春時雨
@ktsm
第1話
ふと、紅梅の匂いがした。
午後七時六分。
店の軒先。突然の雨に駆け込んだ矢先のことである。
遠く国道の方を走るサイレンの音を聞きながら、篠崎朔(シノザキ ハジメ)は、視線を前方に伸ばして目を見開いた。
錆びたシャッターが並ぶ商店街の道を男が一人と傘もささずに歩いていく。
砂色の髪をした温順しそうな青年だ。
その横顔に面影が重なる。
「宮⋯⋯ ?」
信じられず、呼びかけた。
大学三年の立春。
同級生の宮紘霧(ミヤ ヒロム)は雨の日を境に消えた。
その彼が視線の先にいる。
篠崎の呼びかけは掠れ、決して大きなものではなかったが、雨にもかき消されず、相手に届いたらしい。
ふ、と夢から覚めたように青年がこちらを振り向いた。
色素の薄い瞳が篠崎の顔で焦点を結び、あちらも驚いたように瞬いた。
「⋯⋯ 篠崎?」
確かめるように名を呼ばれ、篠崎は屋根の下へ手招いた。
「ちょ、おま、こっち来いって!」
パタパタと駆け込んできた宮は手ぶらだ。どころか、外套も着ておらず素足に引っ掛けたクロックスが寒々しい。まだ立春を過ぎたばかりだというのに何事か。
篠崎はカバンからタオルハンカチを投げる。
「ひとまずこれ使え」
言いながらコートを脱いで宮の肩に掛けた。
「あ、ありがと」
「いいけど。なに、おまえ近所なの家」
「ん? うーん、どうかなぁ」
「どうかなってなんだよ。ほら、腕通せ」
「うん」
宮は温順しくされるがままだったが、動きは緩慢だった。
篠崎は眉を顰めて宮の旋毛を見下ろし、コートを着せてやった。
ボタンもきっちり閉め、ついでにマフラーも自分の首から外して巻いてやる。
「篠崎が寒いよ」
巻いた端から解いて返そうとする手を止めて、眉間の皺が深くなったのを自覚した。
宮の細い指は硬く骨の感触がして、ひどく冷たかった。
「いいよ、俺は鍛えてるし」
「まだバレー続けてる?」
訊かれてワンテンポ返答が遅れる。
「もうすぐ引退」
つっかえたワードを押し出したら、宮は色素の薄い目を丸くした。
「もう?」
それがあんまり無垢なもんだから、肩から力が抜けた。笑う。
「大学卒業して何年経つと思ってんだよ。俺もお前も三十六だぞ。めちゃくちゃ頑張った方だろうが」
平均年齢二十代の選手の中で大きな怪我もなくずっと試合に出られたのは、間違いなく幸せだった。
それでも、篠崎は思うのだ。
「お前は?」
大学三年の黒鷲旗(プロが参加するバレーボールの大会)、篠崎は初めて宮を観戦に誘った。
選手として出ることになっていたからだ。
ーーバレーって楽しい?
宮が興味を持ってくれたことが嬉しくてチケットを押し付けた。
それきりだ。
「なに、してたの。今まで」
ーー行く。
そう言ったくせに。
誰にも何も告げず大学を去って、住居も引き払って、メールすら届かなくなった。
「どこ、いたんだよ」
雨の音が戻ってくる。
あの日と同じ、濃い梅の花の香りを連れて。
「篠崎、俺ね」
ひやり、と指先が頬に触れて、過去に飛んでいた思考が現実に帰った。
「深くて近いとこにいたよ」
宮が微笑う。
「バレー見たかった」
雨に溶けるような声で紡いだ。
下げられた眦が本当に悔しそうで、篠崎は薄く唇を開けたまま何も言えなくなってしまった。
ざぁざぁと屋根を叩く雨だけがどこまでも遠く世界を分けている。
やがて。
雨が和らぎ出した頃。
篠崎は宮の手を握り頬から離した。
「来いよ」
「ん?」
「引退試合。今度こそ来いよ。チケット用意するから」
そうしたら全部、全部流してやるから。
脅すように手を掴んだまま見下ろす。
それでも、宮は微笑ったままだった。
「雨だったらね」
そのうえ、軽やかにそんなことを言うのだ。
「なんだよ、それ」
「祈ってて。試合中ずっと雨だったらたぶん行けるから」
「しかも、たぶんなのかよ」
お前、ほんとに。
そう、言いかけて、ふと口を噤む。
唐突に雨音が遠ざかる。
鏡面のようなアスファルトに立つ水冠が三つ二つと減っていく。
「そろそろ止むな」
宮を家まで送っていくつもりで声に出す。
けれど。
「宮?」
宮の手を握っていたはずの篠崎の左手はコートの袖を掴んでいた。中身はなく、コートの襟にマフラーだけが引っかかっている。
「は?」
宮は、どこにもいなかった。
雨に溶けてしまったみたいに。
どこにも、いなかった。
その日、篠崎はネットニュースで国道沿いの古い一軒家で火災が起きたことを知った。
いつもなら見出しだけ見て流す記事を最後まで読んだのは、場所が篠崎の母校の大学から車で十五分ほどの距離にあるところだったからだ。
映像を見た時、なぜか喉が渇くような不安を覚えた。
そして──。
翌日、焼け崩れた家屋の床下から白骨化した成人男性の遺体が発見されたと報道された。
まだ、遺体の身元は判明していない。
宮紘霧は変わらず行方知れずのままだ。
けれど、篠崎は諦観とともに不思議な確信を覚えいた。
なにせ、あれ以来、雨が降るとどこからともなく燃えるような紅い梅の香りがするのだ。
静かに小さく「来たよ」と微笑いかけるように。
ただの思い込みかもしれないけれど。
でも。
その度に、篠崎は「顔くらい見せろ」と悪態をつきながら、次の雨を祈らずにはいられないのだ。
了
春時雨 @ktsm
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