13 再来。一年でいちばん長い引っ越し
朝、ベッドから出て、恭平は身震いした。
最近、日が昇るのが遅くなった。厚手のトレーナーを着て、冷えた車に乗り込む。薄暗い駐車場を抜けると、窓から営業所のストーブが見えた。
「おはよう、水谷くん!」
朝礼の前に、チームで今日のスケジュールを確認しているところだった。営業部長が肩を叩いた。
「部長。おはようございます」
「ごめんね、そっちの朝礼が終わったら、ちょっと僕の机で待っててくれるかな?」
「え……」
30分だけ! と言い捨てて、部長は営業部の朝礼に行ってしまった。
「どしたんすか?」
一緒に回る後輩が眉をひそめる。
「さあ……? 悪いけど、とりあえず準備だけ先にしておいてくれるか」
後輩をトラックに向かわせると、恭平は手持ち無沙汰に机で待った。
すると先輩の
「なんだ、水谷も呼び出しか?」
「畑さんもですか」
小さくまとまった顎髭をつまみながら、畑は机を見下ろした。
「……俺ら、なんかやらかした?」
「特に覚えはないんですが……引っ越し後の顧客クレームですかね……」
「つっても俺たち、ここんとこ組んでないよな。別件で同時呼び出しか?」
「ごめんごめん! 忙しいときに申し訳ない」
営業部長が腹を揺らせて戻ってきた。部長は脇に抱えていた分厚いファイルを机に置き、椅子をきしませて座った。
「ええとねぇ、実はお願いがありまして」
「……現場作業でミスでもありましたか?」
畑が背筋を伸ばして尋ねた。
「ミスなんてありませんよ。むしろ、その仕事ぶりを買われて、とでも言いますか……」
畑と恭平は目を合わせた。部長がファイルを開いて続けた。「覚えてますか。昨年5月、予定していたトラックのサイズを変更して、人員も急遽増やした現場。君たちが担当した案件ですが」
「昨年5月……?」
顎髭をなでる畑の隣で、恭平が生唾を飲んだ。
それって、まさか……
「絵画作品が山盛りのお宅だったでしょう? 吉野和美さん……いや、名字が変更されてるな」
そこまで聞いて、やっと畑も表情を変えた。営業部長が首をすくめた。「覚えてないですかねぇ」
「覚えてます……」
「よかったぁ!」
部長は大げさに柏手を打った。「実はそのお宅がね、引っ越し作業後の『家具移動サービス』をお願いしたいって」
「は?」
言ってしまってから、慌てて口を押えた。営業部長の目が鋭くなった。しかし、これ幸いと畑が続けた。
「家具移動サービスは、引っ越し後一年以内の無料サービスです。もうとっくに期限は切れていますが」
畑さんナイス。
正直、いまさら樹里の母親のところになぞ行きたくない。
「そうなんだよー。でもね、あちらさん、どうしてもうちのスタッフにお願いしたいって聞かないのよ。有料でいいからやってくれって、電話越しですごかったんだから。
畑は口をつむいだ。引き受けたくないと言いたい気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
「部長。私たちは最初の搬出しか担当していません。新居に搬入したスタッフに頼んで頂けますか。彼らの方が間取りも判ってスムーズに作業できるでしょう」
「ダメだって。君たちを指名してるんだもん」
「いやいや、御冗談を……」
畑は怪訝な顔でこちらを見た。確かにおかしい。クレーム以外で作業員が指名されるなんて、聞いたことがない。
「ほんとだよ。畑くんともう一人、『一緒にいた背の高い作業員を必ず連れてきて』、って。どう見ても立派なご指名でしょう!」
部長の後ろで、総務の女性が腰をあげた。
そろそろトラックが出発する時間だ。
畑は黙り込んで顎髭をつまんでいたが、観念したように手袋をつけ始めた。
車庫からトラックのクラクションが聞こえる。恭平も帽子をかぶり直した。
「行ける日にちが決まったら教えてね~」
机に腹をつっかえさせながら、部長は手を振った。
「ああーもう! なんで俺たちなんだよ」
助手席のヘッドレストに、畑は頭を押しつけた。恭平は力なく笑い、ワゴン車のハンドルを切った。
営業部長の話から三日後。二人は箕田和美の新居に向けて、会社のワゴンを走らせていた。
「箕田さん、北部に引っ越してたんですね」
恭平はナビを一瞥した。
「家具を動かすだけなら、もっと安い業者もあるのにな」
「ほんとですね……」
樹里のことを考えると、頭の奥がじんと痺れた。おそらく彼女もまだ行ったことがない母親の新居に、自分が先に行くことになるとは――
高速を降りて、ホームセンターやパチンコ屋が点在する4車線道路をひた走る。
やがて、あたりは田園になった。刈り取られた田んぼの向こうに、三角屋根の農協が見えた。
さらに進むと、住宅地が見えてきた。ゆったりとした平屋が多く、道路の脇には農業用水路が流れている。
交差点で、恭平は慎重に左右確認した。このあたりは道が細くて、さらに平屋の垣根で見通しが悪い。
《目的地に到着しました。案内を終了します》
ナビがアナウンスした。
「え、このあたり?」
そのときだった。場違いな住まいが、恭平の目に飛び込んできた。
オフホワイトの外壁。オレンジ色の洋瓦。垣根はなく、白木板の門柱がひとつだけあった。そこから玄関までの芝生が広々と見渡せる。
箕田邸だけが、南欧の空気に包まれていた。
玄関のチャイムを鳴らすと、足音が聞こえた。
「いらっしゃい。今日はありがとう」
箕田和美は、一年半前よりも綺麗になっていた。
「――そこで止まって!」
「あの……作業できないんですが」
中腰のまま、畑がつぶやいた。鉛筆を立てて、和美は目を細めた。「時間が延びるってんなら追加料金払うから。もう少し付き合って」
恭平は腕に力をこめたまま、ため息をついた。
なるほど自分たちが指名された理由が判った。家具移動兼、モデルで呼ばれたというわけか。
前の家と同様、ここも一階のリビングがアトリエに改造されていた。大量のキャンバスを棚から出して、二人で反対の壁際に運ぼうとしていたところで、和美に動くなと言われたのだ。
「ギュスターヴュ・カイユボット」
クロッキー帳に鉛筆を走らせながら、和美はつぶやいた。「都市労働者を描いたフランス画家。あたしは彼の着想がとても好きなの」
「『床削り』ですね」
和美が顔をあげた。「俺も好きです」
「意外だわ」
「水谷、絵に詳しいんだな」
棚にキャンバスを戻しながら、畑がささやいた。いつも樹里が図書館で借りてくる画集のひとつにカイユボットがあっただけだ。
「ねえ、うちの床ちょっと傷んできてるんだけど、研磨する機材とか積んでない?」
「うちは引っ越し業者ですから。ワックスがけなら致しますよ」
和美は肩をすくめた。鉛筆を置いてキッチンに立つ。
「コーヒー飲む?」
「えっと……」
現場でコーヒーを淹れてもらうのも初めてだ。
「お言葉に甘えようや」
畑はあきらめたようで、和美からマグカップを受け取った。恭平もカウンターに近づいた。そのとき――心臓が高鳴った。
冷蔵庫に貼られた一枚の絵から、目が離せなかった。フィルムカバーで丁寧に保護されたその絵は、明り取りから差し込んだ光に照らされて、きらきらと輝いていた。
「どうしたの?」
「いえ……」
恭平はカップを呆然と受け取った。
――樹里に知らせないと。
これだけは、あの子に、伝えてやらないといけない。
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