馥郁メープルシロップ
①
梅雨入り宣言からずっと続いていた雨が、ようやく途切れた初夏の放課後のことだ。
「シシャモってあるじゃん」
洗い終えた平皿を布巾で拭きながら、私は篠森に話しかけた。
水色のブックカバーをつけた文庫本を紐解いていた篠森が、紙面から顔を上げる。
「懐かしいですね。小学校の給食でよく出てきました」
「あれって偽物らしいよ。スーパーで売ってるのは、大体本物のシシャモじゃないんだって。知ってた?」
「カラフトシシャモですね」
さすが、食べ物のことになると詳しい。
「でもそのネット記事読んだとき、『いやどっちもシシャモじゃん』って思っちゃった」
そもそも、「本物のシシャモ」とはなんだろう。
別にカラフトシシャモがシシャモのふりをして生きているわけじゃない。
やつらはただ、本能のままに海を泳いでいるだけだ。勝手に何かの偽物にされた挙句食卓行きとは、さぞかし不本意だろう。
もちろん、私の勝手な妄想だけど。所詮、魚だし。
「そういうの、他にもありますよ。伊勢の大アサリとか」
「なにそれ。おっきなアサリ?」
「という名前ですが、本当はウチムサラキという貝です。耳馴染みのある名前のほうが売れるんでしょうね」
「うーん、気持ちはわかる……」
知らないものより、知っているもののほうが安心できる。そういうものだ。
「そういえば、ケンタのビスケットなんだけどさ」
「話飛んでません?」
「あれ、シロップの小袋がついてくるじゃん。ハニーメイプル。あれ、実はメイプルシロップじゃないんだよ」
篠森が、「何言ってんだこの人……」とでも言いたげな瞳で私を見つめた。先輩をそんな目で見ないでほしい。生徒会副会長だぞ。
「そりゃそうですよ。ハニー、って書いてあるじゃないですか」
「でも私、ずっとアレがメイプルシロップだと思ってたんだよ。あまりにも美味しいから。初めて気付いたとき、すごいショックだった」
当時小学六年生だった私は、「騙された!」とさえ感じていた。今思えば、言い掛かりもはなはだしいが。
「あれ、ちゃんとメイプルシロップも原料に含まれてますよ。原価が高いので、そんなに沢山じゃないと思いますけど」
「やっぱり高級品なの?」
「そこまでじゃないですが」
篠森がスマホを突き出した。画面に映っている値段は、確かにそこまでじゃない。それこそ、学生でも買えるくらいだ。
とはいえ、実際に買うかどうかは別である。ミスドのドーナツ五個、あるいはスタバのフラペチーノ二杯分と考えると、いやそこまでか? という気になってくる。
「うーん、一回、ちゃんと味わってみたいけどな……」
「いいですよ?」
スクールバッグを肩に掛けた篠森が、あっさり言った。
「うちにまだ、ひと瓶あったはずなので。明日、持ってきます」
†
翌日。
時刻は夕方だけど、まだ日は高い。
夏の足音を近くに感じる、少しだけ気怠い夕刻に頂くのは──
「パンケーキです」
「やったー!!」
「わっ」
私の歓声に、篠森がビクッと震えた。
「いきなりなんですか先輩。びっくりさせないでください」
「だってスイーツ系って初めてだもん。テンション上がるよ」
「そ、そうですか」
ガッツリしたメニューも好きだが、甘いものも大歓迎だ。
「でもパンケーキって、スイーツですかね」
「そりゃそうでしょ。違うの?」
「モーニングで出てきたりするじゃないですか。わたしはどちらかというと、朝食のイメージです」
「なるほど……?」
わからなくもない。確か、朝マックのラインナップにもホットケーキがあったはずだ。
篠森の料理が始まる。
まずは卵。手に取って、かつんかつんとボウルに割り入れたら、サラダ油、砂糖を入れて泡立て器(ホイッパーとも呼ぶらしい)で混ぜていく。
牛乳を入れて軽く馴染ませたら、小麦粉、ベーキングパウダーを投入。バニラエッセンスも数滴。
「ねえ篠森、バニラエッセンスって甘くないんだよ。知ってた?」
「先輩、わたしのこと馬鹿にしてます?」
「いや、私は割と最近までバニラアイスはバニラエッセンスの味だと思ってたから」
「先輩って本当に学年首席なんですか?」
「三位以下になったことはないなあ」
「理不尽だ……」
なぜか恨みがましい目で睨まれた。理不尽だ。
こういうのは、普段の努力の積み重ねである。
手早く生地を混ぜた篠森が、フライパンにバターを滑らせた。じゅ、と溶けたバターがふわっと香る。焼きたてのクッキーの匂いだ。
「パンケーキ焼くときって、なんかコツとかあるの?」
「ベーキングパウダーが卵液の水分に反応するので、混ぜたらすぐ焼くことですね。あと、形にこだわるなら、高い所から生地を落とすとか」
「私でも作れそう?」
「ホットケーキミックスを使えば簡単ですよ」
「じゃあ今度、チャレンジしてみようかな……」
この前のポテトチップスグラタンで、少しだけ、料理に対する苦手意識が薄まった気がする。
それに、何でも簡単そうに作る篠森を見ていると、自分でもやれそうな気がしてくるのだ。いや、これは多分、もとい間違いなく錯覚だけど。
でも案外、そういう安易な勘違いから、挑戦というものは始まるのかもしれない。
「スフレパンケーキとか、作れないかな。口に入れると、しゅわって溶けるやつ」
「いきなり難易度上げないでください。普通のパンケーキも作ったことないくせに」
クリーム色の生地に、ふつふつと泡が浮かぶ。
うん。まずはひとつ、挑戦してみようではないか。
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