第10話 林美香

美香は覚悟を決めて、最上階のスイートルームをノックした。

「入れ」

「あの……お酒をもってきました……」

ラウンジから集めた高級酒をワゴンに乗せて、部屋に入る。太郎は美人警官がやってきたので、鼻の下を伸ばした。

「ほう……これはこれは美人だな」

「そ、そうですか。ありがとうございます」

美香は顔を引きつらせながら、ワインのボトルを開けて太郎に注ぐ。グラスを傾けてグイっと飲み干した太郎は、しみじみと告げた。

「あんたも大変だな。仕事とはいえこんなことに巻き込まれて」

「えっ?」

太郎にいたわられて、美香は意外な思いをした。

「美人のねーちゃんをよこせって言ったのは、ちょっと悪ノリしただけだ。あんたはもう帰っていいよ」

そういって一人でワインを飲む。帰っていいといわれて、逆に美香の婦人警官としての使命感が燃え上がった。

「このまま帰るわけにはいきません。お付き合いします」

そういって太郎の隣にすると、ワインを注ぐ。こうして美香による奇妙な事情聴取が始まった。

「ええと……まず最初に聞きたいんですが、どうしてこんなことをしているんですか」

その問いかけに太郎は頷くと、自分の心情を語り始めた。

「偽結婚式ではめられた復讐が半分、これから好きに生きていくことが半分だな」

その答えは、美香を困惑させた。

「好きに生きるとは?」

「日本の金にも権力にもルールにも縛られず、自由に生きていくってことさ」

太郎はぐいっとグラスを傾けると、ぷはぁと酒臭い息を吐いた。

「どのみち、今の日本じゃ復讐は認められていない。それでも続けていけば俺は犯罪者として社会から追われることになるだろう?なら、最初から開き直ったほうが楽だ」

その言葉に、美香は反論した。

「それは間違っています。日本は法治国家です。あなたの同級生たちが悪いことをしたのだったら、ちゃんと法律で裁かれて……」

「俺もそうおもっていた。だが、無力な庶民の俺に味方してくれる者はいなかった。警察も弁護士も法務大臣の権力を恐れて、俺を相手にしなかった」

そう呟く太郎からは、寂寥感が伝わってきた。

「もっとも、相手にされなかったのは今回が初めてじゃない。学生時代にも、俺は同級生からいじめられていた。それを教師に訴えても、大多数を占める同級生の言葉が信用されて、俺は無視された」

それを聞いて、美香もなんて言ったらいいかわからなくなった。

「別に同級生たちが『悪』なわけじゃない。単に俺が弱かったせいだ」

太郎は自嘲気味に、グラスを傾ける。

「俺は異世界に召喚され、勇者として魔族と戦った。そこでは、多くの魔族が人間を襲っていたし、逆に人間が捕らえた魔族の子どもを虐待しているところを見た。復讐が復讐を呼び、その終わらない連鎖の中で、何が正義か悪かもわからなくなった。その果てに、真実を悟ったんだよ」

「……真実とは……何ですか?」

そう聞き返す美香の言葉は、かすかに震えている。

「所詮、世の中は弱肉強食だってことさ。人は多数派を善と尊んでもてはやし、少数派を悪と蔑んで迫害する。しかし、本来その両者に優劣なんてない」

そう呟く太郎の顔には、ニヒルな笑みが浮かんでいた。

「わかるか?つまり世の中に正義も悪もないんだ。あるのは敵と味方、それだけさ」

太郎の顔は、赤く染まっている。それはワインによるものか、それとも怒りによるものかはわからなかった。

「たった一人で社会を敵に回す俺は、当然に圧倒的少数派である『悪』だ。だが、権力に屈しない力を得た。だから俺は誰にも縛られない。金にも法律にもルールにも従わず、やりたいことをやり、邪魔するものは叩き潰してやる」

「そんな……それじゃ、あまりにも可哀そうです」

美香の言葉には、確かに太郎に対する憐憫が含まれていた。

「可哀そう?」

「だって……すべてを敵に回すとなると、友達も愛する人もできないじゃないですか」

「確かにな」

苦笑して、美香の言っていることを認める。

「今からでも遅くありません。ちゃんと自首して社会の一員に戻るのは……」

「もう遅い。力を封じて社会に媚びて生きる不自由な生き方はごめんだ」

太郎はきっぱりと拒否する。

「社会に媚びるって……」

「社会に参加してその一員になるということは、与えられた権力を振るう上司に従わなければならないってことさ。それは会社員でもヤクザでも、警察官でも変わらない。それを認めてしまえば、理不尽な命令にも従わなければならなくなる。あんたみたいにな」

そう言われて、圭司や警視総監の命令でテロリストである太郎の相手をすることになった美香は沈黙する。

「俺は完全に自由だ。俺を縛るルールも命令する者もいない。そこが上司の命令に逆らえないあんたたちと違うところなんだよ」

それを聞いた美香は、思わず漏らしてしまった。

「うらやましいな……」

そういうと、美香はやけになったように高価なシャンパンをぐいっと煽った。

「美味しい……さすが高級ホテルのシャンパンですね。これって何十万もするみたいですよ」

「おう。どんどん飲め。どうせ請求なんてくるわけないしな」

そう言われて、美香も吹っ切れた。

「こうなったらとことん飲みましょう」

「いいぜ。付き合ってもらおうじゃないか」

こうして、奇妙なコンパは続いていくのだった。

「え?あんたは橘の婚約者なのか?」

美香の事情を聴いた太郎は、今度は逆に彼女を憐れみの目でみつめる。

「気の毒にな。あんな奴と結婚しても幸せにならないだろうに」

「そんなことはありません。彼は実家が裕福で高級警察官僚のエリートです。きっと私を幸せにしてくれるはずです……って、ついさっきまでは思っていたんですけどね。でも幻滅しました。自分は安全な場所にいて、婚約者をテロリストに差し出すなんて」

美香の顔も怒りで真っ赤になっている。

「所詮、あいつはそんな奴さ。学生時代にも学級委員の地位を利用して俺のテストを改ざんしてわざと赤点をとらせたり、提出物を隠したりして俺を陥れていた」

それを聞いて、美香はさらに幻滅する。

「ひどい……圭司さんってそんなことをしたんですか?」

「ああ。まったくいけ好かない奴さ。自分より下の者を自分の手を汚さず隠れて陥れ、生贄にする。俺というスケープゴートを差し出すことで、自分がいじめられるのを防いでいたんだろうな」

そこまで聞いて、ついに美香は決心する。

「決めました。彼とは婚約破棄します」

「おう。それがいいさ!」

太郎と美香はグラスを触れ合わせる。

「あんたとは気が合いそうだ。ライン交換しないか?」

「いいですよ」

こうして、太郎と美香はライン友になるのだった。

そして一時間後

「ぐごー。ぐごー。」

太郎はいびきをかきながら、酔いつぶれていた。美香はそっと立ち上がると、ポケットから手錠をとりだす。

(今なら逮捕できるかも……)

そうおもって太郎の様子をうかがうが、彼は起きる様子がない。その無防備な姿をみて、気勢がそがれてしまった。

(やめた。役目は果たしたんだし、これ以上のことをする義理はないわ。あとは圭司さんに任せましょう)

そういうと、美香はそっとブランケットを太郎にかけて、部屋を後にするのだった。


「よくやったぞ美香」

戻ってきた美香を圭司は褒める。スイートルームの監視カメラを見ると、太郎はだらしなく泥酔していた。

「……どうも」

美香はふてくされた顔をしていて、褒められても嬉しそうではない。そんな彼女に、圭司はさらに告げた。

「ふふ。あの陰キャで非モテの童貞野郎には、お前の色仕掛けはよく効いただろうな」

「色仕掛けなんてしていません」

美香は膨れた顔で言い返すが、圭司は取り合わなかった。

「はいはい。そういうことにしておくさ。でも、どうせならなんで捕まえなかったんだ」

「もしかして寝たふりしているのかもしれないし、そうだったら何されるかわからないでしょ」

そう反論されて、圭司は鼻白む。

「そ、そうか。美香は賢いな」

「とにかく。私は役目は果たしましたよ。あとは貴方の仕事です」

ふいっと顔を背けて、去っていく。それを聞いていた警察たちは、不安そうな顔になった。

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