第15話

 今日は昨日までの青空が嘘かのように分厚い雲が空を隠していた。そんな中、広輝は時間を確認すると美咲に、「先行くぞ」とだけメッセージを残し歩き始める。

 いつもなら広輝が学校へ向かうタイミングに合わせて家を出てくる美咲だったが、今日は数分待ってみても出てくる気配は皆無だった。

 心なしか美咲の家がいつもより静かで暗くなったような気がする。だが広輝はすでに遅刻寸前であり、久しぶりに一人で登校することにした。まだ右の拳が痛むが、力を入れなければ生活に支障はない。

 やがて学校に着き、教室に入るのとほぼ同時に頭上からチャイムの音が鳴り響いた。だがどうせ朝のホームルームが始まるまでは少し時間がある。広輝は特に急ぐこともなく、自分の席へ着こうとする。しかし、教室の雰囲気がいつもとは明らかに違った。普段なら広輝が遅刻寸前に登校しようが誰も興味を持たない。みんなそれぞれの談笑や課題やらに追われているはずだった。

 しかし今日は違う。全員が大胆にあるいは隠れるようにしつつも広輝の一挙手一投足に注意を向けているのが分かった。

 その違和感に広輝の足が止まる。

 すると今日は珍しく机に突っ伏していない陽菜が立ち上がった。そのまま入り口付近で立ち止まっていた広輝の下へやって来る。

「おはよう」

 陽菜は相変わらず陽気な声で言うが、普段よりも少し表情が固い。

「あぁ、おはよう」

 広輝は自分の置かれている状況が分からず、戸惑いながらも返事を返す。そんな様子の広輝を見て、陽菜が言った。

「あんた、ネットは見てないの?」

 突然放たれた言葉の意図を読み切れず、広輝はさらに困惑する。今やクラスメイト全員が陽菜と広輝を観察していて居心地が悪い。しかし、陽菜は特に気にする様子はなかった。

「何のことだ?」

 広輝が聞き返すと、陽菜が少し真剣な顔つきになる。

「あんた今大変なことになってるよ」

 そう言って陽菜はスカートのポケットからスマホを取り出すと、何やら操作をして広輝の眼前に画面を突き出した。

 陽菜のスマホ上で一本の動画が再生される。

 映っているのはあのスイミングスクール裏の空き地だった。少し離れたところからアップで撮影された映像のようである。それでも見る人が見れば、そこにいるのが広輝と桑原であることが分かった。さすがに会話の内容までは聞こえてこない。

 何やら喋っていた二人だったが、突如として広輝が頭を抱え耳を塞いだ。そこだけ見ると広輝が桑原に聞きたくないことを吹き込まれているようである。

 しかし次の瞬間。

 広輝は平衡感覚を失っているのか、一度地面に倒れると、すぐに立ち上がって桑原に向かって思いっきり殴り掛かった。一度目の拳が綺麗に桑原の顎へとヒットし、桑原がよろける。しかし広輝は構わずに腹やら顔面やらに右の拳を振り続けていた。やがて桑原の嗚咽と共に、「助けて」という叫び声が微かに聞こえてくる。

 その時、慌てた様子の美咲がカメラとは反対側の路地から走って来た。美咲は状況を瞬時に理解した様子で真っ直ぐ広輝の下へ駆けていき、倒れた桑原に馬乗りになっていた広輝に抱き着く。

「落ち着いて‼」

 美咲の叫び声が聞こえてくる。美咲は広輝と桑原の間に入るようにして、広輝の背に腕を回すと二人を徐々に引き剥がす。

 広輝は尚も桑原の事を殴ろうとしていたけれど、振り下ろした拳の先に美咲が入ったことにより手を降ろした。そして広輝は体の中の何かと闘うようにして、固まってしまう。

 そうやって美咲が広輝を宥めている内に、桑原は痛む個所を庇うようにしつつも、本能が逃げろと言ったかのようにその場を去っていった。

 桑原が去った後も、美咲は意識の奥底にいる広輝に大声で語り掛けている。

「あれは、お父さんじゃない。お父さんはもういないから。誰も広輝を傷つけたりしないから。広輝は悪くない。私は知ってるから。広輝が本当はとっても優しい人なんだってこと。広輝は悪くない。悪くないから…………」

 動画はそこで終了していた。

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