極楽湯

@momochi1029

極楽湯


 ここは一体どこなんだ?

 あたりを見回しても、真っ暗闇で何も見えない。


「おーい! 誰かいないのか! ここから助けてくれ!!」


 あの時、を破らなければ.....。

 

 長針の音だけが静かなオフィスに響く。

 24時04分となっていた。またもや終電を逃してしまった。

 自分のデスクのみがライトスポットを当てられたステージのように、照明が当てられている。とはいえ、ただネクタイが曲がり、皺ついたシャツを着た疲れ切ったサラリーマンを観にくる観客はいない。他の社員は皆とうに帰宅してしまい、昼は絶え間なく鳴り響いていた電話の鳴る音や毎日内容のない会議室での談話、とは裏腹にオフィスは暗く寝静まった孤独な空間となっている。


 デスクに山積みされた資料を見て、私はため息を漏らす。これらを明日にはまとめてプレゼンできるようにしなくてはならない。

 絶望的な気分だった。

 こんな大量な仕事を押し付けた上司に殺意が沸いてくる。今ここにナイフがあれば、殺意を抑える自信がない。

 と、右腕を抑えながらパソコン画面に映る自分を見て、笑みを浮かべる。


「..............フッ」


 もはや疲れすぎて思考は厨二病を患い始めている。

 

「ああ......死にたい。いっそう、死んで異世界転生でもしたい」


 こんなパソコンと睨めっこの毎日なんかより、ラノベに登場するような剣と魔法の世界に行きたい。そして、清く美しくてツンデレなエルフや美少女且つ巨乳な魔法使いと共にイチャイチャしながら冒険したい。

 

「あのハゲ上司め。......ぶっ殺してやる」


 殺意とも呼べる上司への憎しみが、皮肉なことに現実逃避する思考を仕事へと意識を押し戻す。私は気を取り直して、再びキーボードに手を置いた。

 そして、資料をまとめながら上司とのやりとりを思い出す。


 パソコン画面右下の時計に目をやる。

 17時58分。

 今日は残業もなく就業時間ぴったりに帰れそうだ。久しぶりに溜まったアニメを一気見でもするかな、と心の中でスキップでもして帰る準備をしている時だった。

 陰毛のように縮れ薄くなった頭部をさすりながら上司は、私のデスクに大量の資料をドンッ、と置いた。そして、歪な笑みを浮かべて私に言い放つ。


「これ、明日の朝までにパワポにまとめておいてよ」

「はい? これを今からですか⁉︎」

「何、上司に口答えでもする気? とても社会人としての態度じゃないね。新人研修からやり直す?」

「い、いえ。すみませんでした。......明日までには終わらせます」

にだよ。まったくこのポンコツがッ! ま、じゃあ私は先に帰るから、頼むね」

「......お疲れ様です」

 

 ハゲ上司は私にこの山積した資料を押し付けたまま、自分はそそくさと帰っていった。他の社員も私に同情した視線を向けながらも、『お先、失礼します』の一言もなく帰っていく。気づけば私一人が、オフィスに残っている状態だった。

 ハゲ上司は自分の気に入る、気に入らないで態度を変えるタイプだ。何を基準に決めるのかわからないが、入社して以来ずっと嫌われている。

 見た目からして最初からあまり良い印象がなかった為か、別にあの男に好き、嫌われるはどうでもよかった。    

 ただ、タイミングを見計らったかのように仕事を押し付けられ、終電直近まで仕事をさせられることがある。

 だから転職も考えてはいるが、日々迫る仕事の納期に心身ともに疲弊し、休日は死んだように寝ることしかできない。その為、なかなか行動に移すことができないまま時を過ごすばかりだった。


「......ようやく終わったッあああーーー‼︎‼︎」


 私は席を立ち、両手を広げてバンザイした。

 どうせ誰もいないんだ、これくらいふざけてもいいだろう。

 山積みした資料は、今は平坦なものとなっている。意外と早くまとめ上げることができた。とは言っても、これはのようなもので、あの上司が持ってくる資料の大半がどうでもいい情報ばかりだった。その仕分けさえしてしまえば、後はそれを簡単にまとめればいいだけ。


 全ての資料をまとめ上げた私は、もう時計を見ることもしないで会社を出た。終電は過ぎたので、タクシーを使って最寄駅近くまで送ってもらう。それから、アパート近くのコンビニで買い物をしてから202号室、私の家に帰った。

 私は鍵を開けてそのまま、スーツも脱がないで雪崩のようにベットに倒れ込んだ。

 体が鉛のように重かった。頭も、手も、胴体、脚も全てが動かせない。

 特に一日中パソコン画面の前に座り続けたため、眼球は凝り固まりキュッキュと変な音が鳴り、骨盤周りはギシギシと骨が軋んだ音を立てていた。

 

「......つっかれたあああーーッ」


 溜まりに溜まった一言だった。

 枕元に顔をつけたまま、私はネガティブな感情を一つにまとめ放出する。

 それから、仰向けとなり白く眩しく光る蛍光灯に手をかざして目を細める。

 まるで死を悟った兵士が流れ出る血を抑えながら死を悟り、神へ祈りを捧げるかのように、ふざけて自分も同じように演じてみる。心境は同じようなものだからだ。


 と、まあこんなことをしても何も起こらなかった。

 神様が降りてきて、暖かな陽光のような光を照らしながら、異世界に転生させてくれるような奇跡は、当然起こらない。

 腕もプルプルと震えてきたので、潔くおろした。


「ああ......なんか癒されたい」


 こんな時、可愛い美しくて優しい彼女がいればなあ、と思った。

 そして、彼女の谷間に顔を埋めながら、頭を撫でらて『いい子、いい子』と慰められたい。


「............」


 まあ、私に彼女なんていたことないんだけどね。

 目尻から涙がこぼれ落ちる。


 私がセンチメンタルな気分になってしまったのも理由がある。

 帰り道に寄ったコンビニでは、2月も近づいてきた為、お菓子売り場はバレンタイン向けに改装されていた。そこでチョコを買おうと寄ったのだが、バレンタイン向けにピンクのパッケージに包まれたチョコを、男が独りで買うのはなんだか恥ずかしい気持ちになる。深夜だから気にする必要がないと分かっているが、眠そうな顔をした大学生の店員を前だとしても、『あの男、モテないんだな。自分でチョコ買ってるよ、ダッサ笑』とでも思われてそうで嫌だった。

 バレンタインデーとはチョコメーカーがチョコを多くの人に買ってもらう為の販売戦略だと聞くが、それは愚策に等しい、と私は思う。

 全国のチョコ好き男子がチョコを買いにくいようにするなんて。......少なくとも、私はそれが理由でチョコを買わなかった。

 諦めた私はポテトチップスをレジに置いた。

 

「......温泉にでも行こうかな」

 

 口からぽろっと溢れるように言った。

 今からか、と思ったが、本能が告げているかのように身体が癒しを、温泉を求めている。幸いなことに明日は休み。極度の疲労と相まって私は不思議と昂揚感が沸いてきた。

 なんかやってからクソみたいな一日を良い一日に変えたい。何か面白いこと、ふざけたことをしてやらないとなんか満足できない。そんな気持ちになる。

 いわゆる、深夜テンションというやつだ。


 さっそくポッケからスマートフォンを取り出し、『温泉 近く』と検索してみる。帰宅して既に深夜を過ぎているので、現実的に営業しているところがあるのか不安だったが、1件だけヒットした。


「......極楽湯か」


 既に心も身体も瓦解しかけている私にとってピッタリな場所だなと、鼻で笑ってしう。マップを見ると家から徒歩で行ける距離にあるみたいだ。ナビが示す場所以外は情報は載っていない。いくらスクロールしても『極楽湯』と書かれたホームページは見つからなかった。ただマップに、『営業中』と住所が書かれているだけだ。


 なんだか本当に営業しているのか怪しい。

 とはいえ、徒歩で行ける距離でもある。営業していなかったら、すぐに引き返せる。それよりも、この深夜テンションを落としたくない。


 私は最後の力を振り絞るようにベッドから起き上がる。そして、そのままスーツを着たままの状態でスマフォと財布をポッケに入れて、私が住む202号室の鍵を閉めた。


 アパートから少し離れたところにある古びたスナックや文房具屋などの店と立ち並んでその温泉施設はあった。

 ホームページがなかった時と同じようにいくら見渡しても看板たるものは見つけられなかった。ナビが示した場所は確かにこの場所を示している。コンクリート材で豆腐のように四角い形の建物。温泉施設の割には風情の欠片もない外見だった。

 本当に此処だろうかと不安が高まる。

 そもそも私はここら商店街付近をあまり寄ったことがない。近くの大きなデパートがあるため、日用品は大体そこで済ませてしまうし、食料は最寄駅付近にあるスーパーを使う。つまり、近くに住んでいる割には知らない土地なのだ。

 私はもう一度スマフォを開きマップを眺める。ナビが示した場所は確かにこの場所を示している。

 

 さらに、奇妙なことが一つある。

 その温泉がある建物の隣には小さな朱い鳥居と境内社が設けられていた。街並みにそぐわないその社は、深夜の暗闇と相まって不気味な雰囲気を醸し出す。特に狛犬ならぬ狐の二体の石像は私のことをかのようだった。

 背筋が凍り、気味が悪くなった私は、そそくさとその神社を通り抜けて温泉がある白い建物の中へと入る。引き戸手前に小さく『極楽湯』と木簡で書かれた立札が掛けてあるのを見つける。


 中に入ると、檜の香りがふんわりと漂ってきた。

 私はホッと胸を撫で下ろす。わざわざ夜中に歩いてきた甲斐がある。

 玄関を入った先には簡単な帳場があり、その左手には囲炉裏が設けられた木造の和式構造となっていた。端には淡い橙色を煌めかす和紙に包まれた灯籠が置かれ、薄汚れたコンクリート建築の外見とは裏腹に、古風で趣きある空間となっている。

特に囲炉裏は、木炭を燃やした火鉢がバチバチと心地いい音を弾ませている。空調機では決して感じることができない暖かみが身体はともかく心さえ優しく包み込んでくれた。


 ......いや、ちょっと待て。どうしてこんな場所に囲炉裏なんてあるのだろうか? 

 私が住むアパート付近はお世辞にも目立った所はない。この錆びた商店街と小さな公園、業務スーパーにコンビニ二軒と云ったって普通な住宅街だ。囲炉裏のある温泉が出来たら、ニュースにでもSNSにでも取り上げられていてもおかしくないはずだ。とにかく知らないはずがない。

 とはいえ、ニュースは普段あまり見ないし、SNSは推し絵師の投稿しか見ない。仕事漬けの日々を過ごしている私だけが知らないだけかもしれない。    

 ああ! わかったぞ。

 隠れ家的なコンセプトを持った店なのかもしれない。隠れバーや隠れカフェなど、そう言った店が流行っていると聞いたことがある。

 ここもそういう店なら、なんだか、なんて浪漫溢れる感じがしてワクワクしてくる。

 ただ、辺りを見渡しても客はおろか店員すら見当たらないのだが......。


「あのーすみません」

「--------」

「すみません! 誰かいませんか?」


 返事はない。

 囲炉裏からのバチバチと弾んだ音だけが聞こえるだけ。

 まさか、ここまで来て誰もいないなんてオチじゃないよな.....とがっかりしかけた時だった。


「ふむ、人間の客なんていつぶりじゃ」

 

 耳元から脳髄を溶かされるような声で囁かれる。

 不思議と驚きや恐怖といった感情はなかった。そのまま自然に後ろを振り向くと、巫女のような格好をした女がいた。


(いつの間に現れたんだ?)


 まるで洞窟の中で水滴が落ちたような一瞬さだ。私は先ほどまで帳場の方を見ていた。引き戸を開いてからまだ一、二歩程度しか歩いていない。それなのにこの巫女のような格好をした女性は私の現れた。


(......どういうこと?)


 私が来た方向以外には入り口は見当たらない。足音はおろか、引き戸を開く音さえ聞こえなかった。

 それとも、働き過ぎで私の感覚自体が鈍っているのかもしれない。

 ここ最近はまともに眠れていない。終電で帰り始発で会社に行く毎日を過ごしている。目元にはクマが当たり前のようにできてきて、最近は鏡を見るのが嫌になっているほどだ。


「おーい。どうしたんじゃ? 何をぶつぶつ考えておる」

「.......ん? ああ、すみません。良い雰囲気のお店でついぼうっとしてしまいました」

「ふふ。それにしても童よ。酷い顔じゃな、渋柿みたいに顔になっておるぞ」

「ああ.....まあ、最近は仕事で忙しくて......」

「そうなのか。目元にクマまで出ておるし、疲れそのものが顔から滲み出ておる」

「はは。なんか見苦し顔で来てしまって申し訳ないです」

「気にするでない。頑張ってきたのであろう」

「......はい。まあ.......」

「ふふ。それでそちの仕事は楽しいのか?」

「楽しいというか.....ただ、やらなきゃって感じでやっているだけですね」

「.....ふむ、まあよい。さあ、こちらに上がって暖まるがよい」

「はい、ありがとうございます」


 厚みのある丸い座布団の上に座り、ゆらゆらと揺らぐ炎に手をかざす。バチバチと焚き木の心地の良い音とともに優しい暖かみが全身を包む。

 ここに来て良かったと思った。


 私が囲炉裏の前で手をかざして、ぼうっとしていると巫女のような格好をした女もいつの間にか隣に座っていた。

 この巫女のような店員も囲炉裏に手をかざして暖を取っていた。ゆらめく炎に反射される彼女の細く朱い瞳は本当に神に仕える巫女のように思えた。

 見た目は20代前半かもう少し下くらいに見えるが、古風な話し方や服装もあって私より年上というか、おばあちゃん.....いや、今この瞬間は、なんだかではないような気さえする。樹齢数百年も経った大木を目の前にしているような気分だ。

 それに彼女の着ている巫女の格好もコスプレとかというレベルではない。

 素人目からでも分かる光沢のある白布を基調に、朱色の単が両方の切目から覗かしている。さらに、狐のような細く朱い瞳に、後ろに束ねられた長くて艶やかな銀髪は、コスプレに使われるようなカラコンやウィッグの人工的なものには見えない。

 もしかしたら外国人か、あるいはハーフなのかもしれないが。

 まあ、だとしてもリアル過ぎて逆にファンタジーが過ぎる。西洋人がエルフのガチのコスプレをしているみたいでなんだかちょっと怖いくらいだ。


「なんじゃ? さきほどからジッと妾のことを見つめて。あ、もしや妾に見惚れておるのか? 妾は古今東西あらゆる人間からモテたからのう」

「...............」


 それにしても古めかしい喋り方をする。まるで時代劇を見ているみたいだ。元からこういう喋り方なのか? いや、最近はアニメや漫画の方がそんな言葉を使うキャラが多い。アニメが好きなオタクなのかもしれない。それにテレビでも日本の文化が好きで来日し、逆に日本人以上にあれこれと詳しい外国人も見たことがある。

 つまりまとめると、巫女(たまたま外国人)をコンセプトにした隠れ家的な温泉施設、といったところだろうか。不思議な気配がするのは置いといて。


 いや、待てよ。もしかしたら、入ってはいけない店かもしれない。温泉.......入浴とい名のの店。

 ホームページすらなく看板もない店だ。それに逆に普通の住宅街に深夜まで営業し中。明らかに怪しい店だ。後ろに黒服の怖い人たちがいる店なのでは。

 それに私は大人の店は苦手だ。

 なぜなら、夢と金を失ったからだ。

 写真では女子アナのような清楚なお姉さんと......を期待に胸を膨らませて。いざ行ったてみたら、カッパのような妖怪だった。

 しばらくは、私の心も下半身も


 って、そんな話はどうでもいい。一旦、外へ出て体勢を整えよう。やっぱり怪しい。カタギが入ってはいけない店かもしれない。


「ふふっ、童よ。何も間違っておらぬぞ」

「......え、それってどういう意味で......」


 巫女の格好をした店番は朱い瞳で私との視線を交わせ、薄く小さな唇で妖艶な笑みを浮かべる。

 どういう感情なのかわからないが、ぞわぞわと全身が泡立つ。心に首輪を付けられて、この巫女の格好をした女に引っ張られてしまいそうだ。

 それに『童』って呼ばれるのもなんかいい。『童』って生まれて初めて呼ばれた。ゲームか映画くらいしか聞いたことがないから、本当に異世界に来たようなリアルな感覚にさせてくれる。

 コンセプトにしては設定の入れ込みが出来過ぎだろう。特に店員への演技指導は完璧過ぎる。


 とりあえず、ここがどんなの店なのかはっきりさせたい。

 私は巫女の格好をした女に尋ねる。


「......すみません。ここって普通の温泉施設です......よね?」

「ん? 何を言っておるんじゃ。ここは普通の温泉施設なんかじゃないぞ」

「......つまりそれはどういう意味で?」

「身体も心も気持ち良くなれる秘湯じゃ」

......」

「うふふ、これ童よ。何を想像しておるんじゃ、面白い表情を浮かべておるぞ」


 その女は口元を袖で隠しながら揶揄うように艶かしい笑みを浮かべる。

 ----可愛い。いや、そうじゃなくて、本当に何の店なんだ。さっきから全然わからないままだ。


「温泉に入りたいんですけど、一人いくらですか?」

「一人? 童以外は誰もいなかろうて」

「......ああ、まあそうですけど。で、いくらですか?」

「うん......まあそうじゃな。人間の貨幣で言うと......ひい、ふう、みい、よう......500円といったところじゃのう」

「ごッごひゃくえん?」

「そうじゃ」

「冗談ですよね? そんな安いわけがない」

「何を疑っておる? 風呂に入るだけの所じゃぞ」

「まあ、そうですけど......。あ、タオルセットはつけられますか?」

「タオルセット? なんじゃそれは」

「なんじゃそれはって......体を拭くタオルと風呂の中に持っていく小さいタオルですけど......」

「ああ......うむ。ちょっと待っておれ」


 巫女の格好をした店員は帳場の方へ行き、ウロウロと何かを探しては「タオル? 手拭いのことか」などと呟いて、裏手の方へ行ってしまった。

 そして、しばらくしてから大小のタオルを両手に持ち戻ってきた。


「ほれ、童よ。これでどうじゃ」

「......ありがとうございます。......ッて、なんだこのフワフワのタオルッ!」


 薄く灰色がかった紫色の大小のタオル。

 ふわりとした感触は、雲を触っているかのような柔らかくて弾力性があり、タオルとして最高品質を極めている。.......に違いない。

 高級タオルじゃないのか......これ。

 本当にレンタルとして借りて良いのか、逆に不安。


「なんじゃ、まさか妾が持ってきたタオルにケチつけるつもりじゃあるまいな?」

「あ、いえ。逆ですよ。あまりにも上等なタオルに驚いてしまいました」

「ふふ。ならいいんじゃ」

「えっと、それで......このタオルセットを付けるいくらになりますか?」


 私はポッケに手を入れて財布の感触を確かめながら、巫女のような店番に尋ねる。

 入浴料があまりにも安過ぎる。きっとこのタオルセットでそれなりの値段が張るに違いない。騙されているのかもしれないが、少なくともこのタオルは紛れもなく上質なもの。ぼったくりバーのように水でさえ値段を釣り上げるような悪質さはない。それに今のところ黒服の怖い人達も現れない。

 それにこの巫女の店番は、直感的に人生でも一生お目にかかれるかわからないほど神秘性に富んでいる。

 ここまで来たからには多少値段が張っても構わないだろう。人生経験というやつだ。

 だが、返答はまたもや予想外だった。


「そうじゃな......うむ。それはタダでよい。500円払ってくれさえすればそれでいい」

「え? 本当にいいんですか?」

「妾がいいと言ったらいいんじゃ」

「......はあ。では500円で」

「ふふ。毎度ありじゃ」


 財布から500円玉を出して、その巫女の格好をした女に払った。女は500円玉をまるで骨董品の価値を見定める専門家のように目を細めたり摩ったりしていた。

 神秘的な雰囲気を醸し出すわりに性格は俗っぽい。それに今だに店員なのか店長なのかも定かではない。本当に何者なのだろうか?

 何の変哲もない住宅街にあり、囲炉裏を据えた趣のある構内、レンタルにしては異常と言っていいほどの高級タオル。これら全てを含めて、500円など到底信じられるわけがない。

 そもそも温泉自体が酷いのかもしれない。オプションのようなものがあり、それを払わないとまともに風呂にすら浸かれないとか。

 とにかく絶対に何か裏があるに違いない。


「それで、温泉はどっちに行けばいいですか?」

「今開くからそこに座っておれ」

「開く?」


 巫女の格好をした女は両手を胸の前に重ねると内側にある手の方から金色の鈴がいくつも付いた神楽鈴を手品のようにゆっくりと抜き出した。幾つもの鈴の音を鳴らしながら神楽鈴を囲炉裏から左手にある漆喰壁に向けて一振りする。

 すると、何もなかった漆喰壁から『極楽湯』と書かれた暖簾がかかった入口が現れた。


「......な、ど、どうして壁から入口が??」

「ふふ。人間は相変わらずこんな造作でもないことでも驚くんじゃな」


 私は空いた口が塞がらなかった。

 巫女の格好をした女は白く光る袖口で口を伏せながら驚く私を揶揄うように笑っている。

 いよいよ理解が追いつかなくなってきた。まず鈴がたくさん付いた取っ手はどこに隠し持っていたのか。懐から取り出したでもなく、左手で右手を隠しながら刀を抜くように神楽鈴を取り出した。しっかりと巫女の格好をした女を、両手を見ていたが、怪しい動きなどなかった。両手をかざすこと自体も怪しいんだが。

 でも、それはまだ手品でもありそうだ。

 問題は次の動作だ。

 取っ手を一振りした途端、無数の鈴が鳴った途端に、何もなかった漆喰壁から突然『極楽湯』の暖簾掛かった入口が現れたではないか。

 最新のグラフィック技術だろうか。よく駅やビルの壁に映像を反映させて夜空に煌めく花火や星を表現したり、魚や動物が映像から飛び出してきそうな3D 技術と合わせて見えるようにしたりと、そういった技術の一種なのだろうか。

 でも、明らかに自然な動作だった。何か仕掛けや準備のようなものがされていた気配はまったくなかった。

 それか、本当に私の疲労によって脳が巫女の格好をした女(神秘的な雰囲気も相まって)の何てこともない動作を都合の良い感じに編集して幻覚を見ているだけなのかもしれない。


「疲労、傷口、肩こりに腰痛、他にもいろいろと効果があるぞ。さあ、ゆっくり浸かってくるがよい」

「はあ。では、まあ、入らせていただきます」


 私は『極楽湯』と書かれた暖簾の前まで行った。暖簾の隙間からは明かりが微かに漏れている。なんだか、今私が立っている位置と暖簾の先へが、この世とあの世の境界線のように思えた。『極楽湯』なんて名前もなおさらそう思わせる。

 巫女の格好をした女の方へ振り返ると、囲炉裏の方から私のことをにこやかに笑みを浮かべながら見ていた。

 溜まった唾を飲み込んだのを契機に思い切って暖簾の先へと足を一歩進めた。

 中は、拍子抜けするほど普通の脱衣場だった。

 とはいえ、脱衣場も囲炉裏があった場所と同じように、和紙で包まれた灯籠が脱衣場を淡い橙色でゆらゆらと煌めかせている。6畳ほどで脱衣場にしては少し狭いような気がするが、一人だけだとちょうど良かった。

 私は右手側にある木編みされた脱衣籠が2段に2つずつ配置されているので、その一つの籠にスーツと下着を脱いで置いた。

 先ほど借りたふわふわの高級小タオルを股間に抑え、ガラス戸を開いて浴室へと入った。


「......おお! おお.....、うん、普通だ」


 大小の風呂場と木の桶と椅子がセットされたシャワーが2つという、いったって普通だった。でも、癖の強い硫黄の香りと血液のような赤黒い色をしたお湯はまさにを思わせるものだった。

 足先からゆっくりと肩まで浸かった。温度は高めで、全身の疲労と精神的な疲労をこの赤黒い湯が包み込んで揉みほぐしてくれる。

 身体がぽかぽかとしてきて、額からは健康的な汗がだらだらと流れ始めてきた。


「ふぅ。ああ......気持ちいい」


 自分の声がこだまのようにこの小さな風呂場に響く。もう既に深夜だからか、私以外に利用客はいなく、貸切状態となっていた。

 私はそれから心ゆくまで大小のお風呂に浸かった。途中でのぼせてくるの、何度か休憩を挟んでから、もう一度湯へと浸かるを繰り返した。


 これで6度目くらいにのぼせてから、また湯に浸かっている時だった。濃い湯気が立ち上って気づかなかったが、この風呂場の先に露天風呂へと繋がるガラス戸があった。

 次、のぼせたら今度は外で冷ましてから露天風呂に浸かろうかな、と考えていると、脱衣場の方のガラス戸が開いて「失礼します」と一礼して髪を後ろに束ねた女が入ってきた。私はのぼせていたこと、てっきりだとばかり思っていたため、特に何も考えることなくその女が散らかった桶を整えたりしている動作をしばらく眺めていた。

 女はよく見たら、裸ではなく橙色の作務衣に包まれていて、ここの従業員みたいだった。私は間違ってに入ってしまったかと思って安心した。彼女は私が浸かっている大きい湯と小さい湯から、試験管のようなものを取り出して採取する。それから科学者のような目つきで試験管に白い粉を入れると濃い青色に変色し、紙に記録していた。

 かみ.....。その女の髪も巫女の格好をした女同様、コスプレのようなウィッグとは思えないほど自然に染まった若葉色の髪だった。さらに、くっきりとした薄紫色の瞳、端正な顔立ち、この娘も外国人なのだろうか。


「お湯加減はいかがでしょうか?」

「え? ああ、ちょうどいい湯加減です」

「それは良かった」


 鋭さのある声でその若葉色の髪の女は私に話しかけてきた。ただ、接客は苦手なのか、巫女の格好をした女とは違い、表情がどこか固いようだ。


「露天風呂へはもう行かれましたか?」

「いえ、ちょうどこれから入ろうかと」

「よければ、露天風呂の方でお背中を流しいたしましょうか?」

「え? そんなことしてもいいんですか?」

「? お客様が嫌ではなければ問題ないですが.....」

「ああ......ぜひ、お願いします!」

「はい」


 何か隠語が含まれていないだろうか。

 こんな美少女にこれから私は背中を流してもらえるなんて。ますます入浴料500円が疑わしくなってきた。


「......ちなみに、追加料金とか掛かりますか?」

「いえ、特に何か追加されるものなどございません」

「あ、そうですか.....」

「では、露天風呂の方へ行ってもよろしいですか?」

「あ、はい.....」


 もう考えるのはやめよう、そう思った。

 頭が物理的にのぼせているせいでもある。でも、鼻の穴が自然と大きくなってしまうほど、ワクワク、ウキウキするものもない。それに、貯金はあるんや。

 私は股間をなんとか沈ませながらタオルで隠し、紫の髪をした女につられて露天風呂へと向かった。


「ん? え? .....なんじゃこりゃっ⁉︎」

「ふふ。どうですか? 当店自慢の露天風呂」


 ゴツゴツした石に囲まれ、湯気を立ち昇らせる湯の背景には薄桃色の花びらを舞い散らかせたがあった。

 至る所に和紙に包まれた灯籠が置かれていて、淡い橙色の光を下地に桜の花びらがひらひらと湯に舞い落ちる。

 死に際に見るような、最高級の眺めだった。

 これがと呼ばれる意味なのか?


「こんな綺麗な景色、今まで見たことがない」

「さあ、あちらへお座りください。私がお背中を流させていただきます」

「あ.....はい.....」


 若葉色の髪をした女は、露天風呂に一つだけ用意されたシャワーと桶、椅子があるところへと指す。

 私は椅子に座り、彼女は背中の方へと回る。


「では、お背中を流させてもらいますね」


 若葉色の髪をした女は慣れた手つきで桶を取り出してお湯を汲み、花の香りがした石鹸でタオルを泡立たせてから、私の背中をやさしく撫でるように洗い始める。


「どうですか? 痛くはないでしょうか?」

「いえ、大丈夫です」

「そうですか。では、続けさせてもらいます」


 誰かに背中を洗ってもらうだなんていつぶりだろうか。

 小さい頃を思い出す。昔は、父さんか母さんに洗ってもらった事があったな。あの時は、親と一緒に入るなんて恥ずかしさから嫌だったけど、今こうして無防備な背中を誰かに洗ってもらうなんて、温泉とは違う暖かさを感じる。


「ありがとう。とても気持ちがいいです」

「ふふ、そうですか」


 しばらく湯口からお湯が流れる音に耳をすませながら、丁寧に背中を洗ってもらいお湯で流してもらった。

 私は、今、心臓が飛び出しそうなほど、鼓動が速くなっている。


「お客様? 緊張していらっしゃるのですか?」

「あ、いえ、き、緊張してないですよ.....」

「はあ、そうですか。ドキドキと鼓動が速くなっているので」

「ああ.....まあ、それは.....」


 背中は洗ってもらった。

 で、その後は?


「それにしてもお客様。私の立場から言うのは失礼なのですが、随分と獣くさいと言いますか、なにか狩猟でもしていたのでしょうか?」

「狩猟?」


 まさか、私の下はそんな獣みたいな臭いを放っていたのか?

 確かに、私は彼女なんて今までいた事がなければ、ここ数年、大人の店にも行っていない。加齢臭のようにこれも自分では気づけない臭いなのだろか。

 凄いショックなのだが。

 とはいえ、私は常に自分の下と向き合ってきた。そんな野獣のような特性は生憎観測されなかったぞ。

 なんなんだ、なんなんだよ。凄い恥ずかしいぞ。


 ん? 狩猟? 狩り?

 何の話だ。


「ええ。......この臭いは、の臭いがしますね」

「はい?」

「あ、気を悪くしてしまったら申し訳ございません」


 なんだ。またここでもコンセプトに沿っているのだろか。

 もう考えるのはやめた。

 世界観に合わせて楽しもうじゃないか。


「いえ、ニンゲンです。実は、帰宅中にの世界に来てしまったのですよ」

「......」

「......」


 若葉色の髪をした女は、突然手を止める。湯口からお湯が流れる音以外は重い沈黙が私と彼女との間に流れる。

 しまった。何かコンセプトから外れるようなことを言ってしまったか。

 ああ、恥ずかしい。もう帰りたい。恥ずい。恥ずいわ。


「お前、本当に人間なのか?」

「え? 人間ですけど.....」


 若葉色の髪をした女は私の肩を掴み、迫る勢いで私に尋ねてくる。

 なんだ? 本当に演技なのか? 彼女の薄紫の瞳からは背中を流してもらった時のような柔らかなものから鋭いものへと変わっている。


「はあー、白狐様。また、人間を面白半分で迷い込ませたな」

「あのー、そういうのってコンセプトというか、演技ですよね?」

「ん? 何を言っている。ここはお前達のようなが来るようなところじゃない」

「いや、一旦正直に話してくれませんか? あまりにも凝っていて分かっていないのですよ」

「ここはをもてなす場所の一つだ。お前達ニンゲンが立ち寄れる場所などではない」

「はい? じゃあ、あの受付の銀髪の娘は?」

「無礼者ッ!! あの方は稲荷神ウカノミタマの神使を務める方だぞ。娘などと気安く言うな!」


 もう演技なのかわからない。鬼のような形相で凄く怒っている。

 この娘も、先ほどの巫女の格好した女も、この温泉そのものも独特な、何か神秘的なものを感じてはいる。

 じゃあコンセプトではなかったとしら、ここは一体なんだ?

 疲労が溜まりすぎて、夢を見ているのか? 実はベッドに寝転んだ時には既に寝ているとか。

 

「.....何をしている? ニンゲン」

「いてててッ。 あれ、ほっぺをつねっても痛いし、夢から醒めた感じがしない」

「アホなのか」

「じゃあ、本当に現実.....。あ、あんたは何者なんだ?」

「私か? 私はイズナ。二百年前に妖狐と化し、白狐様に仕えている」

「......二百年前、妖狐」


 非現実的なワードが、こう普通に出てくると頭に入ってこない。彼女は、狐の妖怪で、200年前から生きている.....ということか。

 本当に、全てひっくるめてそういうコンセプトとかじゃないよね? 実はカメラがどこかにあって、私を騙しながら撮影しているとかじゃないだろうか。


「ニンゲン、悪いことは言わん。とっとと、ここから去った方がいい。ここは本来、神や妖怪といった者しか来てはいけない世界だ。お前達ニンゲンが来るようなところではない」

「そ、そんな世界ならどうやって戻るんですか?」

「なに、普通に来た道を戻ればいい」

「それだけで帰れるんですか? 何か特別な、おまじないとかはしなくていいんですか?」

「お前はたまたま常世の世界に導かれてしまっただけだ。太陽が昇る前にお前の家に戻れれば無事帰れる」

「あ、そうですか! はあ、それはよかったー」


 なんだ、ビビって損したじゃないか。てっきり、もう元いた世界には戻れないとか、そういうオチなのかと思ってしまった。

 よかった。なら、帰ろう。

 最後は怖いことになってしまったけど、この幻想的な温泉に、美女に背中を流してもらったことなど、逆に良い思い出の方が大きい。このままそれを記憶に挟んで帰るとしますか。


「分かりました。イズナさん、どうもありがとう! 私は帰ることにします」

「ああ、そうした方がいい」

「はい。イズナさんのような美女に背中を流してもらったこと、一生忘れません」

「......ッ! そんなことより、さっさと帰れ!」

「はい!」


 あの桜の花が浮かんだ露天風呂に入れなかったことは名残惜しいが、私は言われた通り、さっさと脱衣場に戻った。

 着替えを持ってくるのを忘れてしまったが為に、せっかく綺麗に体を洗ったのに、一日着っぱなしの下着をもう一度穿くのは気分が沈む。


「はあ。なんだかむず痒い気がする」

「何をしている! ほら、さっさと出ろ!」

「わッ! イズナさん。ここですよ!」

「何か問題でもあるのか?」


 問題大アリだ。私は今、まだ股間を曝け出してる状態なのですよ。イズナさんのような方を前にして、少しでも気が緩んだら暴発しかねない。


「お前に一つを忘れていた」


 イズナさんを背にして、私は前屈みになりながらパンツを穿く。股間を見せてしまったことが犯罪になるとか、っていう忠告なのだろうか。

 とはいっても、当のイズナさんは何の表情もないまま、淡々と私の方を見ている。それは、それで恥ずかしい。

 そんなチンケな犯罪が神様がいるような世界にもあるのか。逆に興味が湧くものだ。


「いいか、決してお前の家の中に入るまでは!」

「え? もし振り返るとどうなるんですか?」

「戻れなくなる。二度と」

「そうだ」

「ここは神の世界。お前達ニンゲンは本来、死者となってからくるものだ」

「死者となって.....じゃあ、ここは黄泉の国?」

「ニンゲンはそうとも言うな」

「生者であるお前を、あらゆる誘惑を使ってお前をこの世界に留まらせようとするだろう」

「え? それはなんだか怖いんですが......」

「だからこそ、振り返るな。振り返った瞬間、お前はこちらの世界を受け入れたことになる。それはつまり、お前は二度と元の世界に戻れなくなるという意味だ」


 イズナさんはナイフのような鋭い目つきで私に忠告してくれるが、子供の頃に見たそういうアニメとか小説を思い出してしまい、なんだか現実味がなかった。

 それに私の住むアパートからこの温泉施設までは約10分程。行きは迷いながらだったから、帰りはもっと速く着くこともできるはず。最悪、家のドアまで走ってしまうこともできるはず。

 問題はない。

 私はスーツを袖に通し、財布とスマフォを左右のポッケに入れる。


「じゃあ、私はこれで帰ります」

「ああ。いいか、決して振り返るなよ」

「はい。絶対に振り返りません」

「よし! じゃあ、今度は死んだらな」

「うッ! なんだか不吉な別れですね」

「冗談だ。さっさと行くがいい」

「はい! では、さようなら」


 私は脱衣場を出て、『極楽湯』と書かれた暖簾を反対から出る。

 すると、囲炉裏の前で巫女の格好をした女、白狐様がまだそこに居られた。


「おや、童? もう上がったのか」

「はい、まあ」

「どうじゃった? 湯は最高じゃったろうに」

「はい! それは素晴らしい温泉でした!」

「ふふ。そうじゃろ、そうじゃろ」


 艶やかな銀髪をふわりと揺らしながら白狐様は微笑んだ。笑った顔は見た目相応の無邪気な女の子のように見えてしまう。とても、神のような高等な存在とは思えない。だが、肌身、本能からはなにか畏敬の念を抱かせるような気配を感じる。


「湯上がりに一杯どうじゃ? 美味いぞ」

「いや、お酒は。早く家に戻らないといけないようでして......」

「ああ。イズナにそう言われたのか?」

「はい、まあ」

「そうか」


 光沢のある白い袖で口元を隠しながら白狐さまはもう一度笑ったように見えた。


「まあ、一杯くらいは良いじゃろ。童も気づいたんじゃろうが、この世界は生きているニンゲンは本来は来れんところじゃ。良い土産話にもなると思ってどうじゃ?」

「うーん、まあ、一杯だけなら」

「ふふ。ノリが良くていいぞ」


 白狐様は私を隣に座らせ、徳利とお猪口が二つ載ったお盆を持ってくる。そして、白狐様自ら、私の分のお猪口にお酒を注いでくれた。


「ふむ。では、乾杯」

「はい。頂きます」


 小さなお猪口を重ね合わせ、私はお酒を口元に含む。


「うまッ!!」

「ふふ。そうじゃろ」


 お米のような芳醇な甘い香り漂いながら、甘味から辛味、そして最後に苦味が舌をキュッとしめた後、朗らかな余韻が残る。

 先ほどの露天風呂のように、舌先から幻想的な世界が広がるのが分かる。


「あの、もう一杯お願いします」

「うふふ。ほれ、もっと飲むがよい」


 白狐様は私のお猪口にお酒が注ぐ。

 私はそれをグイっと飲み、再び幻想的な世界へと浸る。


「美味すぎる! すみません、もう一杯!」

「よっぽど気に入ったんじゃな! ほれ、飲むが良い」


 また口元に含むたびに、桜の花びら辺りを舞い、甘い香りに包まれる。早く帰らなければならないというのに、手が止まらない。


「こんなに美味しいお酒を飲んだのは初めてです。何が入っているんですか?」

「ここじゃ」

「?」


 白狐様は狐のように目を吊り上げ朱い瞳を煌めかせながら、小さな紅い唇へと指を指す。

 どういう意味なのだろう。もう酔ってしまっているのかすぐには思いつかない。


「ふふ。妾の口神酒じゃ」

「ブオッ‼︎ .....げほ、げほ......口神酒⁇」

「あはははははははははは! 童は今、妾の一部を身体の中に入れたんじゃ」

「な、なにを言って.....」


 白狐様は立ち上がって、私の顔を覗き込んだ。無造作に垂れた艶のある銀髪が頬に触れる。鼻と鼻が触れる。良い匂いが鼻先をかすめる。淡い光に反射した朱い瞳に吸い込まれそうになる。

 。身体の主導権を奪われたかのようだ。瞬き一つすることができない。

 それから、白狐様は私の胸元からゆっくりと、なぞるように指先を滑らせて私の頬まであてがう。

 そして、耳元で蕩けるような甘い声で私に尋ねる。


「甘くて芳醇な香りがするじゃろ?」

「うう。まあ......はい」

「案ずるな。別に毒が入っているわけではない。それにそう嫌な顔をされると、流石に妾でもちょっと傷つくぞ」

「あ、いや、別にそういうわけじゃ......」

「ふふ。ならいいんじゃ」


 白狐様は細く白い指を口元に寄せ、潤った上唇からトロリと糸を引くように、わざと見せながら妖しく笑った。

 私は、新しい世界を開拓してしまった、そう思った。


「その酒は一千年前くらいじゃったかな。妾の口元から作られたのは」

「一千年前.....」


 一千年前に、あの美しい銀髪の娘から作られた酒。

 私が今手にしているこの澄んだ液体は、もう卑猥なのか、神秘的なものなのか、私にはわからない。


「美味いッ!」

「ふむ。気に入ってくれたようじゃな」


 まあ、一生味わうことができないほど美味いのは確かだ。

 うん。私はただ美味い酒を飲んでいる。それだけだ。それだけ。決して変態なのではない。


「妾の一部が童の中へと入れて、妾も嬉しいぞ」

「そ、その言い方は.....よくないですぞ」

「ふふ、あはははははははは。童は面白いのう!」

「はあ。それはどうも」

「さあ、もう帰るがよい」

「あ......すっかり飲んでしまった」

「もう少ししたら陽が昇る」

「はい! ありがとうございました!」

「ふふ。また、来るが良い」

「いや、次は時ですね」

「あははははははは。そうじゃな、死んだ時にまた来るがよい」

「はい。ではこれで」

「うむ。さよならじゃ」


 私は、この幻想的な気分に浸れるお酒、絶世の美女である白狐様、暖かみある囲炉裏、ここから離れることを名残惜しみながらも立ち上がる。

 入口のある引き戸前で私は、ふと立ち止まる。


「あ! お酒は追加料金とかはないですよね?」

「律儀な奴じゃな。あれはさーびすというやつじゃ」

「ああ......本当ですか?」

「言ったじゃろ。妾がそう決めたらそうなんじゃ」

「人間の世界だともっと高いと思いますよ」

「だろうな。童だから安くしたんじゃ」

「え?」

「妾は其方を気に入ったんじゃ」

「えっと、それは.....」

「そんなことはよい。気をつけて帰るんじゃ」

「あ、はい! 本当に良い温泉でした。ありがとうございます」

「うむ。今度こそ、さよならじゃ」

「はい、さようなら」


 私はそう言うと、引き戸を開いて外へと出た。

 目の前は、シャッターがしまった古びた文房具やスナックがまだ静かに眠っている。なんだか、旅行から帰ってきた時に感じる寂しさのようなものを感じる。

 本当に楽しい一夜だった。

 

(今まで体験したことは本当にあったことだろうか?)


 私は引き戸の方を振り......向きそうになったのを急ブレーキを踏んだように首を急停止する。

 危なかった。イズナさんの忠告を無視するところだった。

 今から家の中までは決して振り返ってはならない。振り返ってしまうと、二度と元の世界には戻れなくなってしまう。

 私はもう一度、イズナさんとの会話を思い出し、肝に銘じる。

 

 空が西から東にかけて断層のように、濃い蒼から薄い青色へと変色して家の屋根の影をより鮮明に落としている。そして、その先からは透き通った黄金色徐々に上へと混ざろうとしている。

 もうすぐ朝がやってくる。夜が明けるまでに早く帰らなければならない。

 私は家まで決して振り返らないように歩を進める。

 来た道を辿るように狭い路地を突き抜けていく。私は二体の狐の石像に、小さな朱い社も通り過ぎる。最初は暗闇の中、一本の電柱の明かりの下でこちらを見ているのではないかと思うような背筋が凍った小さな朱い社も、今では不気味さを際立たせた電柱の明かりも空の明るさの中に埋まり、二体の狐の石像はあの二人を思い浮かべるような親しみを感じる。

 私は軽くその社の前で手を合わせてからその場を去ることにした。振り返らないように社に対して斜めに拝むという、ちょっと失礼な気もしたが、実際にあの二人ならそんなことで怒りはしないだろう。


(楽しいひと時でした。おかげさまで元気が湧いてきました。また、お二方に会えますように)


 私は願いが届くように拝んだ。二体の狐の石像もこちらを見てくれているような気気がした。

 拝み終わったので、もう後は家まで歩いて帰るだけ。

 決して振り返らないように、狭い路地を駆けていく。狭い路地を抜けると、シャッターが閉じたままの商店街に出る。もう夜明けだと言うのに、まだ誰もいない。犬の散歩をする人すら見かけない。

 自分の足音だけが聞こえる。なんだか拍子抜けしたな、とそう思った時だった。


「あのー、すみません。これ、落としましたよ!」


 背後から声を掛けられる。

 落とした? 何を。私は左右のポッケに手を突っ込む。左には財布の皮の感触が、右にはスマフォの硬い感触を確かに確認する。

 この二つ以外はポッケに入れてないし、そもそもは持ってきていない。だとすると、今後ろから声を掛けてきたのは.....いや、考えるな。

 とにかく、振り返らずにやり過ごすんだ。


「いや、それは私の物ではないですね」

「どうして前を向いたままなのですか? これはあなたから落ちたものですよ」


 明らかに私を後ろへと振り向かせようとしている。もっと濁した声で話しかけられるかと思いきや、普通に人の、男性の声で話しかけられた。

 イズナさんの忠告がなければ普通に振り返ってしまうところだ。


「すみません。先を急いでいるので」

「......」


 私は駆けるようして商店街を走っていく。

 後ろを振り返っていけない。後ろを振り返ってはいけない。

 何度もそう繰り返しながら、私は左右に立ち並ぶ様々な店舗を突き抜けていく。


「はあ、はあ、はあ。追ってはこないみたいだな」


 足音のようなものは聞こえなかった。一応、振り切ることはできたか。

 少し膝に手をついた。日頃、運動不足が呪ったか、少し走っただけでも息が重く苦しい。休日は、筋トレでも始めてみるのもアリだな、なんて軽口も言える。もう大丈夫だろう。

 それにアパートまではすぐそこだ。商店街を抜けたら、下り坂を降りてすぐ左の路地に入ると私のアパートがある。そこまでもう50メートルもない。

 

「これ、あなたの落とし物ですよね」

「え?」


 さっきと同じ男性の声。まだ付いてきたのか。

 後ろを振り返るな、後ろを振り返るな。

 私はもう一度、おまじないのようにそれを何度も繰り返す。それを繰り返さないと後ろにどんな奴が私を追いかけているのか考えてしまう。


「アパートまで後少し。大丈夫だ。落ち着け」

「どうして前を向いたままなのですか? あなたの落とし物ですよ」

「......すまないが、私は何も落としていない」


 私の澄んでいるアパートがある左の路地へと曲がる。

 そして、すぐまた左側にあるアーチ状の門を潜って敷地へ入る。


「202号室。後、少し。大丈夫だ。落ち着け、私」


 2階へ繋がる階段を登る。

 鉄筋でできた階段は、私の足音をドタドタと鳴らす。でも、私以外の足音は聞こえない。階段を登り終えると、50メートル走でもするかの勢いで202号室まで駆ける。

 とはいえ、3歩ですぐ着いたのだが。


「はあ、はあ、はあ。......鍵、鍵はどこいった?」


 体を弄るように、震えた手でスーツのポッケ、ズボンのポッケから鍵を探す。

 でも、どこにもない。

 まさか、私が落としたのって......鍵?


「これ、あなたの落とし物ですよね?」


 左後ろだ。

 左後ろに人影のようなものを感じる。


「そ、その落とし物ってどんなモノですか?」

「ふふ。これじゃよ」

「あ、」




 

 





 

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極楽湯 @momochi1029

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