第9話

 母が少し残念そうな声でそう呟いた。広輝はすこしだけ、胸がきゅっと絞られたような感覚がする。

 そして父親の事を思い出してみた。と言っても、記憶に残っていることは僅かしかない。それらの記憶があまりにも鮮烈すぎて他の記憶を覆い隠してしまっているのである。

 そんな記憶の中の一つ。父はお酒を飲むと、毎回のように広輝を責めた。文言は時と場合によって変わったが、「お前の事見ると、ムカつくんだよ」だったり「お前なんか何の価値もないクズだ」だったり、それから「お前は神様が作った駄作だ」だったりと大体は広輝の存在価値を否定するような言葉である。

 無神論者だったはずなのに、広輝を責める時だけは神様なんて言ってみたりしていた。

 広輝はそれらの台詞を割と冷めた感じで、何を言っているんだこの親父はくらいに考えていたはずである。しかし父が広輝を責める度、母が申し訳なさと悲しさを滲ませたような表情で苦しんでいるのを見て父にひどい怒りを覚えたことを覚えている。

 そんな罵倒は時と共に過激になっていった。最後の方には、暴力も振るわれるようになった。テーブル越しに酒瓶が広輝の頭に叩きつけられた時の父親の顔は今でも覚えている。その顔は憤怒と絶望と悲哀の入り混じったような歪んだ顔だった。そしてその夜、母が一人泣いていたことも同時に思い出す。

 幸いにも広輝は大きなけがをしなかったが、暴力が激しさを増したことも父と母の離婚理由の一つである。もう一つあるという話は聞いたことがあるが、それが何かまでは知らなかった。

 そこで母親が急に立ち上がったことにより、広輝の意識も思考の世界から現実へと帰って来る。

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