18 花束の祈り
3月だというのに、朝から雪が舞っていた。ダウンコートを羽織り、
体育館で赤々と燃えるストーブに手をかざす。まだ誰も座っていないパイプ椅子が整然と並んでいる。あと少しで卒業式が始まる。
「ちゃんとスーツ着てきましたね」
背後から、滝本が顔を出した。
「先生のセットアップも似合ってますよ」
ふふんと笑い、滝本は並んでストーブに手をかざした。熱気があたる下半身は熱いくらいなのに、吐息は白い。
「――滝本センセさぁ、関先生に変なこと吹き込んだでしょ?」
「なんのことでしょう」
「この前、謝られちゃったよ。『知らなかったとはいえ、生徒の恋愛にまで首を突っ込んでしまい、云々』って」
「関先生、律儀ぃ」
「ニアミスを誘うなんて、悪い人だ」
「なにを甘いことを」
滝本が、指で束ねた髪をすいた。「生徒を守るためだったら、あたしはなんでもやりますよ」
「見習いたいもんです」
「佐久間君も、そうしてあげたかった」
「……仕方ないですよ」
建明は、顎をダウンコートにうずめた。ストーブの火が、ちりちりとズボンを熱していく。鉄扉が開く音がした。教員たちがぞろぞろと体育館に入ってきた。
生徒たちは卒業証書の筒を持ち、校門前でめいめいに写真を撮っている。
建明は廊下の窓からそれを眺めつつ、美術準備室に戻った。
ドアが、少し開いていた。
「……いたのか」
「お疲れさま。建明くん」
窓際の桟に腰かけて、樹里が小さく首を傾げた。
「卒業式、出てた?」
「ここで待ってた」
桟から降り、樹里は机にあった花束をとった。
「トルコギキョウじゃん。珍しい」
「佐久間先輩にと思って。一緒に来て」
旧美術室の前に、並んで立った。今は社会科準備室になっていて、大型地図や、ダンボール箱で満たされている。
樹里はドアの前にそっと花束を置き、両手を合わせた。
「いや、まだ死んでないけど」
「いいやん、祈るって意味で」
樹里は顔を赤くして睨んだ。
「なるほど」
建明もポケットから両手を出した。遠くで、卒業生の笑い声が聞こえた。
「……先輩は、なんでここを選んだのかな?」
「さあ」
「美術室は、先輩にとってどんな場所だったのかな」
「知らん」
「建明くん、冷たい」
「マジで知るかだ。あいつのことは、ほんとに判らなかった。あいつが描く絵ですら、自分を誤魔化してるように見えたよ。なにを我慢してたのか知らんけど、もっと表に出せばよかったんだ。それでため込んだあげくに、いきなり自殺なんて、極端なんだよ。後遺症まで残しやがって。大きなハンデだ……これからの人生どうするんだよ。ほんと、バカなやつ」
「そんなに悪態つかないでよ」
「はいはい、やめます。もうあいつは俺の生徒じゃないしね。今日でやっと肩の荷が下りたよ」
「……ほんとう?」
「……少しはな」
建明は、空気をつまむように二本の指を立てた。「やれやれ」と、花束を拾いあげる。
「つーかさ、花もってくるなら部活のある日にしろよ」
「なんで? 卒業式なら目立たないと思って、今日にしたのに」
「考えろよ。デッサンできないだろ」
「……モチーフにするの? 嘘でしょ」
言い合っているうちに、花束から花弁が一枚、ひらりとはがれて、廊下に落ちた。
――ごめんね、吉野さん。
自殺を図るなら、美術室がいい。
佐久間幹弘は、自室の机で身じろぎもせず、小さな鍵を見つめていた。
とにかく、死ぬふりをするだけなんだから。
ペンライトを頼りに、真夜中の階段を降りる。診察室のドアを回して、隣の調剤室にそっと入った。薬棚を開き、睡眠薬の箱を取る。中身をジップロックに入れ替えて、空箱を棚に戻した。ただし、一番奥に。中身が空だとすぐにばれないように。
睡眠薬で死ねるなんて、ひと昔前の話だ。飲んでいるうちに嘔吐が始まって、病院で胃洗浄されて終わりだって、父さんも言っていた。
でも、ここはあえて知らなかった線でいく。僕は無知な息子で、家の薬棚から睡眠薬を盗んで、学校で大量に服用。それくらい悩んでいたってことだ。病院に担ぎ込まれて、母さんが取り乱しているところで、悩みを打ち明けよう。
これで、進学のプレッシャーもしばらくないはずだ。
薬を飲むのは学校がいい。いじめだとかなんだとか、こじつけが一番しやすい。人間関係で疲れました。いいな、判りやすいストーリーだ。吉野さんにも協力してもらおうかな。昨日、廊下で言い合ったばかりだし……
学校には居づらくなるだろうけど、もういい。湊沢なんてバカばっかりだ。これが終わったら大検を取ろう。
ジップロックの中に詰め込まれた錠剤のアルミ箔が、ペンライトの光に鈍く反射した。
秋風の気持ちいい日で、空には細長い雲がたなびいていた。
教室には寄らずに、美術室に向かった。大丈夫、一限目はどこも美術の授業は入っていない。でも、隣の準備室には建明先生がいる。
――佐久間。なにか悩んでるなら、授業サボっていいから俺んとこ来いよ。一限目はいつも美術準備室にいるから。
ありがとう先生。一度も行かなかったけど、ここで役に立つとは思わなかったよ。あなたが第一発見者だ。
流し場のタイルに腰かけて、窓を開けた。風がカーテンを揺らした。
携帯を出して、メールを打つ。それは、ちょっとした予告文だった。そして、もしかしたら、この自殺は茶番劇だったのだと判るかもしれない文面。
吉野さんごめんね。俺の事、恨まないでね?
こう送るつもりだった。けれど、失敗した。
思っていたよりも緊張していたのか、指が震えが治まらなかった。時計の針が刻一刻と進んでいく。焦ったあげく、中途半端なところで送ってしまった。
吉野さんごめんね。俺のこと恨まないで
カバンに忍ばせていた睡眠薬を、手のひらいっぱいに載せてアルコール飲料で飲み込んだ。缶のギラギラしたラベルと弾けるレモンのイラスト。胃が、ひくひくし始めた。さらさらとした唾が、流し場に落ちていく。
ほら、来いよ。建明先生。派手に僕を助けろよ。
嘔吐が始まった。眼前に火花が散って、膝が崩れた。たまらず、流し場に顔をうずめた、そのとき――
どぼん。
視界一面に、青が揺らいだ。流し場に置きっぱなしになっていた、筆洗い用のバケツ。洗面器ほどの大きさしかないのに、そこから逃げ出せなかった。
鼻に水が入ってきて、肺が膨らんだ。ブルーの世界に吐しゃ物が混じって、一気に濁っていく。
目の前が暗くなっていくなかで、窓際に揺れるカーテンが見えた。窓の外は広くて、手を伸ばしたけれど――
蘇生されてから数日して、吉野さんが、母親と一緒に病院に来た。母さんは頑として僕に会わせまいとして、病室の入り口でずっと話していた。カーテン越しに聞こえる口論。母さんの泣く声。
そして、吉野さんのお母さんの冷ややかな言葉。
「謝りますけど、私は樹里が一方的に悪いとは思っていませんから」
その通りです。吉野さんはなにも悪くない。僕が、吉野さんを生贄にしただけなんです。
息を止めるように、両手でシーツを顔に押し付けていた。
だけど、僕からは謝れない。どうしたらこの気持ちを収められるのか、もうなにも判らない。
吉野さん、ごめん……。
どうか、僕のこと、恨まないで。
「あ、もしもし恭平?」
コンビニの前で、樹里は携帯を持ち替えた。「卒業式終わった。いま帰るとこ。肉まん買っていくけど、なにがいい?」
電話を切り、樹里は画面を静かに眺めた。
白い吐息が、マフラーの隙間からたゆたう。
冬の空を見上げて、樹里は、ほんの少し微笑んだ。
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