③
一週間後。
私はタブレットとスクリーンの同期を解除して、生徒会室のカーテンを引いた。日が射し込んで、パッと部屋が明るくなる。
「お疲れ、桜ちゃん」
神楽坂会長が、一仕事を終えた私の肩を軽く叩いた。
「いいプレゼンだったぜ。雅ちゃんも納得してたし、これなら顧問の先生方も文句ないだろ」
「雅ちゃん」こと八戸雅先生は、生徒会の顧問役だ。物腰の柔らかい中年の女性教諭だが、職員室内での発言力は強い。
小規模同好会の一律廃止を止めるために、私は彼女を説得することにした。
人数による一律廃止はしない。各同好会の活動内容を踏まえて、個別に廃止の要否を決める。
そういう方向に舵を切ってもらうため、廃止対象にされていた同好会の活動報告をまとめ、新たな方針と廃止の判断基準を提示した。
資料の出来は会心だ。筋も通っているから、職員室で反対されることはないだろう。
そもそも一律廃止なんて、誰が見たって乱暴なのだ。
私は胡散臭い会長の笑顔を見上げて、
「もしかして、最初からこうなると思ってました?」
と尋ねた。
「へっへっへ」
会長は笑って何も言わない。
多分、それが答えなのだと思う。
†
翌日。
家庭科室の引き戸を開けると、エプロン姿の篠森が鍋を火にかけていた。
「篠森」
名前を呼んでも、篠森は振り返らない。
構わず、その背中に近づいていく。私の方がいくらか背が高い。ひょいと肩越しに覗き込んで、尋ねた。
「今日は、何を作ってるの?」
「韓国風の肉じゃがです」
「おお……」
篠森が鍋の蓋を取ると、ふわっと蒸気が立ち上る。柔らかく煮えたジャガイモに、薄切りの牛肉と結び糸蒟蒻。煮汁はほんのり赤みを帯びていて、甘辛さを連想する匂いにきゅっと胃袋が疼いた。
じっと肉じゃがを見つめる私を見て、ぼそりと篠森が言った。
「先輩も食べますか?」
「いいの?」
はい、と頷いて、篠森がコンロの火を落とす。
「味が染みるまで、待ってからですけどね」
「どれくらいかかるの?」
「だいたい二十分です」
「焦らすねえ」
私は手近な丸椅子を引いて腰掛ける。
篠森が、何か言いたそうに口を開閉した。
「……あの、八戸先生から聞きました。同好会、続けていいって」
「そっか」
「ありがとうございました」
「いいよ、別に」
それで終わりかと思ったけれど、まだ何か言いたそうにしている。
ややあってから、篠森は口を開いた。
「それから、あの。これは本当に、先輩がよればなんですけど」
スマホに落としかけた視線を上げる。
篠森は両手を固く握りしめている。視線が左右に泳いでいて、どことなく挙動不審だ。
「料理って一人分だけ作るの難しくて、ご飯も一合炊くと余っちゃって、でもここの炊飯器保温機能は微妙で一日持たないんですよね」
何の話だろう。
ぼんやり聞いていると、どんどん篠森は早口になっていく。
「でも二人で食べると一合って結構丁度いいんですよね。先輩もわたしもしっかり食べるほうなので。それにひとり同好会ってやっぱり目をつけられやすいというか、また今回みたいなことになるかもしれないですし、今のうちに人を増やしておきたくて。それはできれば食べ物の好みが合う人がよくて」
早口過ぎて、ところどころ何を言っているのか聞き取れない。
ぽかんとした私の顔を見つめて、篠森はなぜか怒ったように続けた。
「だから」
薄い胸が膨らんで、ブラウスのリボンタイが揺れる。
緊張のせいか、仄かに赤らんだ顔で、彼女は告白するように言った。
「生徒会と掛け持ちでいいので。同好会に入って、これから毎日、わたしのご飯を食べてくれませんか」
「……へ?」
こうして私、蘇芳桜は。
後輩の篠森楓と、放課後の家庭科室でご飯を食べることになったのだった。
†
「先輩、どうかしましたか」
正面に座った篠森が、ドーナツを半分に割りながら言う。
「なんだかぼーっとしてましたけど」
「ごめん、なんでもない」
なんとなく、出会ったときのことを思い出していた。
あの日に比べたら、篠森の態度もいくらか柔らかくなったと思う。
考えてみれば、まだほんの数週間しか経ってないけれど。
「ふうん」と物言いたげに呟いて、篠森が手元のドーナツに目を落とした。丸い生地が連なるポンデリングは、彼女の可憐な容姿に良く似合っている。
美少女が可愛いものを食べていると可愛い。
別に、ガーリック炒飯を食べていたって可愛いけど。
篠森が小首を傾げる。
「私の、ひと口食べますか?」
「あ、うん。食べる」
見ていたのはドーナツじゃなくて、篠森なんだけどな。
まあいいか。美味しいそうだし。
「篠森も、私の食べるよね」
「はい」
長方形の皿に載った季節限定ドーナツを、なるべく丁寧に二つに分ける。
今季のテーマは抹茶。抹茶にわらび餅や餡子を組み合わせた商品が、六種類ほどラインナップされている。
その中から私が選んだのは、スタンダードな円形の生地に抹茶ホイップクリームと栗餡、さらに黒糖わらび餅をサンドしたドーナツだ。
この抹茶味のお菓子という代物が、私は昔から好きである。甘さの中にほろ苦さがあって、食べ飽きないところがいい。
「じゃあ、これ──」
「先輩」
皿ごと差し出そうとすると、先制パンチみたいに、指で摘んだポンデリングの欠片が突き出された。
「え?」
「……どうぞ」
「あの、篠森?」
「…………早く食べてください」
平気な顔を装っているが、耳が赤く染まっている。
どうした急に。
ていうか、そんなに照れるならやめておけばいいのに。
さっと左右に視線を走らせる。店内に海浜高の制服がないことを確かめてから、私はおずおずと口を開いた。
慎重に動いたのに、篠森の硬い爪先が下唇に触れてしまう。
季節限定、抹茶味のポンデリング。
ふにゅっという弾力を感じさせつつ、柔らかく噛み切れるお馴染みの食感が心地いい。
丸い生地に抹茶ホイップと北海道産あずきの粒餡が挟まっていて、更に生地の上から抹茶チョコがかかっている。まさに抹茶づくしという風情だ。
うん、これも美味しい。次の機会があれば、こっちを選んでもいいかもしれない。
「先輩」
目を閉じた篠森が、催促するように口を開いた。
わずかな隙間から、赤い舌が垣間見える。
なんだかキスでも待ってるみたいだ。人形みたいな彼女がそうしていると、禁忌に触れているようで妙に落ち着かない。
「……えい」
ぐにゅ。
照れた私はドーナツの端を摘み、一口には大き過ぎるそれを後輩の唇へ押しつけた。
唇の端にクリームをつけた篠宮が、ゆっくりと目を開ける。
「……ごめん、つい」
「いえ、わたしこそ、急に変なことしてすみませんでした……」
それは本当にそう。なんだったんだ、今の「あーん」は。
もしかして、篠森なりの仲良くなりたいアピールだったのだろうか。
だとすれば不器用というか、下手くそがすぎるけど。
改めて手でドーナツを受け取った篠森が、ぱくりと齧った。
「ん。美味しいですね、抹茶わらびドーナツ」
「うん、美味しい」
食べ物には不思議な力がある。
私はまだ篠森のことを何も知らないし、正直、何を話していいのかさえよくわからない。
でも、こうして二人で一緒に美味しい物を食べていれば、そこに何か、暖かなものが生まれる気がする。
それはきっと、ひとりぼっちの食卓には存在しない何かだ。
あの寒々しい無人のマンションや、ひとりきりの家庭科室では生まれようがない、柔らかで暖かなものだ。
だから今は、この名前のつかない不思議な関係を、大事に繋げてみようと思う。
頬杖を突き、壁に貼られた新商品の予告ポスターを眺めながら、私は、できるだけ何気ない口調で言った。
「ねえ篠森。明日は、何を作ってくれるの?」
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