お別れブラックコーヒー
①
頭を、ガンと鈍器で殴られたような衝撃だった。
篠森双葉。篠森。
偶然だろうか。私だって全校生徒の苗字を覚えているわけじゃない。でも、「篠森」は「佐藤」や「田中」と比べたら珍しい苗字だ。
まじまじとミツバさん──双葉さんの姿を見つめてしまう。彼女はどちらかといえばふくよかで、物腰の柔らかさが見た目からも伝わってくるようだ。篠森と似ているところはひとつもない。
でも、それは当たり前だ。現在の篠森の母親は、血の繋がらない義理の母親なのだから。
この人が、篠森の養母……?
篠森が「あの人」と呼び、彼女が自宅で料理をできない理由?
動揺する私をよそに、青葉先輩はにこやかに双葉さんを席に案内し、オーダーを受けた。コーヒーを一杯。
私は先輩を長机で区切られた調理スペースへ連れ込み、双葉さんに聞こえないよう小声で耳打ちした。
「先輩、あの人って、もしかして篠森の」
「ええ、そうでしょうね。『娘』と言っていたし」
確かにそうだ。ここまで来ると間違いないという気がする。
「あの、すみません。篠森がこの店に関わってることを伝えるのは、ちょっと待ってもらえますか」
「わかってるわ。事情があるんでしょう?」
私は目を見張った。篠森の家庭事情なんて一切伝えていないのに、どうしてわかったんだろう?
「なにか事情がなければ、父兄の彼女が私からチケットを受け取るわけないでしょう。そもそも、海浜の学園祭がチケット制なのも知らなかったみたいだし。篠森さんと双葉さん、何かあるのよね?」
そういえばさっき青葉先輩は、双葉さんの本名を聞いてもまったくといっていいほど反応を示さなかった。咄嗟にわけありだと判断して、素知らぬ顔をしてみせたのだ。
隣で私は「えっ!?」という顔をしていたから、危ないところだった。
「篠森さんがあえて渡さなかったチケットを、私が勝手に渡してしまった。これは……私のミスね」
「そんな、仕方ないですよ。ミツバさんが篠森の母親なんで、知り様がなかったんですから」
青葉先輩は握った拳を口元に当てて、何かを考え込むように眉間にしわを寄せた。
「……とにかく、一旦、篠森さんのことは知らないフリをしましょう。会わせてほしいと言われたら、ちょっと困ったことになるわ」
物陰に隠れたまま頷きあって、私はホットコーヒーを席へ運んだ。
「お待たせしました、コーヒーです」
「ありがとう。ところで、サクラさんは──ええと、この呼び方でいいのかしら」
「あ、私、蘇芳っていいます。サクラは下の名前そのままなんですけど」
「そうなの。じゃあ、蘇芳さんは、海浜高校の生徒会役員さんなのよね?」
「ええと、はい」
「1Bの篠森という生徒のこと、ご存じかしら。学年が違うから、何も縁がないとは思うけど……」
たらりと冷や汗が背中を伝う。
本当に、知らないふりをしたほうがいいのだろうか。
今のところ、双葉さんに悪い印象はない。
篠森は、養母のせいで家で料理が作れないと言っていた。だから同好会を立ち上げたのだと。
でも、私にはどうしても、双葉さんがそんな意地悪をする人には見えなかった。
だとすれば、篠森がああ言った理由は……。
「ごめんなさい。変なことを聞いて」
「あ、いえ……」
双葉さんが、ハンドバッグから財布を取り出した。席を立とうとしている。このあと、彼女は1Bの出店に向かうのだろうか。
あそこの出し物はお化け屋敷だ。
きっと双葉さんを見つけた篠森は、姿を隠してしまうだろう。
──本当にこれでいいのか?
見て見ぬふりをして、それでいいのだろうか。
余計なお世話かもしれない。
他人の家の事情に首を突っ込むなんて、間違ってるかもしれない。
でも──それでも。
「ナポリタン!」
と、私は叫んだ。
双葉さんがぎょっとしたみたいに身をすくめる。
「うちのナポリタン、すごく美味しいので! ぜひ、食べたいってもらえませんか!」
「ナポリタン?」
「はい。きっと、気に入ってもらえると思います」
「でも、私は──」
「お願いします!」
私は勢いよく頭を下げた。突然のナポリタン激推しに、周囲のスタッフが唖然としている。
でも、かまわない。
なんでもいいから。今は時間が必要だ。篠森を捕まえて、話を聞き出し、場合によっては、ここへ連れてくるだけの時間が。
双葉さんは戸惑いながらも、「そこまで言うなら……」と再び椅子に腰を下ろした。
私は青葉先輩の元へ行き、少しの間ホールを抜けることを伝えた。
「すみません、急に」
「大丈夫よ。任せておいて」
先輩が軽く私の肩を叩く。
鳶色の目は、何もかもを見透かしているみたいに澄んでいた。
「ちょっとお手洗いに」みたいな雰囲気で生徒会室を出て、私は1Bへ向かう。
人波をかき分ける度、早足になっていく。
頭の中には、ずっと、ただひとりの顔だけが浮かんでいる。
1Bの教室に着く。廊下側の壁一面に黒い壁紙が貼られていて、「ワタシの心臓を探してクダサイ」と赤いペンキで記されている。だから怖いって。
教室の入り口には「受付」と貼り紙された教卓が置かれている。その後ろに腰掛けている少女が、私を見て露骨に顔をしかめた。
昨日、撫子と呼ばれていた子だ。彼女は裾が千切れ、返り血(多分アクリル絵の具だけど)を浴びた白い服を着ていた。
呼出には応じてくれないだろう。なら仕方ない。
「高校生ひとり」
「なにしに来たんですか」
「はい、三〇〇円」
「話聞いてください。楓ちゃんなら連れて行かせませんから」
「君、篠森の友達だよね」
「……そうですけど」
それがなにか、という顔で鼻を鳴らす。
「実は私もそうなんだ。だから入れてほしい」
「あの後、楓ちゃん、泣いてました」
まなじりを吊り上げて、キッと私を睨む。
「許せないです。あの子、いつも蘇芳センパイの話ばっかりするんですよ。なのに、なんで同好会辞めるなんて言うんですか。人の心がないんですか」
「……ごめん」
「あたしに謝られても困ります」
「うん。それから、ありがとう。篠森を慰めてくれて」
「意味わかんない。なんで先輩がお礼を言うんですか。あたしは友達だからそうしただけです」
撫子の瞳は、山奥の湖みたいに澄んでいる。まぶしいくらいに真っ直ぐだ。
こういう子が、篠森の側にいてくれてよかった。
「お願い、通して。篠森の家族が来てるの」
撫子の目が揺らいだ。
ややあって、ため息と共にチケットを差し出してくる。
「ありがとう!」
彼女はまだ何か言い足りない様子だったけど、私はそれを聞く前に、暗いカーテンの中へ飛び込んだ。
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