第128話 男の意地
大自然に生きる者は、逃げるのが上手いものである。
そして食べるものである。
ここは自分なら勝負を避けるな、と昇馬は判断する。
しかし鬼塚が言っている、勝つには守らなければいけない、というのも分かるのだ。
昇馬を抑えてやっと、勝機が見えてくる。
あちらはそういう判断をするのが普通なのだろう。
昇馬は自分ではそう思わない。
これが本当にそういう性質なのか、それとも今までにそういう気分にならなかったのか。
前者であればスポーツマンとしての精神には遠い。
後者であればこれまで、魂を燃やす舞台に立てなかったことを意味する。
司朗との勝負は、身内同士のじゃれ合い。
ならば将典は、どういう評価であるのか。
少なくとも厄介な相手ではある、と思っている。
ちょっと運が悪ければ、負けてもおかしくないというぐらいの評価だ。
そこで「負けてもいいだろう」と簡単に勝負を手放してしまうのが、むしろ昇馬の強さにつながっている。
本当ならば勝利への執着が、人の上達の助けになるであろうに。
人間は自分の力を、無意識にセーブしてしまうところがある。
自分が天才だと信じ込み、ひたすらその自信により、高みに登る人間もいる。
あるいはただひたすら執着し、その結果として努力が才能のように現れる者もいる。
昇馬の場合はこれらと違い、ひたすら全力を出すことに、躊躇がなかった。
そのためここまで成長したのだが、この天性の資質がどこまで続くか。
共感はしないが理解は出来る。
それが男の意地というものである。
舐められたら終わり、というのならまだしも、昇馬も理解出来る。
しかしそのために、勝算の低い勝負をするのか。
もちろん将典のピッチングなら、それなりに昇馬を打ち取れるというのは、ここまでの結果を見れば確かなのだが。
(一点はほしいけど)
ワンナウト一塁であるのだから、最悪でも進塁打。
定跡であればそう考えるのだが、昇馬はもっと本能的な人間であった。
ここは確かに、チャンスのタイミングだと言える。
もっともヒットの連打はない。
自分かアルトのどちらかで、長打を打つのが現実的。
しかし将典はここで、スライダーなどを使ってきた。
ボール球も見送っているが、これでカウントはツーツー。
スプリットを投げてきたら、果たして対応出来るのか。
(角度をつけないといけない)
それは分かっているが、バレルで打つという意識など、持っていないのが昇馬である。
どんなボールであろうと、反射で打っていく。
それで甲子園でも、充分すぎるほどのホームランを打っているのだ。
一球投げるごとに、メンタルのスタミナがどんどんと減っていく。
もちろんそれを、悟られないようにしてはいるが。
昇馬は追い込まれても、苦しそうな顔をしない。
そういったメンタルの強さも、昇馬の力の一部である。
将典はここから、スプリットかスライダーか、ストレートの三つの球種の中からを選ぶ。
本気で空振りを奪える球種は、この三つの中のどれかだ、という自信があるからだ。
他のカーブやチェンジアップは、あくまでもカウントを整えるためのもの。
最後の最後で頼れるボールこそが、本当の決め球だ。
その点ではスプリットは、習得からまだ時間が経過していない。
だが一回の表、白富東のバッターを、完全に抑えたというその実績。
強打者相手に通用したと言う、成功体験が自信を増やす。
そして投じられたスプリット。
昇馬は膝の力を抜いて、バットを合わせるだけ。
右側に飛んで、ファールフライとなりスタンドに入っていった。
これはカットではないのか。
現在の高校野球では、試合時間短縮や、球数制限を考慮して、カット打法をかなり禁止している。
スリーバント扱いになるのだが、昇馬の場合はスタンドまで飛ばしているのだ。
なのでバント扱いにはならないだろう。
フィジカルモンスターである昇馬が、こうやってカットをしてくる。
変なスラッガーのプライドなど、持ち合わせてはいないのだ。
早めにトップを作って、コンパクトなスイングにするだけ。
それでこんな芸当が出来るのだから、素のパワーが違いすぎる。
実際のところこんなスイングをしてきたら、ムービング系で細かく動かした方が、打ち取りやすくなる。
だが昇馬に対してそういったボールを投げるほど、将典には球種への信頼感がない。
スライダーで空振りを取るのは、右打者相手には当たり前のこと。
しかし白富東は、主要バッターが全員左打ちである。
懐に飛び込むスライダーも、当てられてしまうのだ。
ならばやはり投げるべきは、ストレートになってくるか。
(意識しろ)
体の全部を、ピッチングのための最適な動作へと。
(こいつを、絶対に)
ランナーがいるにもかかわらず、足を上げるのはゆっくりと。
(倒す!)
闘争本能が、アドレナリンを分泌する。
本来以上のパワーを、筋肉が発するのだ。
160km/h。
ついに大台に乗せてきた将典のストレート。
それでも昇馬は、そのストレートをミートしていった。
高く上がったボールは、ライト方向の深いところへ。
これはスタートも切れない、微妙なところではないか。
「行けーっ!」
白富東側のスタンドからは、大きな歓声が聞こえてくる。
逆に桜印側からは、悲鳴と言ってもいいだろうか。
ライトがジャンプして、フェンスに激突するギリギリでキャッチに成功。
真琴はハーフウェイラインから、ファーストに戻るしかなかったのである。
白富東の方に、やや流れはあった。
しかしその流れというのは、掴むのに失敗すれば、相手に渡ってしまうものである。
そのはずであるのだが。昇馬は流れをぶった切る。
六回の裏が下位打線からというのも、全体的な流れが白富東にまだある、ということの証明であるかもしれない。
試合は終盤に入っていく。
甲子園の決勝で、いまだに昇馬はパーフェクト。
だが白富東も、九回までに回ってくるのは、あと一度。
そこで点を取れれば、一気に試合は決着する。
失敗すればタイブレークで、これは後攻の桜印が有利になる。
もっとも奪三振能力を考えれば、白富東のほうが有利であろうか。
ただ打力においては打てるところはともかく、打てない打順はまだしも、桜印の方が上である。
(タイブレークになると、打順的にこちらが不利か?)
鬼塚はそう考える。
単純にタイブレークというだけなら、白富東の方が有利なのだが。
去年のセンバツも、11回までタイブレークをやって、それでようやく勝てたのだ。
もっともその時の球数の増加で、決勝で昇馬が途中降板した、という現実もある。
今回は完全に、球数の心配はない。
しかし桜印も、完全に将典に任せるつもりであろうか。
球数的には向こうも、問題はないはずだ。
スタミナにしても白富東の下位打線には、比較的楽に投げているのではないか、と思うj。
スプリットの投げる回数などを見ても、昇馬から和真までの三人を、重点的に抑えている。
真琴にも打たれたが、それでも警戒感は薄い。
(九回で決められるか?)
10回になるとおそらく、こちらがやや不利だ。
九回は真琴からの打順なので、そこで決まる可能性がある。
昇馬は昇馬で、デッドボールでパーフェクトが途切れた。
しかしまだノーヒットノーランは継続中なのである。
ここまで四度の甲子園大会で、パーフェクトを三回とノーヒットノーランを二回。
何気に高校野球史上、最強のピッチャーではあるのだろう。
これまではずっと、優勝を一度もしたことのない、上杉が最高と言われることが多かった。
また最強は直史であり、この両者が双璧とも呼ばれていた。
だがそんな二人であっても、敗戦投手にはなっているのだ。
上杉は勝利数や完封数、直史は15回パーフェクトなど、それぞれの伝説を持っている。
だが昇馬もそれは同じレベルである。
桜印の早乙女も、状況は理解していた。
ここまで完全に、昇馬には抑えられてしまっている。
デッドボールでのランナーなど、昇馬の攻略には何も役に立たない。
ただこのままタイブレークに突入するなら、10回は鷹山の打席で、俊足の九番と一番をランナーに置けることになる。
本当ならここで、送りバントの得意なバッターがいるのが、一番良かった。
鷹山にはそんなものは求めていないが、念のために練習だけはさせてある。
そしてここで、ワンナウト二三塁になった場合、将典の打席で全てが決まる。
一点を取れたなら、裏は白富東の打順は、三番の和真からであろうか。
この和真さえ全力で抑えれば、おそらく後続の打者は怖くない。
やはり九回の表が、重要なポイントになってくるだろう。
(あちらの監督は、プロ野球が染み付いていると思いたいけど)
そもそも去年のこのセンバツで、準決勝で桜印は、白富東にタイブレークで負けているのだ。
昇馬のボールに、どうにか慣れることが可能だろうか。
あとはもう一つ、将典のスタミナの問題もある。
球数的には問題ないが、今日は投げている相手が違う。
白富東の一番から三番までは、おそらく日本一の打撃力を持っている。
ここまでの試合で三人が全員、ホームランを打っているのだ。
四度目の打席が、九回に回ってくる。
そこまで将典のスタミナが、しっかりと残っているかどうか。
白富東は昇馬などが、追い込まれたらフルスイングを捨ててきた。
それを弱気の証拠としたかったのだが、ピッチングには全く影響していない。
六回が終了して、既に桜印は12個の三振を記録している。
速球対策をして、鍛えに鍛えた打線が、ほとんど機能していないのである。
このセンバツでも上田学院戦など、18奪三振の昇馬である。
去年の夏は桜島相手に、23奪三振のパーフェクトなどをやっていた。
決勝での桜印戦も、18奪三振。
アウトが三つあるなら、そのうちの二つは三振という、まさに鬼のようなドクターKである。
タイブレークは奪三振能力の高い方が有利。
それは当たり前の話で、内野ゴロで進塁したり、外野フライでタッチアップしたりと、一点が取りやすい状況になっている。
去年は11回で敗北したが、23個も三振を奪われていた。
進塁すら許さない三振は、やはり強烈な武器であるのは間違いない。
昇馬がスタミナ充分であるのは、見ていても分かる。
対して将典は、それなりに消耗している。
よく年配の高校野球ファンから言われるのは、佐藤直史と真田の対決に似ている、というものだ。
白富東と大阪光陰の対戦、一度目の夏は準決勝。
真田もずっと0で抑えていたのだが、直史はランナーを一人も出さなかった。
結果としてタイブレークで、白富東が勝利した。
またその翌年は、決勝戦での対決。
当時はまだ決勝戦に、タイブレークは導入されていなかった。
そこを直史は15回パーフェクトで抑えて、真田もどうにか無失点には抑えた。
だが翌日の連投、直史は完封勝利。
さらに最終年度も、大阪光陰は春夏決勝で白富東に負けている。
真田は佐藤兄弟の前に、甲子園の制覇を阻まれたということになる。
シニア時代の活躍や、プロでの活躍を見ていれば、間違いなく野球史に残るピッチャーであった。
それでも同時代にそれ以上の怪物がいれば、負けてしまうというのがあるのだ。
真田は悲劇の英雄としては、上杉にも負けている。
上杉の場合は真田と違って、ほぼ一人の力で勝っていったので、よりその論調がある。
一年の夏にはベスト4、そしてそれ以降は全て準優勝。
1-0で負けた試合や、最後の夏は延長球数制限で負けた試合など、とにかく実力ではナンバーワンと言われた。
実際にプロ入り後の成績を見てみれば、評価は正しかったと分かるであろう。
春日山や白富東は、公立の高校であったことも、支持される理由である。
高校野球ファンというのは、私立強豪を相手に、公立校が勝つのを期待したりもする。
白富東も公立進学校であったが、春日山も比較的進学校であった。
それなのに上杉は甲子園に行き、後に新潟勢が初めての、全国制覇を遂げるチームを作った。
上杉正也と樋口のバッテリーは、運もあったが強いバッテリーには間違いなかった。
準決勝で大阪光陰が、白富東を削ったからこそ、春日山が勝てたとも言われる。
だがそれは間違いであり、樋口の異常な勝負強さが、当時はまだ分かっていなかったのだ、と擁護される。
打たれた岩崎も岩崎で、しっかりプロで結果を残したピッチャーであるのだ。
あの時代が一番面白かった、という古い高校野球ファンは多い。
将典の球威が、果たして最後までもつのか。
それがこの試合の行方を、左右することになるだろう。
二番手ピッチャーを上手く使えば、ということは考えない。
ここはもう、エースに任せるしかない。
エースに任せるべきであるし、それで負けるなら監督の責任だ、と早乙女は腹をくくっていた。
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