第26話
五日後。
新藤は暫くぶりに、如月探偵事務所のドアを開いた。
ずっと入院していたため、如月と会うことも久しぶりだ。だが、如月はそんな新藤を歓迎するわけでもなく、どこかに電話をかけているらしかった。
「うん。新しいものを作ったのなら、今度持ってきてくれ。何かの足しになるかもしれないから」
如月は事務所に入ってきた新藤を一瞥したが、その視線は鋭いものだった。
「じゃあ、また今度だ。頼んだぞ、重田博士」
如月は微笑んでから電話を切ると、新藤を見て笑顔を見せた。
「新藤くん、怪我の方は…問題なさそうだね」
「はい。激しい運動は控えるように、と言われていますが、大丈夫です」
「それは何より。ここに独りでいると気が滅入るからね、来てくれて良かった」
「それこそ、何よりです」
新藤は自分のデスクに座り、残したままだった、以前の依頼人へ提出する報告書の作成に取かかかった。如月は、もうやることがないのか、椅子にもたれ掛かって天井を見つめている。十分ほど作業をしてから、新藤は思い当たったかのように口を開いた。
「あ、そうだ。如月さん…」
如月は天井に向けられていた視線を落として、新藤を見る。
「百地さんの件ですが…」
「なんだ、触れて欲しくない話だと思って黙っていたのに」
「別に…気を使われることは、ないつもりですけど」
そう言う新藤だが、微かに頬が引きつっている。気を使われている、と思うと気になるものだ。
「……僕がどう思っているかは別として、報告があるんですけど、良いですか?」
「何かな? あ、待った。私も一点だけ、その件で君に報告しておくことがある」
「なんですか?」
「あの後、木戸は警察に保護されて、病院に送り込まれたそうだよ。でも、一昨日…病院から脱走したそうだ。普通の人では動けないほどの怪我だったのにね。もしかしたら、君の前に現れるかもしれない。注意した方が良いかもね」
「……それはないと思いますよ。木戸は、僕に興味はありませんから」
そう言う新藤も、木戸に対して興味がなかった。いや、なくなったのだ。彼にとって、木戸は嫌な想い出の一つだった。
しかし、あの夜、木戸のことは、本当の意味で過去にすることができた。つまりは、過去を乗り越えた瞬間だったのだ。
「ふーん、そうなんだ」
如月は、新藤が予想とは違った反応を見せたので、少しつまらなかったらしい。
「それにしても、頑丈な男ですねぇ」
と新藤は呆れるように言った。
「それは間違いない」
と如月も同意する。
あれだけ頑丈ならば、もしかして異能力者なのではないか、と新藤は思った。
「じゃあ、木戸の話は以上だ。君の報告、聞こう」
と如月が話題を変える。
「はい。ここに来る前、百地さんに会ってきました。彼女も陸くんも、特に怪我はなく、平穏を取り戻しつつあるようです。今のところ、同じ顔をした女性が訪ねて来るようなこともなければ、不審者が周辺をうろつくこともないようです。それから、飯島清司とは離婚を決意したとか」
「へぇ、良かったじゃないか」
「そうでしょうか。シングルマザーは何かと大変でしょう」
「君が支えてやれば良いじゃないか。何なら、再婚相手として、立候補したらどうだい?」
「……やめてください。僕は身も心も、如月さんに仕えているつもりですから」
新藤なりに如月へ愛の告白だったが、彼女は「それは頼もしいね」とだけ言って、取り合ってくれる感じではなかった。
「それにしても、分からないことがあるんですが」
と新藤は照れ隠しで話題を変える。
「なんだい?」
「どうして、飯島清司は自分の妻を殺すために、殺し屋なんて雇ったんですかね?」
「……あれ、気付いてないの?」
「どういうことですか…?」
如月は溜め息を吐く。どうも話すことが億劫らしい。
「まぁ、良い。君が本当に身も心も、私に仕えているつもりなら、それがどんな理由であれ、大丈夫なんだろう。過去と決別するつもりで、しかと耳にすると良い」
そう言って、如月は事の顛末を語り始めた。
飯島清司が妻を襲わせた理由も復讐だった。何に対する復讐なのか。
それは陸が自分の子供ではなかったことだ。
結婚当初、飯島はもちろん、陸が自分の息子だと思って、可愛がった。しかし、息子が成長するにつれ、その顔が自分にも、妻にも似ていないことに気付いた。
不信感を抑えきれなかった飯島は、探偵を雇って、百地の交際歴を調べさせた。すると、驚くことに自分と交際を始めた時期に、複数名の男と交際していることが分かった。しかも、結婚の直前まで、その関係は続いていたらしい。彼女が身籠っている、と分かったのも、そのタイミングだ。
飯島は秘密裏にDNA鑑定を行い、息子と自分にはつながりがないことを知る。それは、プライドの高い彼の心を傷付けた。四年も妻と息子のため、身を粉にして働いてきたつもりだったが、それはすべて裏切られていたのだ、と。
彼はそのプライドから、離婚することも嫌ったし、周りからも浮気されていた男、として認識されることを嫌った。だから、どうしても…そんなことが発覚する前に、妻と息子を闇に葬りたかったのである。
「つまりね、飯島は悪い人間だったが、それを生み出したのは、過去の百地の素行の悪さが原因と言えるわけだ。今の彼女がどうなのかは知らないよ。でも、当時の彼女は、性根が腐っていたのだろうね」
話を聞いた新藤は、どこか遠い目をしていたが、小さく溜め息を吐いてから、こんなことを言った。
「百地さんと優花梨さんの違いは、どこにあったのでしょう」
「……私は優花梨と少しだけ話した。彼女は、ずっと木戸との関係を続けていたそうだ。どこかのタイミングで、木戸を見切った百地とは違ってね」
如月の言葉に何も反応を見せない新藤。如月は続けた。
「木戸を最悪な男として見切った百地は、思いやりのない人間になってしまったが、表面上は幸せだった。それに対し、木戸を見捨てることなく、寄り添い続けた優花梨は、優しく純粋な彼女のままだったが、表面的には不幸せだった。お互い矛盾を感じながら生きていた、ということは変わりがないみたいだけれどね」
新藤は、やはり何も言わない。如月はもう少しだけ続けることにした。
「それは木戸にも言えることだ。優花梨の世界の木戸は、短気で仕事も続かず、彼女に手を上げるような、駄目な男だったらしい。だけど、こっちの木戸はね、割と仕事場で評判が良かったそうだ。あの男は百地優花梨と一緒にいたから、駄目になった。彼女が傍にいない方が、木戸は真っ当に生きられたんだよ」
「だとしたら…」
やっと、新藤が口を開いた。
「だとしたら、木戸には更生の余地があるはずです。優花梨さんは元の世界に戻って、きっと木戸を立ち直らせるのではないでしょうか。そして、優花梨さんは向こうで、ちゃんと幸せになる。もちろん、百地さんも…こっちで、ちゃんと幸せを掴みますよ」
お人好しだ、と笑られるかもしれない。そう思ったが、如月は意外に優しく微笑んだ。
「そうかもしれないね」
そして、こう続けた。
「まぁ、君なら大丈夫だよ」
何が大丈夫なのだろうか。そう訪ねようとしたが、如月が仕切り直すように手を叩いた。
「では、働きたまえ。私の予感では、そろそろ新しい依頼が入る。今回も、きっと厄介な異能力者がらみだろう。異能探偵としての、腕の見せ所だ」
「えええ…またハードな依頼が続くんですか? せめて、もう少し怪我の調子が良くなってからが…」
そう言いながらも、次の依頼人にとって少しでも救いの手になれるよう、新藤は心の中で気合を入れ直していた。
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