携帯電話は留守番になっている。メールやSNSも返事が来ない。仕方なく冷凍食品のうどんのパックを空けてテレビのニュースを見ながら一人で食べていた。電話がかかってきたのは真夜中近くだった。

 言っていなかったけど、この前シチューを作っていたとき電話を鍋の中に落としちゃったのよね。あっと思ったらもうお肉やジャガイモと一緒に赤ワインで煮込まれていたの。菜箸で取り出したけどパネルは真っ黒になって、慌ててハンカチで水分を拭いて乾かしてみたら一応電源は入るのだけど意味不明な文字しか出ないしすぐに切れちゃった。近くのドコモショップに持っていったらあっさりと修理は出来ませんので機種変更をしてください、って言われたの。内部の情報は新しい電話機に移しますから、だって。半信半疑だったけど新しい電話を受け取ってさっそくメモリーを呼び出してみると確かにアドレスが九十件くらいは入っているの。これぞ不幸中の幸いと思ってよく見てびっくり、まったく知らない名前なのよ。慌ててカウンターに戻ってメモリーの中身が違うようですけど、って伝えると受付の若い女の子は首を傾げてからついたての向こう側に消えてしばらくたってから戻ってきて確かにお客様の携帯電話から移したのですが元の電話のメモリーがもうダメになっていてわかりませんだって、そんなのひどいわよね。どういうことなのかしら。それはともかく、そういうわけであなたの葉アドレスや番号もなかなかきちんと思い出せなくて、かけられなかったのよ。とにかくすごい混雑で今、やっと多摩川橋のゲートを通って川を渡るところ。なんだか知らないけどスマホも没収されるみたいだからしばらく連絡が取れなくなるかも。橋に足止めされるらしいのよ。明日は帰れますか? って聞いたらわからない、って。ああ、もうダメみたい。スマホを取られちゃうわ。

 そこで彼女の連絡は途絶えた。

 とんでもない事態が起こっているような気がしてテレビで何か言わないかとニュースを見ていたが橋に関する情報はなかった。ネット上でも特段、騒いでいる気配はない。大した混乱ではないのか、反対に当局が秘匿しなくてはいけないくらい重大な事件なのかどちらかだ。前者であることを祈りつつ十二時を過ぎたところで家ではめったに聞かないラジオをクローゼットの奥のほうから探し出してきてかけてみた。『深夜の灯』が始まると日本各地のリスナーからの手紙が次々と紹介される。深夜や早朝、眠れなくてラジオの音に耳を傾けている孤独なお年寄りの投書が多い。


 昨日、夜中にどうしてもおなかが減って、冷蔵庫の中を見てみたら空なのです。一階に住んでいる息子と嫁の家族は寝静まっていて朝まで我慢しようと一旦はあきらめたのですが午前三時過ぎにどうしても耐えられなくて近くのコンビニエンスストアまで出かけました。わたしは七十歳の頃に足と腰を痛めています上、そんな時間に年寄りが一人で夜歩きするのはどうかと心配いたしましたが車も人もいないのでかえって昼間よりスムースに十五分ほどでつきました。即席の鍋焼きうどんを買うと店員さんは思いのほか親切で作り方を教えてくれました。帰りがけ、ご近所のお庭の寒椿が闇の中で咲いているのにハッと打たれました。足を止めて見ると暗いのでよくわかりませんがあたりの他の木々はすっかり枯れてしまっているのに椿だけは薄い黄色の見事な花をいくつも咲かせているではありませんか。ここ数年、もう自分はいつ死んでもおかしくないと無為な日々をおくっていますが、この花はそんなわたしを励まそうとしているかのように感じられました。冷たい空気の中で張り詰めたような花椿の姿に突然涙が溢れてしまいました。どうか年寄りの感傷とお笑いください。ですが深夜の散歩は病みつきになりそうです。


 アナウンサーはたっぷりと間を取った。闇が深まるような重たい沈黙だった。そして、深夜の散歩がもたらした小さな発見、心に響きます、どうか椿のようにお元気で過ごしてください、と締めくくる。いつものように淡々とした「時」がスピーカーから流れている。だが橋に関する情報はここにもなかった。

 午前一時を過ぎていた。眠ろうとしたが寝つけない。身体はだるいのだが目の上がずきずきするようで頭は冴えている。思い切って上着とコートを羽織ると地下の駐車場に下り車のエンジンをかけた。確かめに行くのならばわずか二十分なのだ。すべてが自分の妄想なのか、妻が私をからかっているのか、それともニュースで発表できないようなスキャンダルが発生しているのか多摩川まで行ってこの目で見れば良いわけだ。もう古びてしまった小型のワゴン車はどこかでかたかた不安定な音を立てているが気にせずアクセルを踏み込んで深夜の国道を突っ走った。妻はなぜ電車ではなく国道の通っている多摩川橋を渡ろうとしたのだろうか。そんな疑問を頭の隅で繰り返していると


 多摩川橋 通行止め 迂回せよ


 という表示が目に飛び込んできた。心臓がきゅっと締め上げられるような感じがした。やはり何かあるのだ。国道に掲げられた電光表示が伝える警告を無視してまっすぐ橋に向かって行くとしばらくして赤い点滅が幾つも前方に見えてきた。無数の車がその前で停車している。誘蛾灯に群がる昆虫のようだった。仕方なくその列に連なり、のろのろと渋滞した車の列と一緒にそのまま誘導されて右のほうへ寄せられて行く。そこにも「通行止め」と書かれた電光表示の看板が幾つも並べられ、パトカーが横に並んで国道をふさいでいるのが見える。まだ河原まで一キロ以上あるので橋の姿は見えない。上り線の車は一車線に絞られて旧道に繋がる細い通路に流れ込んでいた。旧道は電車の駅の前を通り商店街を抜けるので幾つもの信号を経なければならず少しでも車の量が増えると途端に渋滞してしまう。十五分ほど渋滞に付き合った挙句、たまりかねて商店街の中ほどで見つけたコインパーキングに車を突っ込んだ。そして身を切るような寒さの中、徒歩で河原へ向かった。土手に出ると視界が開ける。

 月が出ていた。

 冬の空気は澄んでいて見上げると星の輝きが宝石のようにクリアに輝いている。暗闇に沈んだ川の対岸に東京の街の明かりがぴかぴかと艶やかに連なっていた。橋は巨大なシルエットとなって聳えている。近づくにつれて入り口に行列が出来ているのが見えてきた。数千人と思われる群衆が列を作っている。中には割り込もうとして川べりの塀によじ登ったり、様子をうかがおうと列にはつかずうろついている者もいる。

 どういうことだ! 

 という罵声や、

 あたしなんかもう三時間もこうしてここにいるの、

 などという嘆きが聞こえて絶望的だった。こんな行列に連なるのは気が重い。寒い中いつとも知れず待たされるのはごめんだ。踵を返すと川沿いに並ぶラブホテルの裏の細い路地に入り込み遠回りしつつも少しでも橋に近づこうと足を速めた。土地勘がないので何度か迷いそうになったが気がつくと先ほどまで自分が走っていた国道へ出た。片側三車線の広い道路は後方で止められているので車は一台も居ない。ナトリウム灯のオレンジ色の光がアスファルトにまだら模様を作っていた。意外とあっさりと道は開けた。警官の姿はないかとあたりの様子をうかがったが国道に侵入した自分を見咎める者もなく、妙な気分ですたすたと下り線を橋へと向かう。一度でいいから道路の中央で寝てみたかった、と泥酔して深夜の国道のど真ん中で大の字になってしまった友人が居て、もう一人の仲間は、俺は小便がしてみたかった、とやはりセンターラインの上を歩きながら放尿していた、あれは大学生の頃だったろうか。そんなことを思い出しつつ歩いていると次第に道は緩やかなのぼり坂になり橋が近づいて来た。自動車道はそのまま橋に上がれるようになっている。歩道は河原の橋げたのところに階段がありそこから階段を上がるようになっている。おそらくその階段が狭くて行列が出来てしまったのだろう。車の進入路からアプローチして大正解だった。世の中往々にしてこういう事がある。困難だと思われることがほんの少し考え方を変えるだけであっさりと解決する。他の人が何時間も待つことがたった数分で済んだのだ。大きな優越感を覚える。飛行機でもコンピューターでも商品の納品でも一秒でも早いほうが喜ばれる。今の世の中、一番高くつくのは時間ということになる。結果としてもたらされる自由な時間を有意義に使うかどうかは別問題だか、ビジネス戦略でも個人の生活でもとにかくスピードが大切だ。思いついたらすぐやる、それが私のポリシーだ。だからこうして直接橋に来たわけだ。やや足が疲れ襟元に当たる風が強くなってきたな、と思っていると見慣れない建物が見えてきた。これが妻の言っていたゲートなのだろうか。手前側には高さ三メートルほどの高い鉄製の格子状の柵があり閉じられてはいるが真ん中が門になっていた。背後に聳える建物はヨーロッパの城のようなゴシック建築様式の重厚な概観でとても昨日今日で作られたものには見えない。テーマパークのように張りぼての構造物なのだろうか。人の姿はなかったが門の前に数台の車が固まっていた。よく見るとどれも黒焦げだ。いったいここで何があったのだろうか? 一番先頭の車は門の格子に突っ込んでフロントがめちゃくちゃに壊れている。ボンネットのまくれあがったエンジンルームからはまだちろちろと炎が漏れていた。危険を感じて車から遠のいたが、窓の中に黒焦げとなった人体と思しき影を認めてぎょっとした。これは事故なのだろうか。誰もいないということはどういうことなのか。全身を貫くような不安を感じてあたりを見回した。どう見ても尋常な事態ではない。戦場のような荒廃した気配が漂っている。これは宇宙人の来襲では? 新型バイオ兵器の暴発か! 国際テロ組織の陰謀? そんなことを考えるのは動画を見すぎた男の過剰な反応か? これ以上進むのは危険かもしれないと思いつつも柵に入り口がないか探ってみる。橋の幅は優に数十メートルはある。右側の端に詰め所のような小さな建物があるので恐る恐る近づいて行った。窓から覗き込むと中には明かりが灯っていたが人影はない。ストーブの上にやかんが置いてあって湯気が出ている。誰かがついさっきまで居たことは確かだ。ノートが開かれてその上にはペンや定規など文房具が散乱している。慌てて出かけたのに違いない。裏側についている扉は開けはなれたままだった。小屋の背後に回り込むと柵に小さな鉄扉がついていたので押してみる。かなり重たかったが扉は音もなく開いた。

 背をかがめてゲートの領域に進入する。

 もし危険が迫ったらこの先にあるはずの歩道側の階段から脱出しようと考えていた。しかし目の前に開けた光景はさらに慄然とするものだった。門の先の道路は、陸続きの国同士の国境で見かけるような赤と白のまだらなバーで遮断されておりそこだけ白い水銀灯で照らし出されていた。両側には白く塗られた小屋が一軒ずつ建っている。人の姿は見当たらないがそこを通過するには余程の勇気が居る。なるべく目立たぬように道の際をゆっくりとバーのほうへ近づいた。もうあと数メートルというところまで来て私は小屋の窓からこちらをうかがっている男と突然視線が合ってしまった。警察官のような帽子を阿弥陀に被った年配の男だった。先ほどまで誰も居ないように見えたのだがどこからか姿を現したのだ。見つかってしまっては仕方あるまい、と意を決した。

 バーの脇に設けられた受付のような窓で男は肘をつき乗り出すようにして待ち受けている。頬はたるみあごは二段の脂ぎった顔の小太りの男はまったく表情を浮かべていない。やや茶色味を帯びて濁った瞳でじっとこちらを見つめている。お前は何者か? という尋問を受けているようだった。てっきり男のほうから何か言ってくるものと思った。そしてその緊張が次第に高まり私の足が丁度男の前に差し掛かったときそれは頂点に達した。

 次の瞬間、信じられないことが起こった。

 男が視線をはずしたのだ。同時に私はバーの横をするりと通り抜けていた。何か言おうと開きかけた唇には言葉が残骸となってまといついている。心臓の鼓動が早くなっているのがわかった。オルフェウスのように後ろをふり返ったら災悪が降りかかるのではないかと恐れ、そのまま足を速める。気がつくとあの巨大な建築物の前にたどり着いていた。そこまで来てようやく先ほどのバーのあたりを振り返ると男はそのまま小屋の中でうつむいているようで肩の力が抜けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る