第10話

 そこで母親が急に立ち上がったことにより、広輝の意識も思考の世界から現実へと帰って来る。

「夕食?」

 広輝が聞くと母が答える。

「そうね、お腹が空いたかしら」

「冷蔵庫にカレーがあるから、今温めるよ」

「いいわ、自分でやる。その代わりに、お湯張ってちょうだい」

「分かった」

 そう言われて広輝はお風呂場へと向かった。お湯張りをする前に軽く浴槽を洗おうとすると、洗剤が切れていることに気が付く。

「母さん」

 広輝は少し大声を上げてキッチンにいる母親に洗剤の詰め替えがどこにあるのか尋ねた。すると、扉越しのくぐもった感じで、

「物置にあったはず」

 と返って来る。広輝は一度お風呂から出て玄関横にある物置を開いた。中は様々な種類の洗剤からティッシュ、使わなくなった家電やもう何年も出番のないクリスマスツリーなどでごった返している。

 そんな中を漁りながら目当てのものを探していると、広輝は雑多なものに埋もれるような形になっていた黒いファイルを見つけた。何だろうと思いつつ手を取ると、中には幾つもの水彩画紙が収められている。そこに描かれていたのはどれも悍ましく、到底理解の及ばないような絵ばかりだった。幼稚園児の落書きにも似ているが暗い色で統一されている所が不気味さを醸し出していて、世の理不尽を知らぬ幼稚園児には決して描けない絵である。

 広輝は吐き気を催すような不快感を抱えつつ、ファイルに収められている絵を確認して行った。父親が描いたであろうそれらの絵は、父がコンクールで受賞できなかった理由をありありと語っている。

 父が広輝を責めるようになったのは、画家を目指していて何度もコンクールに応募していたが全く成果が無かったことが原因の一つだった。

 しかしこの絵を見ていると、むしろどうしてこれで結果を残せると思ったのか不思議で仕方がない。

 そんな事を思いつつファイルを捲っていると最後のページにやって来た。そこには当たり前だが一枚の水彩画紙が収められている。裏向きに入っているようで、見えている部分は白紙だった。しかし一度くしゃくしゃに丸められたようで、あちこちに皺が出来ている。

 何だろうと思いつつ、広輝がそれを引き抜く。

 すると、そこに描かれていたのは一頭の雄のライオンが草原で昼寝をしている様だった。

 今までの絵とはまるで雰囲気の違う、どこか懐かしさを醸し出している絵。

 その柔らかいタッチと繊細な色使い。まるで草原を吹き抜ける風の音が聞こえてくるかのような絵は、一瞬にして広輝をその世界観に引き込んだ。

 広輝は目の前に本物のライオンがいて、寝息を立てているような心地になる。もし起きたらどうしようという恐怖と緊迫感で背筋に嫌な汗をかく。その一方でライオンは安らかに眠っており、その穏やかな表情に引き込まれるような感覚。

 良い絵だと思った。それはまさに自分の理想を形にしたような絵である。その絵を見て広輝は思い出した。広輝がまだ幼い頃、父の画風はこのライオンの絵のようだった。柔らかいタッチで優しい世界のほんの一部をさりげなく切り取ったような絵。眺めているだけで心が穏やかになるような絵。その多くは動物をメインに置いていた。

 しかし………広輝は手の中にあるライオンの絵を見る。この紙がくしゃくしゃにされていたという事は、父はこの絵を駄作だと判断したことを示す。きっと捨てようとゴミ箱に入れらたものを母が勝手に回収でもしたのだろう。父は本当に絵を見る目が無いなと思った。

 そこでキッチンの方から母の声が飛んでくる。

「あった~?」

 広輝はライオンの絵をそのまま抜き取り慌ててファイルを元の場所に置いて、洗剤を探す。目当ての物はすぐに見つかって、

「あった」

 と言葉を返した。

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