12 いつか幻になるまえに

 一週間前、進路調査票が配られた。

 前の席から用紙が手渡しされていく。クラスメイトの目が、いつもより緊張しているように見えた。

「まだ2年生の進路調査だから。進学か、専門学校か、就職か、それくらいは考えておけよ」

 先生の声が遠くに聞こえる。

 樹里は、シャーペンに力を込めて、名前だけ書いた。


「お父さん。ちょっといい」

 しゃもじを持ったまま、父は黙った。

夕飯が並んだダイニングテーブルで向かい合う。

「進路なんだけど」

「そうだね」

 そう言ったきり、父は食べ続けた。みそ汁。サンマ。ほうれん草のおひたし。ご飯。またみそ汁。

「お父さん、ちゃんと噛んでる?」

 父は黙ったままだった。

諦めてみそ汁に口をつけたら、頭上でぽつりと声が降った。

「担任の先生と大学を選んで、決まったら教えてくれたらいいよ」

 手早く食器を重ねて、父は椅子から立った。

 なにか言おうとする前に、父は食器を洗い、速やかに出ていった。

 みそ汁椀のなかで、ワカメがゆっくり揺れていた。


「そっか。もう進路考えなきゃだったか」

 美術準備室で、のんきそうに建明はコーヒーをすすった。

「どうしよう」

「吉野が行きたいところを選べばいいだろ」

「……美大?」

「さあ」

 Ⅴネックセーターの下のワイシャツの袖を出そうと、建明はもぞもぞしている。

「真面目に考えてよ」

「なんで俺がお前の進路を決めにゃならん。俺が決めたらそれに従うのか?」

「そうじゃないけど……迷ってるんだから、顧問としてアドバイスしてくれてもいいやん」

――「美大にするんだろ?」と本当は言ってほしかった。そう言ってくれたら、きっと、今より悩まなくてすむ。

 美大は、お金がかかる。そして現役合格がとても難しい。以前通っていた画塾でも、何年浪人したかわからない人達を何人も見てきた。

「じゃあひとつ」

 デスクチェアを回して、建明は樹里と向かい合った。「美大はやめといた方がいい」

 石油ファンヒーターが、低い音を立てた。

「美大にいっても、正直喰えるかわからんしな」

「……建明くんが見本やん。美大いって、ちゃんと高校教師やってるでしょ」

「俺みたいな幸運なやつが、美大生の何%にあたると思ってんの」

 建明はコーヒーカップを揺らした。「美大のパンフレットには、学芸員とか教師とか、取れる資格もいろいろ書いてあるけど、そんな就職先を見込んで美大に入るやつ、はなから何人いる? 油絵科とか日本画家なんて、才能とか画力を信じて美大にやってきたクセのあるやつばっかりだぞ」

 どろどろに溶けたろうそくが頭に流れ込んできて、浮かんでくる反論を焼きつぶしていくようだった。

「美大に入るだけで何年浪人するかわからない。そのあと就職できるか保障もできない。俺みたいに現役合格して大学で研修生したあとに教員になれるって、ほんとエリートコースよ。お前がそんな器用に立ち回れるとは思えないね」

「……なんでそんなこと言うの。そんなの、やってみないとわからんやん!」

「アドバイスして欲しいって言ったのに、思ったのと違ったからって、怒んなよ」

 ゆっくり2回、ドアをノックする音が響いた。

「すみません、先生」

 ウィズローが顔を出した。「教えてもらいたいことが……あったけど、いいです」

「どら、行くよ」

 コーヒーを飲み干して、建明は立ち上がった。樹里の背中を押して、強引に歩かせた。「今度ゆっくり話そう」

――みんな、自分勝手にものを言う。

 背中に触れる手の大きさを感じながら、下唇を噛むしかなかった。

「ここなんですけど。どう濃淡をつけるといいか……」

 キャンバスの前で、ウィズローは腕組みをした。

 もうすぐ締切りの公募展に出す予定の水彩画だった。中庭から校舎を見上げているアングルで、生徒たちが窓際で談笑している。

 画力だけでも十分だが、それだけではなかった。

「誰も気づいていないんだね。この絵の中にいる人たちは」

「シュール過ぎますか?」

「いいんじゃないか」

 建明が顎をかいた。

 ダムに沈んだ建物のように、学校が水で満たされていた。よく見ると、校舎に擬態した半透明の魚も泳いでいる。

「木嶋の絵は、水彩画の透明感がよく活かされてるな」

 建明はいくつかアドバイスをした。手直しすると、より透明度が高くなった。「この公募展、吉野も出すんだろ。できたか?」

「できてるよ」

 棚にしまっておいたキャンバスを見せた。

「油絵か」

 カラスの上半身の絵だった。背景はあえて何も塗らずに、キャンバスの肌理そのままにしておいた。

「白と黒のコントラストがいいですね」

「タイトルは?」

「『黒いカラス』」

「なんでわざわざ『黒い』カラスってつけるんですか?」

「カラスのすべてが黒いって、誰が決めたの?」

 ウィズローが後ろに両手を組んだ。「カラスだって、黒もいれば灰色もいる。アルビノの白もある。だからこれは、『黒いカラス』」

――なんか、今日はちょっとおかしい。いつもは自分の絵について語ることなんてしないのに。いらいらする……。 

 だってみんな、自分勝手にものを言うから。

「長くは生きられないけど、白いカラスもちゃんといる」

「おし、分かったよ。じゃあ、申し込み用紙に出展料を添えて、早めに俺のとこに持ってきてくれな。締め切りに遅れんなよ」

 建明は時計を見た。「職員会議があるから出るわ。あとはよろしく」

 ドアが閉まると、ウィズローはキャンバスに向き直った。樹里はウィズローの横に立って、もう一度絵を眺めた。

「素敵な絵だね」

「ありがとうございます」

 素っ気ない返事だったが、耳が赤かった。

「一年生のみんな、出さなかったね」

「実力がないから、って言ってましたけど。そんなことないと思いますが」

「ほんとだね。でも、木嶋くんは確かに上手いよ。部活も真面目に来てるし」

「今日の自主練も俺だけですよ、えらいでしょう?」

 ウィズローが頭を傾けてきた。

「えらいえらい」

「思えば、生徒会から運動会の看板を頼まれたときが、一番活気ありましたね。部員数もぎりぎりだし、なにかイベントを起こすにも難しいですよね」

「あー……それはほんと、美術部の評判を下げちゃったせいで、ごめんね」

 ウィズローの筆が止まった。

「――なんです、それ?」

「……知らないの?」

「え、いや。だからなんです、それ?」

「一年生のあいだで聞かないの?」

 ウィズローは首を傾げた。

「……そっか。もう、みんな知らないんだ……」

「聞いちゃまずい話ですか?」

 もちろん、言わない方がいいと思った。当事者の自分が話すのは、噂話とは重みが違う。

 だけど、今日は聞いてもらいたかった。

 みんな、自分勝手にものを言うから。

「――2年前なんだけど」

「先輩が、一年生のときですか」

「うん……かやちんとアミと三人で美術部に入った年の秋。二年生の先輩が、美術室で自殺未遂したの」

 ウィズローは黙って、美術室を見渡した。

「当時の美術室は、いまは社会科準備室になってるよ」

「あ、そうですか……」

「ごめんね……」

「そんな、謝るほどじゃ……」

 ウィズローが眉をひそめた。「先輩が留年したのも、なにか関係あるんですか?」

「そうだね。ちょっと、具合が悪くなっちゃって」

「自殺未遂した先輩のことで?」

「うちとその先輩、一時期、仲が悪かったんだ。事件のあと、警察が来て色々聞かれた。それで、あれって、うちのせいだったのかなぁ、って……」

 ウィズローは黙って椅子の位置をずらした。

「――木嶋くんは、学校のヒエラルキーって感じる?」

「ヒエラルキー?」

「うち、そういうの、いまだによく判らない……」

「……クラスに幅を利かせたやつとか、人気者っていますよね? 逆におとなしいやつもいるし、不良もいる。そういう『立ち位置の違い』をいうんじゃないですか?」

「ああ、そういうの……」

「さあ。俺はそう思いますけど」

 ウィズローは手のひらで水彩絵の具を転がした。

「その先輩は……最初はうちのこと、すごく褒めてた。でも、そのうち友達とかクラスの皆をバカにして……自分と一緒にいるほうがいいよ、って、うちのこと誘ってた」

 彼の肩がぴくりと動いた。

「それで……なんというか」

 返事がない。

 樹里はウィズローを覗き込んだ。彼はじっとキャンバスを睨みつけていた。目線の先に、思わず生唾を飲んだ。

――佐久間先輩。

 水に沈んだ校舎の窓際に、先輩がぽつんと佇んでいた。淡い絵の中で、先輩の顔は判別できないくらいにぼやけている。

 樹里は潤んだ瞳で瞬きをした。ウィズローはまだ黙って背中を曲げている。

「……それで、うちはうちで、負けずに言い返したの。ヒエラルキーとか、そんなの気にしたことない、って。廊下で叫んで……そう、うちはたぶん、許せなかったんだ。でも、そのせいで……」

「その先輩はカスですね」

 そのつぶやきには、聞き逃せない鋭さがあった。「自殺しようなんて、どういう神経してんですかね」

「木嶋くん……?」

「俺の父親、去年亡くなったんです。ここに入学する直前に……。ずっと患ってた病気だから、しょうがなかった……。でも、そいつの話聞いてると……」

 ウィズローの太ももに、拳が置かれた。「それなりに教育を受けて、ある程度好きなことができて、それなのに死にたくなるとか……。そんなやつに振り回されて吉野先輩が苦しむことなかったんです」

 廊下を走って行く誰かの足音が聞こえる。ウィズローが小さく首を傾げた。

「男の先輩だったんですか?」

「……うん?」

「好きだったんですか?」

「――好きじゃなかったけど、嫌いでもなかった」

「なんすかそれ。先輩って博愛主義者でした?」

 イーゼルが揺れた。ウィズローが小刻みに息を吐いた。

「……どうしよう」

「なにが?」

「うち、話す相手を間違った」

「俺には話すことじゃなかったって、いまさら気づきました?」

 吐き捨てるように、ウィズローが笑った。

「違う。そうじゃなくて……木嶋くん、泣きそうな顔してるから」

「……」

「辛いこと思い出させたよね。ごめん」

 ウィズローが顔を腕で隠した。「ほ、ほんとごめん! うちはこういうところが、無神経で……」

「……無神経じゃないです」

 ウィズローがささやいた。「先輩は……言葉の使い方が間違ってるんですよ」

「え? そ、そう。ぜんぜん判らないけど」

 ウィズローが、肩を揺らして笑い始めた。

「先輩って、クールに見えて、難儀な性格してたんですね」

「そ、それはどういう意味?」

「不器用なのに、優しい、ってことです」

 なんだか、肩の力が抜けた。樹里はむーん、と唇をすぼめた。

――みんな本当、好き勝手言うんだから。



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