2-7 春の両親(後編)


 戯猿のところから逃げた春たち三人。戯猿が他の人たちを襲っていたため、三人はあの場から逃げることが出来ていた。

 他の人たちには悪いとは思いつつも、重護はそのことを幸運に思う。しかし、相手はAランクの喰魔。一度離れられたからといって、まだ安心することはできない。


「ハァ、ハァ………」


「母さん、大丈夫?」


 地面に腰を下ろし、息を切らす一愛を心配する春。三人は今、岩に囲まれた場所に隠れていた。

 一愛は体力の限界であり、春と重護もかなり体力を消耗してしまったため休息をとっていた。


「大丈夫、だよ」


 春の問いかけに笑顔で答える一愛。しかし呼吸は苦しそうであり、額から汗を流すその姿からも体力の消耗具合が伺える。さらに、体力だけでなく精神も限界が来ていた。


 一愛は義猿が高笑いしたときに、後ろへ振り返ってしまった。

 高笑いする戯猿の前に溢れる血とバラバラになった死体。それが脳裏に焼き付いて離れなかった。


(私たちも、あんな風に殺されるの………?)


 高笑いする戯猿の前に転がる、バラバラの死体となった自分の姿を頭の中に思わず描く。そのイメージで、一愛は恐怖に呑まれてしまった。


「………っ!」


 息を呑み、膝を抱えてそこに顔をうずめる。


(怖い。死ぬのが、怖い)


 死に対する恐怖に、一愛は心が押しつぶされそうになっていた。


「一愛………」


 立って外の様子を窺っていた重護。一愛の心情を察し、心を痛める。自分とて二人が居なければ同じようになっていただろうと思う。

 しかし、非常にまずい状況である。このまま一愛の心が折れれば生還できる可能性が著しく下がる。なにより、一愛が辛そうにしているのを黙って見ていることなどできない。

 一愛を元気づけるために声をかけようとする重護。そのとき、春が重護より早く一愛に声をかけていた。


「大丈夫だよ母さん!」


 春の声が一愛の耳に届く。喰魔に見つからないよう声量は小さいが、声には力強さを感じた。

 一愛はゆっくりと顔を上げると、春の顔を見て息を呑んだ。


 今にも涙が溢れだしそうなほどに目は潤んでおり、先ほどの力強い声とは違い弱々しく見えた。

 そして、それを誤魔化そうと必死に口角をつり上げて笑顔を見せていた。


「みんなで絶対に家に帰れるよ! だから元気出して!」


 先程のように力強い声。しかし、その声は震えている。思い返せば、さっきの声もわずかに震えていたように思えた。


「春………」


 怖いはずなのに、春はそれを押し殺して自分のことを元気づけようとしている。それに比べてどうだ。

 恐怖に負けて蹲り、自分が守るべきはずの息子に気遣われている。なんと情けないことだろう。


(そうよ。私がこんな調子でどうするの!)


 一愛は心の中で自分に喝を入れる。

 恐怖が無くなったわけではない。しかし、立ち向かう勇気は湧いてきた。

 こんな死ぬ危険があるところに大切な息子がいる。恐怖で今にも泣きそうになっている。母親である私が守らなくてどうするのだ。

 そう自分を奮い立たせる一愛は、春にいつものように快活な笑顔を見せた。


「ありがとう春。おかげで元気出てきた」


「よかったぁ」


 一愛の笑顔に春も笑顔を見せる。

 異界とは思えないほど温かい光景。重護もそんな二人のやり取りに優しく微笑むと二人に声をかける。


「春の言う通りだ。みんなで家に帰ろう」


「うん」


「おおー」


 重護の呼びかけに賛同する二人。先ほどまでの押し潰されそうな重たい空気はもう無い。自分たちは帰れるという希望を真っ直ぐに信じていた。

 そんなとき、耳障りな声が重護の耳に届く。


「あ゛………あ゛あ゛ぁ………」


「っ! 二人とも静かに」


 重護の呼びかけに二人とも口を閉じる。張りつめた空気が場を支配した。


(今の声は………喰魔イーターか!?)


 人が苦しみながら出すような呻き声。聞いていて気分の良いものではない。人の声としては異質であり、重護はその声の主が喰魔ではないかと推察する。

 それを確認するために岩場の陰から外を覗き見る。すると、重護の予想通り近くまで喰魔が来ていた。


 人のような形をしているが肌はあり得ないほどに白く、口元が口裂け女のように大きく裂けていた。

 腹はでっぷりと太っており、だらんと垂れた腕が不気味さを醸し出している。妖怪の一つ目小僧のように巨大な金色の目が一つだけというのもまた不気味であった。


(戯猿アイツではないか)


 戯猿ではないことにひとまず安堵する重護。しかし、よくない状況に変わりはない。


(まずいな。このままだと確実にこっちに来る)


 のそのそと歩いている喰魔。このまま進めば確実に自分たちの居る岩場に来る。それが分かった重護は二人にここを出るよう呼びかける。


「二人とも。ここから出るぞ」


「うん」


「分かった」


 小さな声で話しかける重護に合わせ、二人も小さな声で返事をする。そして、重護の後に続いて喰魔の来る方角の反対から岩場を出た。


 岩場を出ると同時に三人とも走り出す。当てがあるわけではない。しかし、今はこの場を急いで去らねばならない。


 だが、そう簡単に事は運ばなかった。


『見つけたぜ』


「な………!?」


 三人の行く道を遮るように戯猿が現れる。三人は現れた戯猿に驚いて足を止める。一体どうやって自分たちを見つけたのか。そんな三人の疑問を見透かしたのか、戯猿が愉快そうに語り出す。


『がははははは! 逃げ切れると思ってたのかぁ? 残念だったな! 俺は魔力感知は下手だが、嗅覚が鋭くてな! 人間の匂いを追うくらいワケはないんだよ!』


「くっ………!」


 重護の悔しそうな表情と春と一愛の怯える姿を肴に愉悦に浸る戯猿。鋭く尖った歯が見えるほど不気味に口元をニヤつかせ、更なる愉悦を求めて金色の瞳で狙いを定める。


『さて。まずは―――』


 言葉の途中で三人の視界から喰魔の姿が無くなる。そして、次の瞬間には春の背後に立っていた。


『お前からだぁ!!!』


 戯猿が春に向かって高く振り上げた右手を振り下ろす。春はようやく声に反応して後ろに振り向こうとしている。そして、春が振り向いたときには、眼前に戯猿の刃が迫っていた。


 そのとき、二つの影が春を守るように覆いかぶさり、後ろへと押し倒す。戯猿の刃は春には当たらず、代わりに春を覆った二つの影を斬り付け、鮮やかな赤い液体が宙を舞った。


「………え?」


 何が起こったのか、春には理解できなかった。まず視界に入ったのは笑う戯猿と、その右手にべっとりと付着した赤い液体が滴り落ちる光景。次に、自分の体に乗っかっているものをゆっくりと見た。


「あ、ああ………」


 最初はそれが何なのか分からなかった。

 否、分かりたくなかった。

 しかし、春の意志とは裏腹に、脳は目の前のモノが何なのかを理解していった。


「うあああぁああああ………!! 父さんっ!!! 母さんっ!!!」


 それは、自分へと力なく倒れる父と母・・・だった。


 春は自分を覆う両親から無理やり抜け出すと、うつ伏せになっている二人の体を揺さぶった。


「父さん! 母さん! しっかりして!」


 両目から涙を流し、悲痛な声で両親に呼びかける。二人は背中に大きな切り傷が三本出来ており、大量の血が流れ出ていた。

 そんな二人が覆いかぶさっていた春の服は二人の血で染め上げられ、肌が露出している腕や足にもべったりと血が付着している。しかし、春はそのことに気が回らず、錯乱したように二人を呼びながら体を揺すっていた。


『ほーう、俺の動きに反応して餓鬼ガキを守るとは大したもんだな。たしか、火事場の馬鹿力ってやつだったか?』


 戯猿は重護と一愛が自分の動きに反応したことに驚いていた。

 しかし、それも一瞬の事。戯猿の表情はすぐに驚きから呆れへと変わる。


『にしても自分を犠牲にして他人をかばうとは、人間ってのは本当に愚かだなぁ』


 戯猿は重護と一愛の行動を愚かだと切って捨てる。

 戯猿は喰魔。家族は居なければ、仲間なんてものも居ない。一人で異界を生き抜いてきた戯猿にとって、他は敵か自分が生きるための道具でしかない。

 ゆえに、他人のために自己を犠牲にすることが愚かな行為にしか思えなかった。


 心無い残酷な言葉。春がまともに聞いていれば激情したことだろう。しかし、春に戯猿の言葉を聞く余裕はなく、ただ涙を流して二人を呼びかけることしかできなかった。

 そんな春の姿と悲痛な声に、戯猿はこの上ない愉悦と快楽を感じていた。


『ああー、いいなぁ人間の悲痛な声。たまらないぜ………ん?』


 春の声に聞き入っていた戯猿。しかし、周りに現れ始めた別の喰魔たちにその表情を曇らせる。


『ちっ。おこぼれ狙いに集まってきやがったか』


 忌々しげに舌打ちをし、言葉を吐き捨てる。周りに集まってきた喰魔たちは先ほど三人が逃げた一つ目の喰魔と似た姿をしていた。


「あ………あ゛あ………あ゛あ゛あ」


『なんだあ! こいつらは俺の獲物だぞ! 邪魔するなら先にお前らからるぞ!』


 三人へと迫ろうとする喰魔たちを戯猿が威嚇する。それにより喰魔たちは足を止める。が、それでも離れていかないところを見ると春たち三人を諦めていないようだった。

 戯猿と喰魔たちが睨みあう中、重護と一愛の指がピクリと動いた。


「うっ………げほっ」


「………っん。けほっ」


「―――っ! 父さん! 母さん!」


 重護と一愛がうっすらと目を開けて意識を取り戻す。そのことに喜び、二人の手を取る春だったが、苦しそうに息をして口から血を流す二人の姿に再び顔を歪ませる。一愛はそんな春の姿を見てゆっくりと口を動かす。


「は、る」


 息をするような細く、小さな声。戯猿と喰魔たちが騒ぐ中でも、春はその声を聞き洩らさなかった。


「うん! なに母さん!?」


「けほ………。ごめん………ね」


「―――え?」


 一愛が血を流し、苦しみながら絞り出した言葉は謝罪の言葉であった。


「わた、したちのせい………で。………こん、なことに」


「………ちがう」


「げほっ………俺たちが、キャン………プに、連れて、げほっ………来なければ。すまな………ぃ」


「違うよ! 二人のせいじゃな゛い! ふだりはな゛に゛も悪くない゛!」


 涙を流し、血を吐き、息絶え絶えに謝罪と後悔の言葉を連ねる。しかし、春はそんな二人の言葉を繋いだ手に力を込めて強く否定する。

 これは決して二人のせいではない。二人はただ自分を喜ばせようとしてくれただけだ。そんな二人が悪いなんてことあっていいはずがない。

 その言葉に二人は流れる涙が激しくなる。


「春、ありが………とぉ。私、たちの………子供に………生まれて、来て、げほっ………くれて」


「………母さん? いきなり何を言って―――」


「俺、たちは………春と、一緒で、幸せ………だった」


「父さんまで………やめてよ。ねえ………! ねえっ………!!」


 嬉しい言葉のはずなのに、悲しみが胸を締め付け、目から涙が溢れだす。


 聞きたくなかった。

 今の二人の話を聞いてしまえば、二人がどこかに行ってしまう。そんな風に思えてしまった。

 だから、遠くに行かないように。ここに繋ぎ止めるように、春は二人の手を強く握る。


「お願い………生き、て」


「生きて………幸せ、に………」


 声に力が無くなっていく。春を見ているはずの目の焦点は合わず、光を失っていく。

 力が抜けていく体に反し、春が繋いでくれる手を二人は強く握る。もう霞んで見えなくなった春が、最愛の息子がここに居るんだと感じるために。


 そして、最後の力を振り絞って声を出す。


「「―――愛してる」」


 弱々しく、か細い声。

 それでも、ありったけの想いを。愛を言葉に込めた。


「………父さん? 母さん?」


 春の呼びかけに二人は答えない。開いている目に光はなく、握る手から力を感じない。腕も力が抜けたように垂れている。


「ねえ、返事してよ」


 春が声をかけても、二人からは何も返ってこない。


「目開いてるじゃん。起きてるんでしょ」


 何も返ってこない。それでも春は声を掛け続ける。目の前の現実を拒絶するように。


「ねえ。ねえってば………!!!」


 それでも、拒絶したくとも頭はそれを受け入れていく。そして、ついには自分の中の何かが壊れた気がした。


「―――うああああああああああああああああっっっっっ!!!!!」


 二人の手を握り、春はその場に蹲った。かつてないほどの涙を流し、感情のままに情けない声を喉が張り裂けんばかりに叫んだ。


「父さん!!! 母さん!!! どうざん゛っ!!! があざん゛っ!!!」


『お? ようやく死んだのか』


「―――っ」


 戯猿の声に、春はゆっくりと顔を上げて戯猿に向ける。


『がははははははは! いいぜその表情! 最っっっ高だぜ!!!』


 目から涙を流し、絶望に打ちひしがれ酷く歪んだ春の顔。戯猿はその顔を見て、愉快だと高らかに笑う。その横には、優しい光を放つ球体が浮かんでいた。それは重護と一愛が死んだことを示す、二人の魔力だった。


「うっ、うう………。うう゛う゛う゛う゛う゛うう………………!!!!!」


 その光に春は二人が死んだという事実をより強く認識し、さらに押し寄せた絶望と悲しみに涙を流した。


『あー、良いものが見れた。その礼と言っちゃなんだが、お前もそこの馬鹿な親・・・・のところに送ってやるよ』


「――――――」


 戯猿の両親を侮辱する言葉に、春の中で何かが切れた。


(そうだ。こいつの、こいつらのせいで………!)


 ギリッ、と力強く噛み締めた奥歯が鳴る。目の前に立つ戯猿と周りを囲う喰魔に、胸の奥から湧き上がる怒りと憎しみをぶつけるように力強く睨み付ける。


「お前の、お前らのせいで………! 父さんと母さんは………!」


 腹の底から発せられた憎しみの声。しかし、戯猿は何も反応せず笑顔で右手を振り下ろした。


『じゃあ―――なっ!』


 笑顔で右手を振り下ろす戯猿。その前に光輝く両親の魔力。自身と戯猿をを取り囲む一つ目の喰魔たち。そして、眼前にまで迫る凶刃。


 それが、春が記憶する両親が亡くなった日の最後の光景だった。

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