知らない何かを知るためだったはずの島

譜久村 火山

第1話

 午前中とはいえ七月のグラウンドは地獄のような暑さだった。広輝の額からも大量の汗が流れ落ちる。

 しかしそんなことは、広輝の意識には入っていない。溢れ出る汗も、上がっている息も気にせず、広輝はただひたすらに走っていた。着ている青色のビブスが後ろにはためている。

 突進してくる広輝に赤いビブスを着たディフェンダーは慌てていた。そのせいかトラップが乱れ、ボールが彼の足元から離れる。

 チャンスと見た広輝はさらに速度を上げた。口の中に僅かな血の香りがするけれど、それすらもチームのためと思えば不快感は無い。

 やがて相手ディフェンダーが慌ててボールを蹴り出そうとする。そこに広輝は必死に足を延ばした。

 蹴り出されたボールは広輝の足をかすめて、後方へと飛んでいく。明らかに威力の無いボールはひょろひょろと味方センターバックの足元へと収まった。

 それを見た瞬間、広輝はまた瞬時に体の向きを反転させると相手ディフェンダーから距離を取る。そして空いたスペースを手で示し、二年上の先輩に対して大声を出した。

「ヘイッ。パス寄こせ!」

 味方センターバックである先輩と目が合った。先輩の足はすでに広輝の方へパスを出そうと振り上げられている。

 しかし目が合った瞬間、先輩の動きが鈍った。明らかに広輝へパスを出すことをためらっていた。

「チッ、クソが」

 広輝は小声で呟くと、胸にちょっとした寂しさが通り過ぎたことに見て見ぬふりをする。そこで先輩はようやく足をおろし、味方ディフェンダーへのパスへ切り替えたようだった。しかしそれでは当然遅すぎる。

 赤いビブスを着た広輝の幼馴染である朱鷺が先輩からボールをかっさらうと、その勢いのままシュートを放つ。ボールは威力に乏しかったもののゴール左上の良いコースに収まり、見事赤チームの初得点となった。

 そこでマネージャーによる試合終了の笛が鳴らされる。

 結果はトップチームである広輝達の大差での勝利となり、広輝自身もハットトリックの活躍ではあったが、煮え切らない思いが胸の中に渦巻いていた。

 コートを出てベンチに戻ると、すぐにマネージャーの一人であるこれまた幼馴染の美咲が水の入ったスクイズボトルを持って駆け寄って来る。

「お疲れ様。やっぱりさすがだね、こうき。なんだか私まで鼻が高くなってくるよ」

 美咲は帽子、首に巻いている冷やしたタオル、ポケットに無造作に突っ込まれたハンディファンと暑さ対策は万全のようだ。それでもさっきまで必死に部員のボトルに氷を分けていたようで、額には汗を浮かべている。

 少し顔を傾けて笑う美咲にあわせて、後ろのポニーテールが揺れていた。その下のうなじに浮かぶ三つのホクロが特徴的である。

 だが広輝はそんな美咲に鋭い一瞥をくれると、無言でボトルを受け取りその横を通り過ぎていく。美咲にはいつもつき纏われてうんざりしていたし、今は関係のない奴と喋る気なんてなかったのだ。

 美咲も広輝に冷たくされることには慣れているのか、気にした様子もなくまた別の選手にボトルを渡しに行く。

 そんな様子を後ろから朱鷺が歯を食いしばりながら、憎しみなのか怒りなか、とにかく負の感情を滾らせて睨みつけていた。

 やがて水分補給を終え、再びピッチに戻ると各チームでの話し合いが始まる。広輝はまだ全員が集まりもしない中、坊主頭の味方センターバックにつっかかった。

「なんでパス出さなかったんだよ」

 しかし坊主頭の先輩は広輝の話などまるで聞こえていないかのように別の方向を見ている。

「おい聞いてんのか」

 と広輝がもう一度問いかけると、先輩の目がやっと広輝を捉えた。険悪な空気感がこれでもかという程あたりに漂い始める。しかし喧嘩を止めようとする者はいなかった。ここはトップチームであり、一年生は広輝だけ、後はほとんどが三年生である。なぜかみんな坊主頭の先輩に同情的な視線を送っていた。唯一間に入ってくれそうなキャプテンも顧問の先生と話し込んでいる。

「お前、ムカつくんだよ」

 やがて坊主頭の先輩が低く冷たい一言を放った。

「サッカーは上手いのかもしんないけど、人として終わってる」

 そう言って先輩は広輝に背を向けると、歩き去ろうとする。広輝はその肩を掴んだ。

「だからって俺にパスを出さない理由にならないだろ。あそこでパスを受ければ、俺なら一点決めれた。なのにあんたがそうしなかったせいで、こっちが一点決められたじゃねぇか」

 広輝がそう言うと、先輩は振り返り、呆れたように広輝の手を振り払う。めんどくさいという雰囲気を隠そうともせず、先輩は一つ溜息を吐いた。

「パスが欲しかったら、パスを出したくなるような人になれよ。お前ははっきり言って、人間としてこれ以上もない駄作だ」

「なにっ」

 広輝は威勢よく怒りを露わにした。また胸の中に寂しさが居座ろうとしている。広輝はそれを必死に追い出した。

 しかし次の瞬間、体から平衡感覚が消失したかのように頭がグァングァンと揺れる。ひどい吐き気がして、自分がどこにいるのか分からなくなった。視界がぼやけて、ゆっくりと暗くなっていく。そんな中、坊主頭の先輩の見下すような目が黒い光を放つ。その引き込まれるかのような黒い光を眺めていると、そこにあったはずの先輩の顔はいつしか別の人物の顔に変わっていた。

 父親の顔である。

 途端に全身を虫が這っているかのような嫌悪感が現れ、歯がカタカタと震え出す。ひどい怒りに呼応するかのように、胃がキューッと絞られ、腹の底に黒いエネルギーが蓄積されていくのを感じた。

 そのまま視界はどんどん暗くなっていき、やがて広輝は意識の奥底で眠りにつく。最後、完全に閉ざされた暗闇の中、頭の奥に反響するように父の声が聞こえた。粘っこい、卑屈な声である。

「お前なんか神様が作った駄作だ」

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