04-60 徒花のリコリス その①




 自分の太ももの上で眠ったおともだちを愛でる。これほど幸せなことはそうそうないだろう。リコリスはうっとりと膝の上で眠るステラの顔を見つめた。戦いでダメージを受け、さらに〈眷属化〉まで受けたステラの顔色はリコリス同様に青ざめている。魂を侵食される苦痛に寝顔を歪め、「すう、すう」とか細い寝息を立てていた。


 捕らえた敵の魔物は即座に牢獄へと転送できるはずなのだが、どういうわけかバアルは転送をしない。おそらく……酒を飲みすぎて寝ているのだろうとリコリスは予想した(そしてその予想は当たっていた)。バアルが『殺すな』と命じたせいでリコリスは多くの味方を殺害することになった。そこまでしてようやく捕らえた敵を放置するとは。バアルは職務怠慢はなはだしいが、そのおかげでこうしてステラとの幸せな時間を過ごすことができているのだ。責めることはしない。


 部屋の出入り口は少年が放った土砂でふさがれているから、この部屋を出ることもできない。土砂の除去に関してもバアルが対応すれば一瞬で終わることなのだが……まあいい。もしかするとバアルが気を効かせてステラとふたりきりにしてくれているのかもしれない……と思うことにする。


 リコリスの立場的に土砂をかき分けてでも逃がした少年を追うべきなのだろう。……しかしステラとの戦いで右腕を負傷してしまった。土砂をかき分けるなんてとてもできない。頑張ればできるのだが頑張る気力が沸かないのだ。今のリコリスにできることは膝枕の上のステラの寝顔を愛でることだけ。そういうことにしよう。


「助けが来るまで、いっしょにいましょうネ……ステラ」


 ステラの首筋にはリコリスの歯形がはっきりとついている。吸血と〈眷属化〉のスキルを通してステラとのつながりが強くなったのを感じる。そしてステラに蒔いたリコリスの種が少しずつ育っていることを感じる。


 わらわとステラはずっとずっとずーっとおともだちなのですワ……


 リコリスは幸せだった。部下を大量に殺害し、ダンジョンマスターを見逃したことなどとうに忘れていた。右腕を負傷した痛みは感じるがそこまで気にならなくなっている。ステラさえいればそれでよかった。いけないワ、ステラは敵なのに……いや敵だからこそ燃えるのだ。こんな気持ちはひさしぶりだ……。


「〈眷属化〉が進めば、ステラの方からわらわたちの仲間になりたいと言うでしょう……その時、バアル様に新しい名前を付けてもらえば……ステラは晴れてガレキの城公認のおともだちです」


 ステラが眠りにつく度にリコリスの蒔いた種は育って〈眷属化〉は進行していく。ステラは身も心も変質しリコリスに忠実な別の存在となる。しかしステラが敵でなくなってしまったら、その時このステラを愛おしく思う気持ちはどうなってしまうのだろうか……リコリスの心に些末な不安の影がよぎった。リコリスの忠実な手下。そんな風になってしまったステラはともだちと呼べるだろうか。今と同じような愛おしい気持ちを抱くことができるだろうか……ステラに〈眷属化〉を施したことは失敗だったのではないか。あくまで敵として友情を深めていくべきではなかったか。


 すうすうと寝息を立てるステラを眺めながら、リコリスは内心でこの考えを否定した。過ぎたことを考えてもしょうがない。それにステラならばあるいは〈眷属化〉をものともせず、リコリスが与えた力を自分のものとしながら、自我を保ち続ける可能性だってある。


 その可能性は低いが。


「ン……?」


 土砂で封鎖されていたはずの扉が開いたのはその時だった。逃がしたダンジョンマスターが戻ってきたのだ。おそらくステラを助け出すために。せっかくの蜜月を……邪魔者の再登場にリコリスは眉を顰めた。








 パチン。


 指を鳴らして部屋を塞ぐ大量の土砂をポイントに変換する。それでリコリスとステラの部屋に行けるようになった。ヘルメスとステラが自分たちのダンジョンに帰還するには、ふたりそろって転送魔方陣の部屋に行き、ヴァージニアに空間転移してもらう必要がある。そのためにはリコリスをどうにかして、ステラを取り返さなければならない。


 ヘルメスは深く息を吐いてから扉を開いた。


 部屋に戻ったヘルメスを待っていたのは、膝の上で横たわるステラとその髪を撫でるリコリスの姿だった。目を閉じたまま動かないステラにヘルメスは思わず死を連想した。視界が歪むような衝撃の中、息を呑んでステラを見つめていると、かすかに胸が上下していた。呼吸をしている。ステラは生きている。そこでようやくヘルメスは冷静さを取り戻した。


「ステラ……」


──勝算があったんじゃなかったのか。倒すったら倒すと言ったじゃないか。


 あの時のステラの言葉は……やっぱりヘルメスを先に行かせるための嘘だったのか。ステラは自分を犠牲にして。そのことに考えが至るとヘルメスは胸が苦しくなった。


──嘘だって気はしていた……でもステラなら本当に何とかするかもって。


「くそっ」


 ヘルメスは自分の考えの甘さを悔やんだ。


「アラアラ……戻ってきたのですネ……あなたを逃がすためにステラが犠牲になったというのに……」


 リコリスは膝枕をしたまま言った。リコリスの視線はステラに注がれており、ヘルメスのことを見ようともしない。


「邪魔をせずに立ち去るなら見逃してあげますヨ……戻ってきたということは転移回線を利用できなかったということ……わらわが捕らえずともいずれ他の者によって囚われますからネ」


 バアルといいリコリスといい……どいつもこいつもおれのことは眼中にないってか。こみ上げる怒りを抑えながらヘルメスは言った。


「立ち去るつもりなんてねぇよ……なあ……ステラ、返せよ?」 


「嫌です。ステラはわらわのおともだち、あなたには渡したくありません」


「そうかよ……でもさ、そんなこと言ってもいいのかよ。この子がどうなってもいいのか?」


「この子?」


 そこでようやくリコリスは顔をあげた。ヘルメスの腕に羽交い絞めにされているヴァージニアを見た瞬間、リコリスの顔色が変わった。ヘルメスの手にはナイフが握られていた。


「ヴァージニア……!」


「そういうこと。人質ヴァージニアの命が惜しければおれの言うことを聞いてもらおうか」


「リコリスサマ、タスケテ~(棒読み)」


 ヘルメスの腕の中でヴァージニアがリコリスに助けを求める。迫真の演技だ。リコリスの表情はさらに曇った。


 いけそうだ! とヘルメスは内心でほくそ笑んだ。


 ヘルメスはヴァージニアに頼んで人質になってもらったのだ。積極的に利敵行為をしようとするヴァージニアは裏切り者以外の何物でもないが、ヘルメスが無理やり言うことを聞かせたことにすれば、一応情状酌量の余地は残る。ヘルメスとステラを帰したとしてもヴァージニアが粛清されたりはしないはずだ。


 わざわざ危険を冒してリコリスの前にやってきたのは、ヴァージニアが人質にされたことの証人になってもらうため。そしてリコリスとの交渉カードとしてヴァージニアを利用するためだった。もしリコリスがステラに危害を加えようとしていたら、ヴァージニアを盾に止めさせることもできるという算段がヘルメスにはあった。


 ヴァージニアを守り、リコリスを抑え、なによりステラを守る。一石三鳥の作戦をヘルメスは思いついたのだった。


「ンー……どうしたものカ」


 リコリスが考え込んでいる……ヴァージニアには人質の価値がある。リコリスがこのフロアのボスであるならヴァージニアの能力について知らないということはないだろう。転移回線を操るヴァージニアの能力がダンジョンにもたらす利益は計り知れない。それがわかっているなら、リコリスはヘルメスの言うことを聞かざるを得ないはずだ。


「……それでわらわはどうしたらいいのです?」


「ステラを連れて、転送魔方陣の部屋まで来るんだ」


 ステラとヘルメスが魔方陣の部屋に着いた瞬間、ヘルメスの脅迫で仕方なくヴァージニアが転移回線を起動してもらう。ふたりはダンジョンに帰ることができ、ヴァージニアも脅されたので仕方なくやったのだと被害者面ができるというわけだ。


 リコリスはしばらく悩む素振りをしたあとで言った。


「ンー、それはできませんワ」


 それはヘルメスの思っていた返答と違っていた。断られるとは思っていなかった。


「なんだと! このおれに逆らって人質がどうなんのかわかってんのか! 覚悟はできてんだろうな……」


 と悪役的セリフを吐いたのところで、リコリスがすっと立ち上がった。リコリスの右腕はだらんと垂れ下がり血に塗れていた。おそらくステラが一矢報いたのだろう。


「このケガが痛くて……気絶したステラを運ぶなんてできませんワ」


 と悲し気な表情を見せるリコリス。たしかにそのケガではステラを持ち上げるのは無理だろうな……とヘルメスが思ったときだった。リコリスの姿が消えた……のではなくいつの間にか目の前に近づいてきていた。


「え?」


 ひゅんと鋭い風がヘルメスの頬を吹きつけ、その次の瞬間にはヘルメスの顔面に重い衝撃が走っていた。リコリスに殴られたのだ。と気が付いた時には腕を手刀で打たれた。羽交い絞めにしていた腕が緩み、持っていたナイフは弾き飛ばされた。その腕にさらに衝撃が加わる。ヴァージニアを羽交い絞めにしていた腕が跳ね上がり、その隙にさらに顔面を打たれた。


「ぐ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶふぇっ」


 何もできずにしこたま打撃を喰らい、尻もちをついた直後、顔面にこれまでで最大の衝撃が加わった。リコリスの蹴りだ。首がもげるかと思うほどの衝撃にヘルメスの体は何度か床の上で回転し壁にぶつかった。その時にはヴァージニアはリコリスに奪われていた。


「ェ??? タ、タスケテー(棒読み)??」


「ホホホ、もう助けてますヨ……わらわが強くて良かったですネ、ヴァージニア……お礼は要りませんヨ」


 ヘルメスはリコリスの強さを見くびっていた。ハイレベルなガレキの城の魔物たち、それを統率するボスモンスターの実力を。ヘルメスが立てた一石三鳥の作戦はリコリスの武力によってたやすく崩れ落ちた。


「くそ」


「ンー……あなたにヴァージニアを傷付ける気があれば……あるいは上手くいったのかもしれませんが」


 リコリスはヴァージニアの背後に回りその肩に左手を置いた。


「あなたにヴァージニアに危害を加える意思がなかったのはわかるのですヨ……? わらわを脅すなら最低でも殺気を香らせるくらいはしなくてはネ」 


 「痛!」とヴァージニアの表情が苦痛に歪んだ。肩を掴んだリコリスの爪が深く食い込んでいる。ステラのみならずヴァージニアまでが傷つけられてしまっている。


「それにあなた……わらわのケガを見て『かわいそう』って思ったんじゃないですカ? わらわ敵ですヨ? ……ずいぶん優しいのですネ……おかげさまでヴァージニアを取り戻させていただきましたワ」  


 くすくすとリコリスは馬鹿にするように笑った。ヴァージニアをあっさりと奪われてしまった。


 痛恨の失敗だ。


 ヘルメスは奥歯を噛みしめた。ヴァージニアを奪われてしまってはリコリスと交渉する材料がない。このままではステラをリコリスから取り戻すことも、ヴァージニアに結界を解除してもらうこともできない。


「さて、どうしますカ?」


 それを聞きたいのヘルメスのほうだった。この状況を打開するにはどうしたらいい。リコリスと直接戦い、勝利する以外に方法はないではないか。


 どうしてこうなった。ヘルメスは自分の演技力の低さを悔やんだ。こうなるなら普段からもっと脅迫の練習をしておけばよかった。


 リコリスにどうすれば勝てるのか。ステラですら勝てなかった相手だ。まともにやってもヘルメスには勝てない。


「わらわと戦いますカ? それともそのまま突っ立っていますカ? どちらでも構いませんヨ……時間はかかるかもしれませんがそのうち増援も来ます……あなたがたふたりは捕らえられ、それで終わりです」


 リコリスは冷たく言い放った。

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