一週間後。

 私はタブレットとスクリーンの同期を解除して、生徒会室のカーテンを引いた。日が射し込んで、パッと部屋が明るくなる。


「お疲れ、桜ちゃん」


 神楽坂会長が、一仕事を終えた私の肩を軽く叩いた。


「いいプレゼンだったぜ。雅ちゃんも納得してたし、これなら顧問の先生方も文句ないだろ」


「雅ちゃん」こと八戸雅先生は、生徒会の顧問役だ。物腰の柔らかい中年の女性教諭だが、職員室内での発言力は強い。

 小規模同好会の一律廃止を止めるために、私は彼女を説得することにした。

 人数による一律廃止はしない。各同好会の活動内容を踏まえて、個別に廃止の要否を決める。

 そういう方向に舵を切ってもらうため、廃止対象にされていた同好会の活動報告をまとめ、新たな方針と廃止の判断基準を提示した。

 資料の出来は会心だ。筋も通っているから、職員室で反対されることはないだろう。

 そもそも一律廃止なんて、誰が見たって乱暴なのだ。

 私は胡散臭い会長の笑顔を見上げて、


「もしかして、最初からこうなると思ってました?」


 と尋ねた。


「へっへっへ」


 会長は笑って何も言わない。

 多分、それが答えなのだと思う。


 †

 

 翌日。

 家庭科室の引き戸を開けると、エプロン姿の篠森が鍋を火にかけていた。


「篠森」


 名前を呼んでも、篠森は振り返らない。

 構わず、その背中に近づいていく。私の方がいくらか背が高い。ひょいと肩越しに覗き込んで、尋ねた。


「今日は、何を作ってるの?」


「韓国風の肉じゃがです」


「おお……」


 篠森が鍋の蓋を取ると、ふわっと蒸気が立ち上る。柔らかく煮えたジャガイモに、薄切りの牛肉と結び糸蒟蒻。煮汁はほんのり赤みを帯びていて、甘辛さを連想する匂いにきゅっと胃袋が疼いた。

 じっと肉じゃがを見つめる私を見て、ぼそりと篠森が言った。


「先輩も食べますか?」


「いいの?」


 はい、と頷いて、篠森がコンロの火を落とす。


「味が染みるまで、待ってからですけどね」


「どれくらいかかるの?」


「だいたい二十分です」


「焦らすねえ」


 私は手近な丸椅子を引いて腰掛ける。

 篠森が、何か言いたそうに口を開閉した。


「……あの、八戸先生から聞きました。同好会、続けていいって」


「そっか」


「ありがとうございました」


「いいよ、別に」


 それで終わりかと思ったけれど、まだ何か言いたそうにしている。

 ややあってから、篠森は口を開いた。


「それから、あの。これは本当に、先輩がよればなんですけど」


 スマホに落としかけた視線を上げる。

 篠森は両手を固く握りしめている。視線が左右に泳いでいて、どことなく挙動不審だ。


「料理って一人分だけ作るの難しくて、ご飯も一合炊くと余っちゃって、でもここの炊飯器保温機能は微妙で一日持たないんですよね」


 何の話だろう。

 ぼんやり聞いていると、どんどん篠森は早口になっていく。


「でも二人で食べると一合って結構丁度いいんですよね。先輩もわたしもしっかり食べるほうなので。それにひとり同好会ってやっぱり目をつけられやすいというか、また今回みたいなことになるかもしれないですし、今のうちに人を増やしておきたくて。それはできれば食べ物の好みが合う人がよくて」


 早口過ぎて、ところどころ何を言っているのか聞き取れない。

 ぽかんとした私の顔を見つめて、篠森はなぜか怒ったように続けた。


「だから」


 薄い胸が膨らんで、ブラウスのリボンタイが揺れる。

 緊張のせいか、仄かに赤らんだ顔で、彼女は告白するように言った。


「生徒会と掛け持ちでいいので。同好会に入って、これから毎日、わたしのご飯を食べてくれませんか」


「……へ?」


 こうして私、蘇芳桜は。

 後輩の篠森楓と、放課後の家庭科室でご飯を食べることになったのだった。


 †


「先輩、どうかしましたか」


 正面に座った篠森が、ドーナツを半分に割りながら言う。


「なんだかぼーっとしてましたけど」


「ごめん、なんでもない」


 なんとなく、出会ったときのことを思い出していた。

 あの日に比べたら、篠森の態度もいくらか柔らかくなったと思う。

 考えてみれば、まだほんの数週間しか経ってないけれど。

「ふうん」と物言いたげに呟いて、篠森が手元のドーナツに目を落とした。丸い生地が連なるポンデリングは、彼女の可憐な容姿に良く似合っている。

 美少女が可愛いものを食べていると可愛い。

 別に、ガーリック炒飯を食べていたって可愛いけど。

 篠森が小首を傾げる。


「私の、ひと口食べますか?」


「あ、うん。食べる」


 見ていたのはドーナツじゃなくて、篠森なんだけどな。

 まあいいか。美味しいそうだし。


「篠森も、私の食べるよね」


「はい」


 長方形の皿に載った季節限定ドーナツを、なるべく丁寧に二つに分ける。

 今季のテーマは抹茶。抹茶にわらび餅や餡子を組み合わせた商品が、六種類ほどラインナップされている。

 その中から私が選んだのは、スタンダードな円形の生地に抹茶ホイップクリームと栗餡、さらに黒糖わらび餅をサンドしたドーナツだ。

 この抹茶味のお菓子という代物が、私は昔から好きである。甘さの中にほろ苦さがあって、食べ飽きないところがいい。


「じゃあ、これ──」


「先輩」


 皿ごと差し出そうとすると、先制パンチみたいに、指で摘んだポンデリングの欠片が突き出された。


「え?」


「……どうぞ」


「あの、篠森?」


「…………早く食べてください」


 平気な顔を装っているが、耳が赤く染まっている。

 どうした急に。

 ていうか、そんなに照れるならやめておけばいいのに。

 さっと左右に視線を走らせる。店内に海浜高の制服がないことを確かめてから、私はおずおずと口を開いた。

 慎重に動いたのに、篠森の硬い爪先が下唇に触れてしまう。

 季節限定、抹茶味のポンデリング。

 ふにゅっという弾力を感じさせつつ、柔らかく噛み切れるお馴染みの食感が心地いい。

 丸い生地に抹茶ホイップと北海道産あずきの粒餡が挟まっていて、更に生地の上から抹茶チョコがかかっている。まさに抹茶づくしという風情だ。

 うん、これも美味しい。次の機会があれば、こっちを選んでもいいかもしれない。


「先輩」


 目を閉じた篠森が、催促するように口を開いた。

 わずかな隙間から、赤い舌が垣間見える。

 なんだかキスでも待ってるみたいだ。人形みたいな彼女がそうしていると、禁忌に触れているようで妙に落ち着かない。


「……えい」


 ぐにゅ。

 照れた私はドーナツの端を摘み、一口には大き過ぎるそれを後輩の唇へ押しつけた。

 唇の端にクリームをつけた篠宮が、ゆっくりと目を開ける。


「……ごめん、つい」


「いえ、わたしこそ、急に変なことしてすみませんでした……」


 それは本当にそう。なんだったんだ、今の「あーん」は。

 もしかして、篠森なりの仲良くなりたいアピールだったのだろうか。

 だとすれば不器用というか、下手くそがすぎるけど。

 改めて手でドーナツを受け取った篠森が、ぱくりと齧った。


「ん。美味しいですね、抹茶わらびドーナツ」


「うん、美味しい」


 食べ物には不思議な力がある。

 私はまだ篠森のことを何も知らないし、正直、何を話していいのかさえよくわからない。

 でも、こうして二人で一緒に美味しい物を食べていれば、そこに何か、暖かなものが生まれる気がする。

 それはきっと、ひとりぼっちの食卓には存在しない何かだ。

 あの寒々しい無人のマンションや、ひとりきりの家庭科室では生まれようがない、柔らかで暖かなものだ。

 だから今は、この名前のつかない不思議な関係を、大事に繋げてみようと思う。

 頬杖を突き、壁に貼られた新商品の予告ポスターを眺めながら、私は、できるだけ何気ない口調で言った。


「ねえ篠森。明日は、何を作ってくれるの?」

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