第9話

 ここ、は……?


 意識を取り戻したマウシィは、自分の周囲に、見たことのない景色が広がっているのに気づいた。


 いや、彼女は今、「意識を取り戻した」わけではない。

 まして、周囲を「見た」わけでも、何かに「気づいた」わけでもない。

 むしろ通常の意味での「意識」は完全に失われて、精神的で霊的な世界に魂が囚われているだけ。周囲の物理刺激を五感が捉えているのではなく、曖昧で漠然とした霊的な気配を、同じく霊的な存在となったマウシィが第六感的に感じとっているだけ。

 つまり、これまでの物質的な世界と別れを告げ、もはや引き返すことのできない領域にいる、ということだ。


 わ、私は、地獄に行くと思っていました。でもここは、そうじゃなさそうデス……。

 まあ、天国でもなさそうデスが……。


 三百六十度どこを見渡しても、ひたすら灰色の景色が無限に広がっているだけの、灰色の空間。

 その灰色の大地には、枯れた木や、様々な動物の骨が、点々と転がっている。その中には、人間らしきものもある。

 全てがコントラストを失った、死んだものだけの世界。

 そこに彼女がいるということは、やはり、「そういうこと」なのだろう。


 間違いなく、マウシィ・オズボーンは死んだのだ。



 ああ。こんなに体調がいいのは、何年ぶりでしょうか……。


 今のマウシィは、生前に縛られていた物理的な体から解放されていた。今までどんなときでもずっと感じていた蛇の呪いによる猛毒や、スキあれば首を絞めようとする呪いの人形による苦痛からも解放されていた。それも、彼女の死が紛れもない真実であることを証明している。

 死ぬまで毒で苦しむ、死ぬまで恨まれる、という呪いがなくなった。それは、彼女がもう死んでいるからだ。


 あは、あはは……。


 死者となった今のマウシィに、悲壮感はなかった。


 ついに私は、死んじゃったんデスね。お父さんとお母さんの呪いの通りに。二人の想いを受け取って、それを、現実のものとして……。


 さきほど現実世界でハルマは、「マウシィは、自分がかけた『死の呪い』で死んだ」と言っていた。しかし、実はそれは全くの見当ハズレだった。

 マウシィが死んだのは、彼女を憎み、彼女の死を願った両親のせい。彼らが死の間際にかけた、「人生の絶頂のときに、最も惨めで最悪なかたちで死ね」という呪いが、完成したためだった。

 呪われフェチのマウシィにとっては、一人の人間を殺してしまうほどのそんな強い呪いを、ついに成就できたこと。それは何よりも嬉しくて、幸福なことだったはずだ。だが。

 今の彼女には、幸福感もなかった。


 アンジュさん……。


 空っぽの霊的存在となりはてた今のマウシィの中に、唯一残っていた人間らしい感情……それは、アンジュへの想いだった。


 マウシィの体が、少しずつ崩れていく。足や手の先端から肉が消えて、周囲の動物たちの骨格のように、骨だけになっていく。

 しかし、それが物理的な法則を超越した霊体のようなものである以上、痛みはない。これまで何度も彼女が流してきた血も、今の体からは流れない。


 今の私は、本当に本当に、「人生の絶頂」デス。「今までの人生で一番の幸せ」デス。だって……。

 アンジュさんが、私を追いかけてここまで来てくれた。私を、好きと言ってくれた。

 私のことを、あんなに強く考えてくれる人が。私に対して、呪い以外の強い想いを向けてくれる人が、いた。

 そんなの、初めてだったから……本当に、本当に、嬉しくて。


 いつか、マウシィは言っていた。

 愛は、呪いに比べたらずっと曖昧で、薄っぺらなものだ。相手のことをなんとも思っていなかったとしても、愛情のようなものを向けることはできる。なんとも思っていない相手に、優しくすることはできる。

 だから彼女ははじめ、アンジュもそういう人間なのだと思っていた。

 彼女の「おせっかい」は、聖女のように優しい彼女が可哀想な自分に向けてくれる、ただの同情だと思っていた。


 でも、そうではないということは、すぐに分かった。

 あの人は、本当におせっかいで、意地っ張りで、プライドが高くて、不器用で……。

 だから、分かったんデス。分かってしまったんデス。

 あの人は、アンジュさんは、嘘がつけるような人じゃない。あの人はいつも、ただただ、眩しいくらいに純粋なだけなんだ、って。

 他人から愛をもらうことに臆病になって、呪いに逃げていた私には、眩しすぎるくらいに。あの人は純粋に、愛に溢れているだけなんだって。

 だから私は、あの人に憧れた。あの人の輝きに惹きつけられてしまって。

 それで……あの人を、あの人の愛を、拒絶した。


 私のそばにいる限り、あの人はどこまでも無茶をする。だから、私は彼女から離れなくちゃいけない。あの人に、これ以上私のために無茶をしてほしくない。私ののろいで、アンジュさんを縛りたくない。

 だから私は、アンジュさんの前から、消えなくてはいけないんデス。ここで死ぬのが、一番いいのデス。


 ぐふふ……。

 きっとアンジュさんなら、私なんかよりももっと相応しい人に、めぐり合えますよね? 私のことなんかすぐに忘れて、立ち直ってくれますよね?

 だから、これでよかったんデス。

 これが、私ののぞみなんデス。

 だって、だって……。

 

 人生の絶頂……アンジュさんが、私なんかのことを想ってくれたときに。

 最も惨めで最悪……そんなアンジュさんに、「自分の想い」を伝えられないまま、死ぬ。


 これで、私はようやく死ねる。アンジュさんの前から消えられる。

 アンジュさんが、私のために無理をしなくて済む。

 だからきっと……これが、一番いいのデスよね。



 マウシィの体は、今ではほとんど骨だけになっている。

 それが全て骨になったときに、今の彼女に残っていた「感情のようなもの」も、完全に消えるのだろう。マウシィ・オズボーンという少女の存在は、消滅するのだろう。

 それをすでに受け入れていた彼女は、恐怖を感じることはなかった。



 さようなら、アンジュさん。

 今まで、ありがとうございました。

 どうかあなたは、私のことなんか忘れて、あなたにふさわしい、素敵な人生を……。

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