天使の錯覚

森井スズヤ

死の間際の、一瞬の停止

飛び降りた瞬間、時が止まった。隣で笑顔で羽ばたく天使も、地上で無表情で僕を見上げる弟も、写真を撮る野次馬も、皆、石になったかのように固まって動かない。動いているのは、僕だけ。

ぐしゃり。地面に、全身が叩きつけられる。

しかし、意識は消えることなく、薄く薄くそこにあるまま。

殴打された全身と潰れた内臓、驚きで噛んでしまった舌から、どくどくと赤黒い血が流れ溢れ、命が消えていく。

即死、できなかった。少しだけ、生き延びてしまった。

やっぱり、十階程度の高さじゃ、僕はすぐに死ねなかったんだ。

目を閉じる。真っ暗な視界。何も聞こえない。それは、衝撃で鼓膜が破れたからではなく、世界の時間が止まってしまったからだ。

この地上の生き物全ての時が止まり、誰も何も発することなく、僕は徐々に死んでいく。

ふと、ふわりと風が吹いた。かと思うと、衝撃音と共に、投げ出した僕の手元に、別の血が流れて来る。そっと目を開けると、黒の目と僕の目が合った。天使が、時間差で飛び降りたようだ。

天使は即死。綺麗な真っ黒の目に、もう生気は無い。

きっと、神様が時を止めてくれたんだ。根拠はないけど、きっとそうだ。

ありがとう、神様。少しの間だけ、時間を止めてくれて。そのおかげで、僕は彼女をーー天使の最期を、すこしだけ見届けることができたよ。

意識が消えそうになる。薄れていく。でもまだ生きている。

嘲笑と悲鳴と関係の無いお喋りが聞こえた。煩わしい世界の雑踏が、戻っていく。ふと、急に全身熱くなった。太陽でも出たのだろうか。いや、そんなはずはない。ただ、死が近づいてきた、それだけだろう。

とんでもない熱さだ。熱い、熱い、熱い、痛い――――?


―――意識が消える。




【《僕》】

ブラック企業だった勤務先の会社。疲れてその屋上から飛び降りようとした矢先、僕の目の前に天使が現れた。まあ、天使と言っても、男性社員が裏でこっそりでそう呼んでいる、会社で一番美人の後輩の女性のことだけど。

彼女は言った。

「今から死ぬんですか?奇遇、私もです!」

訊くと、彼女は上司からのセクハラに悩まされていたらしい。顔に出さないだけで、裏ではいつも泣いていたという。

彼女が手に持っている遺書には、上司のパワハラの告発と、ついでに会社の雇用形態の悪質さが事細かに書き連ねられているという。死にたくて仕方なくて遺書なんて頭になかった僕は、彼女の死への用意周到さを尊敬すると同時に、なんだか思わず笑ってしまった。

彼女と並んでフェンスの向こう側に立つ。今日は風が強く、曇っていて、多少雨もぱらついている。夏にしては少し肌寒いが、その分空気が澄んでいて、死ぬにはとても良い、絶好の自殺日和だと感じた。

「いっせーので飛びません?」

彼女は、親しい人と話すかのように僕に笑いかける。普段から業務連絡くらいしかしていなかったのに、急に距離が縮まった。どうして僕の転機は、いつもこう終わりからなのだろう。

頷くと、彼女は髪をかき上げ笑い声をあげた。どうしたのかと訊くと、一緒に死んでくれる人がいて嬉しいのだと言う。会社内では真面目で常識人だと思っていた彼女だが、意外とネジが外れていたのか。余程セクハラが辛かったと見える。

「いーっ、せー、」

心の準備をする前に、彼女が急に掛け声を出し始める。ゆっくりで間延びした高く甘い声に、僅かな吐息が混じる。フェンスを握る手を見ると、震えている。せー、で手を離した彼女を見て、僕も同じタイミングで手を離す。数センチしかない足場にふらつく。

「の!」

バランスを崩し、変な横向きの体勢のまま落下する。落ちていく。風が顔に当たる。瞬間的に彼女の方を見ると、綺麗な姿勢で全身に風を受けていて、実に楽しそうにわーー、と声を上げている。笑顔なところを見るに、絶叫コースター気分らしい。

――ここで、時が止まった。

☆ ☆ ☆

弟が下で見ていることに気付いたのは、彼女とフェンスの向こう側に立った時。一瞬、高さの確認のために下を見た。まあまあの高さで、駅に近いため人も多かったが、弟がぼうっと此方を見て突っ立っていることだけは分かった。

弟はインディーズのヴィジュアルバンドを組んでいて、今日は初の単独ライブだったらしい。百人収容の会場でチケットも完売し、とても楽しみだという連絡が数日前に来たことを覚えている。その道中、上を見たら僕を見つけたのだろう。目立つピンク色の腰まである長髪を一つに結び、人工の安いトゲを肩や膝から生やし、あからさまに世紀末的な恰好をしている。だから遠目から見てもわかりやすいのだ。

弟はバンドのボーカル。一番目立つ存在だから普段から目立つ練習をしておきたいと、独り暮らしをしている家からライブ会場まで、そのライブで使う格好で向かうというのがルーティーンだったという。それはどうかとも思ったが、根は真面目な弟のため、何か考えがあるのだろうと、何も言わず放っておいていた。それが今、こんな形で役に立つとは。

でも、気にしない。僕はバンドという不安定な職に就いた弟を、内心見下してた罪悪感があったから。本当は好きな職に就くのが一番なのに、安定を取り小説家の夢を諦めブラック企業を選んでしまった僕に何も言う資格はないから。

でも、今思うと、弟は僕とは別の方向を見ていた気がする。

無表情で、焦りと驚きと怒りをないまぜにした目で、僕とどこかを交互に見ていたような。

気のせいかもしれない。

……死んだ今となっては、もうわからない。


【《天使》】

ボクは生まれた時から頭がおかしかった。

それもそのはず、小学生の時に性同一障害であることに気付き、中学生で人格が二つに分裂した。そして高校生の時、裏の人格が消えた。今の”私“である表の人格は蒼、消えた裏の人格は紅。性格は真逆で、蒼は明るく振る舞うのが得意な暗い奴。紅は暗く振る舞うのが得意な明るい奴だった。まあでも、それはあまり話には関係ないから忘れてもらってもいい。

そんなこんなで、周りとは違う自分が嫌で、惨めな日々を送っていた。そして高校に入学する前、思い切って性別を変えた。元々女顔で、(自分で言うのもなんだけど)顔かたちはかなりいい方だったので整形の必要も無く、中学時代とは比べ物にならない程美人な“女性”に生まれ変わった。性転換手術のとんでもない金額を負担してくれたのは、当時四つ年上の大学生だった彼氏の晴也君だった。

中学二年生の時、コンビニでバイトをしていた彼を見た瞬間、あ、この人だ、と感じた。この人がボクの運命の人だと。

あの頃は私もまだ性別が男子で、思春期で、それに自分の中身が女子だということは知っていたので、流れるように少女漫画オタクになったのもきっかけだろう。でも人とは違う中二病。それがいわゆる『シンデレラシンドローム』というものだと気が付いたのは、しばらく経ってから。

とにもかくにも、ボクは彼の虜になり、レジで無理矢理LINEのIDを押し付けた。それから毎日通い詰め、愛を囁いた。最初はウザ絡みの客だという認識しかしていなかった彼だったけど、次第に心を開いてくれるようになった。単純な性格をしているのだろう。僕が中身は女だと告白すると、へえ、とだけ言って嫌な顔もしなかった。人と関わるのに性別を気にしない彼に更に好感度が上がり、遂に告白した。かなり驚いていた彼だったが、「友達からなら」と返してくれた。じゃあ今までは友達じゃなかったのか、なんて野暮なツッコミは入れない。とりあえずOKを貰ったことに、その時は感激していた。

一年後。高校受験も合格し、無事中学の卒業式を終え、多方でのお別れ会を終え、疲れた体に鞭打って、彼にLINEをした。今日はこんなことがあった、そっちはどうだった。毎日の心の支えであり、ルーティーンにもなっている。彼は律儀に返事をしてくれるし、たまに電話にも応じてくれる。大学生の彼にはバイトも授業もあり大変だっていうのに。本当に良い奴だったんだろう。惜しい事をした、と今でも悔やんでいる。何にせよ、その日は卒業の報告とお別れ会のことを長々と書き連ねた。何十分かした後、数件返信が来ていた。急いで見てみると、これまた長文だった。私のLINEの返信に続き、挨拶と前置きの謝罪を置いて、こう書いてあった。

『(前略)今から言う事に、どうか不快にならないで欲しい。俺だってこんな差別みたいな発言はしたくないけど、理解もしてほしい。ごめんなさい。(中略)俺は、君と付き合いたいと思っている。でも、どうしても性別が気になってしまうんだ。蒼さんは確か、中身が女性だと言っていたよね。だから、俺に性転換手術のお金を出させてほしい。バイトを頑張ったり、あと…趣味で稼いだお金と、高校時代の貯金。それを合わせて、何とかお金が出せる。本当に、差別のような発言でごめんなさい。俺は君と本気で付き合いたいと思っている。どうか考えてほしい。それだけ、理解してほしい』

大分高慢的で、謝罪に見せかけた誤魔化しをしているだけな文章。でも当時のボクはそんなの気にせず、彼が告白に対し内定的にOKをしてくれたこと、そして悩みに悩んでいた自分の性別が変わることに飛び上がって喜び、数秒でOKのスタンプを何度も連打した。『ありがとう!嬉しい、明日にでも!』そう添えて。

そして翌日、日曜日。彼の授業もバイトも休みの日。友達を遊びに行くと言って親に内緒で家を抜け出し、大きな鞄を持った彼と会って手術を行った。意外とあっさりと終わり、目が醒めると、“ボク”は“私”となっていた。

性別が変わったことを親に何と言おうか考えていると、彼はちゃんと私の親に説明をすると言う。その足のまま家に上がり込んだ彼と、性別の変化した私と見知らぬ青年を交互に見て驚愕した両親との口論は、夜中じゅうずっと続いていた。

翌日の朝。何とかして言いくるめたらしい彼は、疲労した顔で大学へと向かっていった。持参していた大きな鞄には、日用品に加え教科書と、ある程度の身だしなみグッズが入っていたらしい。

何日かして、女性としての生活に慣れて来た頃。コンビニでお昼を買っていると、突然彼と似た顔の別人に話しかけられた。驚いていると、彼の兄だと言う青年は、早口でまくしたてた。

「弟に写真を見せられて紹介されたんだ。やっぱり美人だね、会えて嬉しいよ」

それからお兄さんは、弟について暫く語った。自慢の弟で、とても優秀なんだと。授業は全部真面目に受け、成績も素行も良いという優等生だと。五分程話した後、お兄さんは「長々と喋ってごめん」と言い残し、去っていった。嵐のような人だったけど、どこか清潔感があり、少し胸がときめいたのを未だに忘れていない。

そして、お兄さんの知っている彼の姿は表の姿だと知ったのは、付き合うことになった時のこと。

その日は彼のライブの日。元々バンドをやっていると聞いていたので、メジャーでありきたりな優しいバンドかと思っていたが、なかなか誘ってくれないことに違和感を感じていた。でも特に気にしてはいなかった。多分、知り合いに趣味の活動を見られるのが恥ずかしいとかそういうことなのだろうと思っていたから。でも、付き合うことになった翌日、彼は覚悟を決めた表情で、私にライブのチケットを渡してくれた。初の単独ライブで、しかも活動二周年だという。キャパは八十人。この一枚で、無事完売だという。私は嬉しくて、彼の覚悟の意味も察せぬまま、浮かれ気分でその日を迎えた。

驚いた。正直、引いていた。少女漫画が好きで、運命の出会いを夢見ている、女子よりも女子な私に、ヴィジュアルバンドは合わなかった。お花畑だった脳内が、一瞬で荒野へと変わる感覚。別れよう。そう決めた。

だから彼は隠していたのか。ヴィジュアルバンドという、かなり人を選ぶジャンルに力を入れている自分を、果たして私は受け入れられるのか、それを気にして今まで話してくれなかったのか。全部気が付いた時、もう中学時代の恋は終わっていた。

冷めた目で別れを告げた私に対し、彼はもうそれはそれは苦しそうに泣いていた。自分の好きなものを否定され、受け入れられてもらえず、挙句一日で別れを告げられた。今思うと、あの頃の私は大分酷い奴だった。運命の白馬の王子様以外、正当派でキラキラした男性以外受け付けない、根が腐った元男子。本当に嫌な奴だ。

彼と別れて、ぼうっとしているうちに、月日は経っていく。数年経ち、当時の彼と同じ大学生になった。高校時代のことはあまり覚えていない。特に何も起こらず、平穏な日々を過ごしていた気もする。大学時代もそんなに変わったことも無く、そのままブラック企業を選んで就職してしまい、挙句このザマ。自殺なんかしてしまった。

でも、驚いたなあ。ブラック企業に彼のお兄さんが働いていて、しかも私のことに気が付いていない。あのあとすぐに別れたから、そんな酷い女のことは記憶から抹消したのかもしれない。だから、あんまり関わりは無かった。

そして、死のうと決意した日が、彼のお兄さんと被るというね。偶然しては出来過ぎてる気もするけど、多分、運命の人は彼ではなくお兄さんだったのだと思う。だから一緒に飛び降りた。身体が宙を舞って、コンマ数秒。意識は消えて、今、ちゃんと死んでいる。

もしかしたら彼との恋に冷めたあの日、表と裏の人格が入れ替わったのかもしれない。

そうでなければ、こんな人生送っていないよ。


……死んだ今となっては、もう分からない。







事を全て見ていた弟は、警察からの事情聴取に、何も語らなかった。

ただ、ひたすらに泣いていた。

まだ綺麗な、二振りのナイフを持ちながら。

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