夏休みが明けた、九月最初の土曜日。午前十時。

 海浜美浜駅の定番待ち合わせスポットである金のイルカ像に近づくと、すでに神楽坂会長が待っていた。

 休日とはいえ、一応は生徒会の職務である以上、お互いに制服姿だ。


「おっす、桜ちゃん。休日に悪いね」


 フランクな仕草で片手を上げる神楽坂会長は、夏休みを経て見事に焼けていた。本人曰く、中南米へ短期留学して植林ボランティアに従事していたらしい。なんなんだろうこの人。


「じゃ、行くか」


 待ち合わせ場所は駅前のカフェだ。スタスタ歩き出した会長の、小さな背中を追う。


「今日は初顔合わせだから来たけど。行ったとおり、次からは桜ちゃんに任せっからね」


「……はい」


 神楽坂会長の言葉はいつもどおりだけど、そこには静かな重さがあった。

 多分、彼女は私を試そうとしている。学園祭が終われば、遠からず次の生徒会選挙だ。

 けれど今の私には、信頼されていることへの高揚や、試されていることへの不安よりもなお、先に立つ感情があった。

 ──青葉先輩。

 かつて寄る辺を失い、ひとりぼっちになった私へ手を差し伸べてくれた人。

 私が海浜に入学したのは、受験日に風邪を引いて彼女が進学した美浜大附属に進学できなかったからだ。未練のように近場の海浜高校に進学したけれど、結局、これまで会う機会はなかった。

 まさか、こんな形で機会が訪れるなんて。

 東口を出る。眩みそうにまぶしい光が、目を焼いた。

 東に美浜大附属、西に海浜大を抱える海浜美浜は、いわゆる学生街だ。同世代の男女が行き交う駅前を歩いて、バスロータリーの先にあるチェーンのカフェへ向かう。

 自動ドアを抜けると、涼風が吹き出した。カウンターでカフェオレを注文して、ぐるりと店内を見渡す。

 店内は混み合っていたけれど、目当ての相手はすぐに見つかった。相手方も制服を着ていたからだ。

 純白のブラウスに、青と浅葱のチェックスカート。水色のリボンタイ。

 店で、美浜大附属の制服を着ているのは一人だけだった。

 ただし、それは青葉先輩じゃない。

 ブラックコーヒーを受け取った会長と一緒に、彼女の席へ近づく。

 美浜大附属の制服を着た彼女は、髪の片方だけを結んだ、アシンメトリーの髪型をしていた。すっと通った鼻筋から続く目元は涼やかで、いかにも仕事ができそうだ。

 私たちが近づくと、通路側の椅子席にいた彼女は立ち上がり、「こちらです」と向かいのソファ席を示した。


「初めまして。美浜大附属生徒会、会計席の慈恩寺です。すみません、青葉──鶴ヶ谷会長は、

少し遅れてくるそうです」


「おう、了解。直接会うのは初めてだな。海浜の神楽坂だ」


「あなたが、あの……お噂はかねがね」


「どうも。悪い噂じゃないといいんだけどな」


 どこかのビジネスマンみたいな中身のない会話をしながら、神楽坂会長がソファ席へ腰掛けた。私も名前を名乗ってから、席につく。


「おたくの鶴ヶ谷会長から話を受けたときは、ちょっと驚いたよ。学園祭なんて内輪ノリを楽しむモンだ。だけど、他の学校のを覗いてみたい気持ちはあるよな」


「外部の、それも同世代の目があるとなれば、自然と出し物も気合いが入りますしね」


「仮にも祭りだ。盛り上がるにこしたことはねーよ」


 確かに、距離の近い高校の生徒たちが招待されるとなれば、あまり恥ずかしい展示はできない。自分たちも相手の学校にいくとなれば尚更だ。


「それで、両校生徒会の合同企画は喫茶店だっけ?」


「はい。その辺は鶴ヶ谷が来てから──あ、ちょうど来ましたね」


 カフェの入り口を振り返る。

 店外から差し込む日の光が逆光になっているけれど、私が彼女を見間違うはずがない。

 サイドポニーでまとめた淡い茶髪と、細く涼しげな眉。均整の取れたシルエットを包む美浜大附属の制服。

 注文カウンターを通り過ぎて、彼女は真っ直ぐに席へと向かってきた。


「お待たせしました。鶴ヶ谷青葉です」


 それから私を見て、あの懐かしい、鈴の鳴るような声で言った。


「久しぶり、桜さん。また会えて嬉しいな」


  †


 初顔合わせと打ち合わせは、およそ一時間程度でつつがなく終わった。主に話していたのは神楽坂会長と青葉先輩だったけど。

 私はというと、どこか現実感がないというか、夢見心地というか、概ねそういう感じだった。

 二年半ぶりに見る青葉先輩は、元々端正だった容姿に大人っぽい色気のようなものが加わっていて、この人前より更に美人になったな、という間抜けな感想しか浮かばないくらいだった。

 話したいと思っていたことがあったはずなのに、そういうものは全部頭から抜け落ちてしまっていて、何も伝えられなかった。

 一方で、それで良いとも思っていた。今日は、顔を見られただけで満足だった。次に会う機会だってある。連絡先だって交換したし。

 そう思っていたのに。

 カフェを出て、解散して、駅に向かおうとした私の腕を誰かが掴んだ。

 神楽坂会長は私の前を歩いている。だから、もちろん犯人は一人しかいない。


「桜さん。ちょっと先輩と、ご飯食べに行かない?」


 もちろん、私が青葉先輩に逆らえるわけがないのだ。


 青葉先輩は、海浜美浜の駅前をさくさくと歩いていく。


「あの、青葉先輩」


「うん、なあに?」


 足を止めないまま、青葉先輩が体を捻って覗き込んでくる。予想外の顔の近さに、思わず「わっ」とのけぞってしまった。


「その、お、お久しぶりです」


「今さら? さっきも聞いた気がするけど」


 ふふ、と笑う姿が、過去の記憶と重なった。そうだった。この人は、いつもこんなふうに控えめに微笑む人だった。


「桜さんが、私を覚えていてくれて嬉しいな」


「それ、私の台詞です。私が先輩のこと、忘れるわけないじゃないですか」


「そうなの?」


「そうですよ」


 もちろん、という言葉は飲み込んだ。

 私にとってかけがえのない過去は、彼女からすれば、野良猫に餌をあげた程度の思い出に過ぎないのかもしれない。


「桜さんは変わったわね。名字も、見た目も」


「はい。ていうか、よく分かりましたね。私のこと」


 今の私と中学生時代の私とでは、外見からして全く違う。

 身嗜みは、学校で自分の立ち位置を確保するために身につけた武器のひとつだ。髪型も眉の形も、当時から大分変わったはずなのに。

 私が疑問を口にすると、青葉先輩は、悪戯っぽく人差し指を口に当てた。

 

「それはもちろん。だって、桜さんのことだもの」


 かあっと頬が熱くなる。

 記憶の中にある先輩よりずっと大人びているのに、笑った顔はあどけなくて、あの頃の面影が色濃く残っていて、見ているだけで胸が締め付けられるように痛い。


「か、からかわないでください」


「だって本当だから──あ、見えてきた。あそこよ」


 青葉先輩が、さっきとは別のカフェを指差した。スコーンやクッキーだけでなく、本格的なパスタも提供しているタイプの店だ。それなりに値段がするので、学生にはあまり馴染みがない。

 けれど青葉先輩は、慣れた様子で店内に入り、空いている窓際の席に文庫本を載せた後、注文カウンターへ並んだ。


「桜さんは何にする? 奢ってあげる」


「え⁉︎ い、いえ! 自分で払いますって」


「だぁーめ。相手が先輩ぶりたいときは、ちゃんと後輩してくれないと」


「私と同じのでいい?」と聞かれて、私はカクカクと首を縦に振った。

 駄目だ。何度も脳内でシミュレーションしたのに、本物の青葉先輩を前にすると全然うまくいかない。

 私は壊れたロボットみたいな足取りで席へ向かい、テーブルの上に置かれた小説のタイトルをチラ見しながら先輩を待った。ちなみに、本は本格派っぽいミステリだった。


「お待たせ」


 と戻ってきた先輩の手には、番号札が握られている。

 あれ? ドリンクならその場で受け取るはずだ。ということは、フードメニューを頼んだということになる。


「ご飯食べにいこう、って言ったでしょ? あ、もしかしてお腹空いてなかった?」


 店内の時計を見れば、もう十二時だ。もちろんお腹は空いている。ただ、当然フードメニューはドリンクより単価が高い。私が恐縮して肩を窄めると、青葉先輩はくすくす笑った。

 注文を待つ間、私たちはお互いの現状について幾つかの話をした。先輩は相変わらず人懐っこくて話が上手で、あっという間に私たちは打ち解けていた。

 やがて、青葉先輩がこちらに来るウエイターを見つけた。

 

「──あ、来たみたいね」

 

「そういえば、何を頼んだんですか?」


 私の問いかけに、青葉先輩が遠くを見つめるように目を細める。


「ナポリタン。懐かしくて、つい頼んじゃった」


 テーブルに二枚の皿が並ぶ。

 細切りのタマネギにピーマン、ウインナーが入ったスタンダードなナポリタンだ。


「覚えてる? 昔、一緒に食べたこと」


「──はい、もちろん」


 忘れるわけがない。

 記憶が逆巻く。薄墨のセーラー服を着た青葉先輩が、今の彼女に重なった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る