②
「じゃ、行きましょ」
放課後になって、椿が席にやってくる。彼女は熱心な弓道部員だけど、今日はお休みらしい。
生徒会もお休みなので、言い訳がきかない。
私は覚悟を決めて、家庭科室のドアをノックした。応答はないが、気配はする。ゆっくりと引き戸を開けた。
「篠森、来たよ」
はたして、篠森はすでにいた。
いつもの浅葱色のエプロンを身につけて、水色のシュシュで真っ黒な髪を結んで、こちらに背を向けている。
「篠森。こっち、クラスメイトで友達の椿」
「二年の等々力よ。よろしくね、篠森さん」
ようやく振り返った篠森が、「……どうも」と無表情に会釈した。気のせいか、存在しない尻尾が逆立っているように見える。気にしすぎかもしれないけど……。
私はわざとらしく咳払いをして、篠森に近づいた。
「篠森、ごめんね。急に友達連れてきちゃって」
詫びを入れつつ、回り込んで顔色をチェックする。
あれ、これは意外と……。
緊張しているせいか、表情筋は死んでるものの、意外とそこまで不機嫌には見えない。
「別に。むしろ、丁度よかったです」
篠森が、ステンレスの調理台に手を伸ばした。
彼女が掴んだのは、赤地に白文字が印刷された小さな缶詰だ。S&B、の文字が燦然と輝いている。
「今日は、これなので」
すなわち、カレー粉だった。
†
「椿、何カレーが好き?」
「シーフード」
「そこは普通さ、牛、豚、鳥から選ばない?」
「その三択なら牛」
「へー。私、チキンカレー派」
私の母は料理をしない人だった。
記憶にある限りで、彼女が厨房に立つ姿を見たのは数えるほどしかない。
その数少ない手料理のひとつが、カレーだ。甘口のチキンカレー。
思い出の味なんて大層なものじゃない。正直味なんて全然覚えてないし、多分、ルウのパッケージに書いてあるとおりに作っただけだろう。
それでもなんとなく、私はチキンカレー派だ。
雑談しながら、ピーラーを人参の肌に滑らせる。
普段は篠森の作業を見守るだけの私だが、カレーとなれば話は別だ。中学校の家庭科や林間学校で、大鍋をかき混ぜていた記憶がある。
「別に先輩に忖度したわけじゃないですが」
なんて前置きをしてから、篠森が冷蔵庫からパックを取り出した。
「今日のメインは鳥もも肉です」
「やった!」
思わずガッツポーズを取ってしまう。
「お二人には、人参とじゃが芋のカットをお願いします。肉と玉ねぎはわたしがやるので」
「こうしてると、なんか、色々思い出すわね」
ピーラー片手に、椿がしげしげと人参を眺める。
「去年、アンタと菫の三人でカレー作ったこととか」
「あったね。そんなことも」
「どこかの阿呆がコーヒーとチョコレートとハチミツとヨーグルト混ぜて大失敗したのよね」
「隠し味に良いってネットに書いてあったんだよ。反省はしてる。リテラシー不足だった」
じゃが芋の皮を剥きながら、肩をすくめる。
去年、椿たちと海に行ったときのエピソードだ。
素泊まりなので、予算削減のために自炊を試みて失敗した。
あの一幕によって、料理への苦手意識がいっそう醸成されたことは否めない。
「篠森。今回、そういう魔法の隠し味はないの?」
「ありません。強いて言うなら、トマト缶を入れます」
「普通……」
「文句あるなら先輩は食べなくていいです」
ズドン、と篠森は皮を剥いた玉ねぎを真っ二つにした。
断面を下にして、包丁を構える。
すとととと……と軽快な音を立てて、玉ねぎがスライスされていく。
「篠森さん、包丁上手ね」
「でしょ。めっちゃ料理上手いんだよ、この子」
「なぁんで桜が自慢げなのよ」
「しかも可愛い」
「確かにね」
「あの気が散るんですけど」
「怒られたじゃない」「怒られちゃったね」
玉ねぎを刻み終えた篠森が、鍋を火にかける。バターを落として、玉ねぎを炒める。
「篠森、玉ねぎで目痛くならないの?」
「玉ねぎは常温保存推奨ですけど、切る前に冷やしておくと目に沁みません」
「あ、そうなんだ」
料理をする人にとっては常識だろうが、地味に役立つライフハックだ。覚えておこう。使う機会はいつになるかわからないけど。
玉ねぎが透けてきたあたりで、篠森は鶏肉を投入した。じゅわわ、と皮目の焼ける良い音がする。
そこに一口大にした人参を入れて、トマト缶を丸ごと一個注ぎ込む。
しっかり蓋をすると、篠森は「しばらくこのままです」と言った。
「水は入れないの?」
「野菜とトマト缶の水分で大丈夫ですよ」
そんなものか。
やることがないので、自然と雑談タイムになる。
「篠森さんって、毎日こんな風に料理してるの?」
「……同好会活動なので」
「へえ。材料費とか、同好会の予算じゃ足りなくない?」
「家が定食屋なので、余った食材を持ってきてるだけです」
「ああ、さっきもそんなこと言ってたわね。なんてお店か聞いていい?」
「……か、かえで食堂です」
「ありがと。今度行ってみるわ」
「いえ、別に。無理して来てくれなくても」
おそらく気を遣って話しかけている椿に対して、篠森は妙にカクカクしていた。
なんというか、見知らぬ人に撫でられて固まる猫みたいだ。
微笑ましい反面、ちょっと寂しい気もする。
なんだろう、これ。
例えば、密かに餌を与えていた野良猫が、自分以外の相手から食べ物を受け取っている姿を見たときのような……。
そういえば、彼女はまだ、クラスに友達がいないままなのだろうか。
ややあって、キッチンタイマーが鳴る。
篠森は蓋を開け、じゃが芋を投入した。再び蓋をして、タイマーをセットする。
調理台の上を眺めた椿が、ふと真剣な目になった。
「ねえ、桜。余計なお世話かもしんないけど、やっぱりお金は渡したほうがいいんじゃない?」
私と篠森の視線が、椿に集中した。
「篠森さん。さっきの、嘘よね。ううん、嘘っていうか、全部が本当じゃないっていうか」
「……何のことですか?」
「お店の食材の余りを持ってきてる、って話。そういうのもあるだろうけど、中には自分で買ってる食材もあるでしょ。例えば、これとか」
椿が、空のトマト缶を指差した。
「缶詰の賞味期限なら、余ったりしない。使わずしまっておけばいいんだから。そもそもこれ、業務用じゃないし」
言われてみれば、まったくもって椿の言うとおりだ。賞味期限の長い缶詰が、廃棄されるはずはない。すっかり慣れて、そういうものだと思ってしまっていたけれど。
「こういうの、よくないと思う。手間賃を貰えとまでは言わないけど、せめて材料費は受け取らないと」
「でも、別に大した金額じゃないですから」
「本当に? この缶だって、200円くらいはするよね。これが毎日なら、相当な金額になるんじゃないの」
それは──椿の言うとおりだ。
大人にとっては些末な金額でも、私たちにとってはそうではない。
「篠森、そうなの?」
「…………。」
桜色の唇を噛んで、篠森が俯く。
椿の言葉は当たっていたらしい。こういうとき、自分の鈍さが嫌になる。
「ごめん、気づかなかった。やっぱり私もお金出すよ」
親から送られてくる仕送りは、学費や生活費を除いて藤乃ちゃんから渡されている。そこには夕食代も含まれていた。であれば、これは本来、篠森に渡すべきものだ。
「言ってくれたらよかったのに」
「……ばってん、言うたら先輩が……」
もごもご呟いて、はっとしたようにそっぽを向く。
「とにかく、お金は要りません」
薄々分かっていたけれど、篠森は頑固だ。言い出したら聞かないところがある。
黙って計量スプーンでカレー粉を計り始めた篠森の様子を見て、椿が腕を組んだ。
「ふーん、なるほどね……」
「ちょっと、椿も何か言ってよ」
「言いたいこと言った。後は桜と篠森さんの問題でしょ」
あっさり引き下がる。
椿は物事に深く拘らないところがある。頑固な篠森とは対照的だ。
「でも、」
ぴろぴろぴろ。
スマホに着信が入る。見れば、藤乃ちゃんからだ。
出なさいよ、とばかりに椿が顎をしゃくる。
電話を受けると、ハスキーな私の保護者の声がした。
『桜ちゃん、ごめん。今、ちょっといい?』
「……あ、うん。大丈夫だよ、藤乃ちゃん」
話しながら、二人と距離を取った。多分、爪切りを探しているか、届いたはずの書類が見当たらないかだろう。
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