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それから一週間後。

雨が降り、夏実なつみは洋館へ向かった。彼は深水ふかみの姿で、洋館前に立っていた。


「いつから、その姿なんですか?」


彼に傘を傾けながら、夏実が言う。その問いかけに、彼が表情を変える事はなかった。


「…いつからかな」

「二十年程前、私に会ったの覚えてますか?」

「覚えてる」

「…私、小百合さゆりさんに似てますか」


彼はそこで驚き顔を浮かべたが、やがてそっと眉を下げた。


「…似てないかな」

「ですよね、あんな美人に生まれたかったな」

「そうしたら、君に取り憑いてたかもね」

「ゾッとするような事言わないで下さい」

「はは、本領発揮かな」


冗談めいた言葉が、胸をきゅと苦しめる。彼は、深水は、本当にこの世にいないのだ。

彼女は唇を噛みしめながら、手紙を差し出した。


「持てないよ」

「…小百合さんに会いに行けなかったのは、自分が許せなかったからでしょう?」


この世に小百合はいない、それでも、彼はこの世に止まり、洋館を見上げている。空に還れば、彼女に会えるかもしれないのに。


彼はそっと目を伏せた。



「…彼女は高嶺の花だったんだ、まさしくね」



それでも二人は恋に落ちた。

財閥のお嬢様と、医者の家系に生まれながらも出来損ないの次男坊。兄と彼女が結婚させられると知り、彼女を連れて逃げ出した。

身分を隠して慎ましく過ごしていたけれど、上手くいかなかった。

二人は引き離され、彼女は家に連れ戻された。彼は家から勘当された。



「僕が馬鹿をしたばかりに、家の評判は落ちる一方だった。その後、まもなく僕は感染症にかかって、そのまま呆気なく一生を終えてしまった。死ぬ前に会いたいと思って、外に出たんだ。雨の降る夜だった」


だから、雨の日にしか会えないのだろうか。


「彼女の人生も狂わせた、あわせる顔もない」


そう顔を俯ける彼に、夏実も視線を落とした。雨が、ぱちぱちと地面に跳ねている。小さな雫は、彼の後悔の涙だろうか。


「…待っていたそうですよ、どこにもお嫁に行かずに」

「……」

「この洋館を引き取ったのは、昭野忠正あきのただまささん、ご存知ですよね」

「…あぁ、親友だ」

「小百合さんを不憫に思って、小百合さんが亡くなった時、親族の方が土地ごとこの洋館を売り払うと聞いて、忠正さんは丸々買い取ったそうです。きっと、あなたがいつか来るかもしれないと思って、忠正さんもあなたの事を待ってたんです」


そっと伏せられた瞳が、郷愁を追いかけているようで。そんな姿を見ていると、彼は本当に幽霊で、夏実とは違う時代の人だと実感してしまう。


「…これ、小百合さんの思いが全部書いてあるそうです。英文なので私は読めませんけど、」

「…体を借りてもいいかな」


夏実は少し戸惑いながら、頷いた。ぎゅっと目を瞑っていると、ふわりと体が温かくなって、深水と出会った時の事を思い出した。



幼い夏実は、足を滑らせ川に落ちた事があった。近くの土手だ。その日も雨が降っていて、増水した川に溺れかけた時、深水に助けられた。体を抱えられたと思っていたが、こうやって体に入って助けてくれたのだと、今、理解した。

どうして彼がその場に居たのかは分からないが、もしかしたらその川原は、二人の大切な場所だったのかもしれない。


深水は出会った頃から幽霊で、幽霊の彼に、夏実は恋をした。報われなさすぎて、涙を流す事も自嘲する事も出来なかった。



英語は読めない筈なのに、彼に抱きしめられているかのような温もりの中、不思議と言葉が頭の中に入ってくる。彼が読み聞かせてくれているようで、涙が溢れてきた。初恋の彼から恋人の話を聞かされたからなのか、それとも、これは彼の涙だろうか。


小百合の手紙には、彼を傷つけてしまった後悔と、自分の家に対しての不甲斐なさが。それは全て彼への愛情に満ちていた。

家に戻されてから、彼の話を耳に入れさせないようにされていたのだろう。そもそも彼の死を、彼の家族は伏せていた。彼のせいで、彼の家族は名声を奪われ苦しい思いをしたと、國岡が言っていた。

小百合は彼の死も知らないまま、どこにも伝えられない思いを、出す事も許されない手紙に込めるしかなかったのだろう。


國岡くにおかの調査では、家族のみならず、人との繋がりを断っていた小百合の事を、忠正だけが、友人としてずっと気にかけていたという。周囲には精神患者扱いされていたようだが、小百合はまともだと言いはるので、忠正も頭がおかしくなったと言われたみたいだが、それでも忠正は小百合を支えていた。彼の事を、忠正も大事に思っていたからだ。


「…僕は、不幸しか生まないな」

「待っていたいと思える人に出会えたのは、不幸でしょうか」


待つ選択をしたのは、彼女達だ。多くの人から疎まれ厄介とされていても、こんなにも思ってくれた人がいた。それがたった二人でも、彼は幸せだと思うし、彼女達にとっても、出会った事が不幸だとは思わないだろう。だとしたら、待ったりしない。


「…泣かないで」

「…これは私の涙ですか」

「僕のかな、でも君が泣いてるから」


ぽつぽつと、傘に雨が跳ねていく。遮断された世界に、彼の声だけが優しく夏実を包んでいる。


「…あの時、どうして助けてくれたんですか」

「…どうしてかな、君が似ていたからかな」

「似てないって言ってたのに」

「そうだね。僕はよく間違えるけど、君と出会えたのは、唯一正しかったかもしれない」



大丈夫と、川の中でずっと励ましてくれた彼の声を思い出す。


川原で横たわりながら、ぼんやり目を開けると、深い青と黒の揺れる瞳がほっとした様子で微笑み、その瞳に夏実は惹かれた。

「今、人が来るから」

「お兄さん、誰?」

「…ごめんね、もう行かないと」

彼の背後で、「深水ー」と、誰かの呼ぶ声が聞こえた。彼は深水というのかと夏実は思ったが、あれは彼を呼んだのではなく、付近に居た誰かなのだろう。この時既に幽霊だった彼を、呼び止める者はいない。


ずっと名前すら知らずに、命の恩人である彼を思っていた。幽霊だとも知らずに。

でも、彼のおかげで今、夏実は生きている。



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