第118話 四番かエースか
時代が悪かったな、と瑞雲の監督を務める元プロ野球選手の武市は思う。
カップスで活躍はしたが、早期に故障して引退し、その後は指導者の道を歩んだ武市。
瑞雲の監督となってからは、もう五年ほどにもなるか。
坂本が中浜を連れてきた時には、この怪物をしっかり育てて、全国制覇を考えていたものだ。
当初の予定以上に、中浜は育ってくれている。
だが同時代にこれほどの怪物がいるとは。
野球の二世選手というのは、あまり多くはない。
いないわけではないが、父親が経験者程度であって、子供が大成するというパターンがほとんどだ。
父親の名前が子供に、いらないプレッシャーをかけるということはある。
バッターとしてなら可能性があると思われた上杉の長男が、すぐに違う道を選んだのは、かなり賢いことであった。
そして違う分野で、世界一になろうとしている。
どれだけ父親が偉大であっても、半分は母親の血が入っているのだ。
それを考えればむしろ、西の息子である和真が、これだけ活躍しているのに納得する。
父親もドラフトの候補になるほどであったが、志望届を出さずに就職。
ただし母親の方は、バレーボールの日本代表にまでなった。
若くして怪我で、引退することとなったが。
両親の運動能力をそれぞれ考えれば、むしろ真琴がここまで動けるのが、不思議な話である。
上杉や大介の場合は、母親も怪物なので、納得するものなのだが。
武史のところは子供たちが、運動系と芸術系に、しっかりと才能が分かれている。
あとはまだ小さな末っ子が、どちらに才能が花開くことか。
ただ直史のところは、長男の明史が、尋常ではなく頭がいい。
直史や瑞希もかなりの秀才であったが、それをも上回る。
ただ知能指数という数字で見るなら、叔母の要素が出ているのだな、と分からないでもない。
佐藤兄弟の人格には陰がある。
武史だけは能天気に、そういったものと無縁であるが。
長男の直史は、その育てられ方によって、相当に矯正されている。
田舎の長男という枠組みがあったおかげで、破綻することのない人生を送ってきた。
少年期のショックにしても、祖母がそれを処理したからこそ、瑞希のような安定した人格の持ち主と結婚し、芯がしっかりとなったわけだ。
ツインズにしても大介という、度量の大きな人間に出会えて、そこからは安定した。
中学時代の、明るみにならなかった過剰防衛は、本来ならさらに過激な性格に向かったかもしれない。
大介の存在の大きさが、その点では分かる。
子供たちにしても、佐藤家の異常性を強く受け継いでいるのは、まず長男の昇馬。
ただ昇馬もまた、違う方向からのアプローチで、人格は安定している。
害意に対する反発で、一気に相手を殺しにかかる過激さは、無力化までで抑えている。
他に攻撃的なのは、大介から見たら五女の百合花。
この百合花にしても、ようやく自分の精神を安定させる、依存先を見つけている。
あとはまだ幼い次男坊が、果たしてどういうものとなるか。
この精神の凶暴性というか、何かに対する度を過ぎた集中は、武史の方には受け継がれていない。
昇馬にしても自分の獣性は、大自然の中では当たり前のことだと納得する。
血のつながった四人の娘のうち、三人は比較的まともなものだ。
百合花にしても、桜が傍で見守っていれば、そうそう道を外すこともない。
血統絶対主義などというのは、フィクションの世界の中だけでいい。
そうは言いながらも実際は、芸能人の中には政財界の、大物の子弟が多く存在する。
だが別にそれ自体は、悪いわけでもない。
自由の国のはずのアメリカであっても、実際は政略結婚など普通に行われる。
むしろアメリカなどは、自分たちに歴史がないからこそ、そういったことを潜在意識の中で重視する。
坂本が行ったアメリカという国は、少なくとも彼にとっては、それが本質だと思えた。
その中で中浜は、日米ハーフの血統を持っている。
とはいえ日本人というのは民族で人種であるが、アメリカ人は民族でも人種でもない。
アメリカ人はアメリカに生まれたもので、国家に忠誠を誓うものである。
そんな建前も崩れかけているな、と坂本は思ったものだが。
その坂本から見ても、昇馬は怪物である。
(あいつは伯父よりも狂うちょる)
コーチとしてたまに中浜を見る坂本だが、この舞台ではベンチに入る資格もない。
(時代が悪かったがか、それでも構わん)
中浜の才能に関して、坂本は疑っていない。
(要はどうやっち、メジャーにたどり着くかやが)
昇馬の怪物っぷりは、上杉に似ていると思う。
だが上杉は巨木や巨岩のような、畏怖すべき自然のものであったのに対し、昇馬はもっと野生的なものだ。
動物の中で最強なのは、海では鯱であり、陸では象である。
昇馬は自分からは獲物を食いにいかないので、象であろう。
だが象としても、種類は複数いるのだ。
そして同じ生物の中でも、当然その力は違う。
甲子園のベンチに入っているというだけで、充分に野球エリートではある。
しかしこの中の全てが、プロに行けるはずもない。
またプロに行っても、どれだけの力を発揮出来ることか。
坂本はドライな男である。
なので中浜を連れてきたのも、自分に利益があると思ったからだ。
しかし同時に、享楽的なところもある。
中浜が本当に成功するかどうかなど分からない。
だが自分を楽しませてくれる存在なのは、確かであると言える。
野球などというのは、結局のところ博打なのである。
その博打を打とうとしなかったのが直史で、しかし坂本との策謀を企てる相性は、樋口と同じぐらいに最高であった。
基本的に思考実験としてなら、いくらでもルールを破れる人間。
そんな者が弁護士をしているなど、ちょっとおかしいものだが。
ただ直史からすれば、ルールは利用するものであって、守るものではない。
先に中浜は一点を取られた。
そして昇馬は、自責点0のピッチャーだ。
一回戦で消耗していない今、瑞雲を完封するのは難しくない。
そう思ってくれたなら、まだしも瑞雲には勝ち目があるのだが。
(種は撒いたきに、あとは見守るだけか)
一回の裏、瑞雲はランナーを出せず。
だが勝負と言うか、見所はここからだと、坂本は知っている。
1-0で二回の裏、瑞雲の攻撃は四番の中浜から。
層の厚い桜印はともかく、他のチームは超高校級ピッチャーが、同時に主砲の役目も果たしている。
そもそも日本の場合、身体能力の一番高い選手が、自然とピッチャーを任されることが多いからだが。
(先頭打者……)
基本的に配球は、真琴が考えてサインを出している。
昇馬はたまに、直感的に首を振るだけだ。
(2mって身長以外にも、腕が長い)
青森明星の中浦もそうだったな、と思い出す。
(基本は内角で勝負しようか)
去年までの情報ならば、しっかりと残っているのが、強豪校のハンデであろう。
その意味では昇馬が、一番のハンデを背負っているのだろうが。
左対左の対決。
だが昇馬はことさら、左バッターを始末するのに長けているわけではない。
そもそも打たれた回数が少ないので、データとして成り立たないかもしれないが。
(スライダーを見せておこうかな)
この冬の間に取得した新球種。
左バッター相手なら、上手く使える球種のはずではある。
腕の長い中浜は、自然と内角は苦手に思える。
あるいは初球にスライダーを決めてもいいだろうが。
(外角のボール球一個分は、打ってくると考えよう)
大介はそれぐらいなら、外れていても平気でホームランにするのだから。
あれと一緒にするな、と全バッターが思うだろうが。
まずは内角に、鋭く小さく曲がるスライダー、というかカットボールに近いものを。
「あ、やべ」
という昇馬の声は内心で言ったものだ。
曲がらなかったボールが、中浜の右肘に激突。
プロテクターを着けていたとはいえ、150km/hオーバーのカットボールの衝撃は、大きなものであった。
昨今はなんでもかんでも左バッターになりたがる。
特に右腕のピッチャーが、バッターボックスで左というのは、かなり危険であろうに。
昇馬のようにどちらでも打てるし投げられる、という選手はいないのだ。
ともあれこれで瑞雲は、ノーアウトのランナーを出した。
プロテクターのおかげで、退場物の怪我にはならなかったようだが、ダメージが残っていないわけでもないだろう。
意図していたことではない。
だが一度ベンチに戻って、治療をすることとなった。
臨時代走が出て、ノーアウト一塁から試合が再開する。
(気まずいよぉ……)
内角を狙いすぎた、という反省が真琴にはある。
よりにもよって相手のエースに、デッドボールをぶつけてしまった。
MLBではピッチャーは打席に立たないが、普通に報復死球のレベルである。
外角から入ろうという真琴に対して、昇馬は首を振る。
要求されているのは、またもインコース。
もちろんさすがに今度は、ストレートを要求していた。
デッドボールなどわざとではないのだから、謝ればそれでいいだけだ。
まあデッドボールに対する罰が、ちょっと軽すぎるかな、とは昇馬も思っているが。
それよりもピッチングの幅が、狭められれば問題だ。
昇馬の160km/hは、内角に投げてこそ威力を発揮する。
三者連続三振で、ピンチを完全に潰す。
昇馬はけろりとした顔で、ベンチに戻ってきたのであった。
「すみません、狙いすぎました」
「まあ、あれはよけられないか」
鬼塚としても頭が痛いが、仕方のないことではある。
それにこのデッドボールで、おそらく中浜のバッティングは封じられたと思うのだ。
二番手ピッチャーが肩を作っていたが、どうやらまだ中浜が出てくるらしい。
プロテクターを直撃していたわけであるし、特に痛みなどはないのか。
もちろんそんな単純なものではなく、わずかな違和感でピッチングは壊れる。
予期していなかったが、これは楽に勝ててしまうのではないか。
ただ抑えて投げているのだろうが、それでも中浜は140km/hぐらいは出してくる。
そしてそのボールが、想像以上に打てないものであった。
ただし昇馬の二打席目、瑞雲は申告敬遠を使ってくる。
それは仕方がないよな、と観客たちも納得した。
だがアルトに結局センターオーバーを打たれて、二点目を献上する。
わずかな違和感が、ボールのコントロールを甘くする。
ピッチングは特殊技能、などと言われるゆえんであろうか。
一回戦から苦しい相手になると思っていた。
だいたいこういう展開は、主人公側のチームに起こることであろう。
確かに以前、昇馬が馬鹿なことをして、マウンドを降りたこともあったが。
相手の主力の弱体化により、かなり白富東に有利な展開となっている。
それだけにやや、申し訳ないという気分にもなる。
ただ、昇馬は違った。
「右が駄目なら左で投げればいいじゃない」
「マリー・アントワネットの強化版来たこれ」
真琴も呆れる、昇馬の思考である。
もっとも言ってることは、事実であるのだろう。昇馬にとっては、だが。
瑞雲はピッチャーを交代させる。
中浜のままの方が、まだいいのではないか、と鬼塚は思った。
確かに二番手ピッチャーの方が、元気であるし球速も出るだろう。
瑞雲は四国の強豪校で、ちゃんと二番手も育てているのだ。
(それでも中浜の方が、まだいいとは思うんだが……)
それに中浜を、ベンチに引っ込めてはいない。
二番手投手に経験を積ませようとしているのか。
あるいはもう少し時間が経過すれば、中浜の感覚が戻ると思っているのか。
状況自体は白富東に圧倒的に有利となった。
だが試合の空気は、瑞雲の味方をしていると言ってもいい。
その証拠に白富東は、追加点が入らなくなった。
ただボールを当てた気まずさを、全く感じていない人間がいる。
当の昇馬がそれであり、瑞雲相手に三振の山を築いている。
(何か狙いがあるのか?)
その狙いに関して、昇馬は直感的に察していることがある。
二打席目以降も、中浜に対して内角に投げ込んでいるのだ。
外に投げないわけではないが、内角攻めを重点的にしている。
確かにあの腕の長さに、デッドボールを受けたことによって、中浜はバッティングも積極的に打てていない。
四番でありエースであるが、地方大会の打撃成績を見れば、要注意バッターとしての面の方が大きい。
だからこそ狙いすぎて、当ててしまったとは言えるのだ。
(こいつ、打席ではまだ目が死んでないんだよな)
昇馬のボールを見ても、打とうという気はしているらしい。
(体つきはまだまだ細いけど)
そう見ながら、スイングの様子も確認するのだ。
(本当はバッティングの才能の方があるんじゃないか?)
ただそれではまだ筋肉が、不充分であると言えるだろう。
強豪高校のエースはだいたい、中学時代は同時に四番である。
ただ中浜以外にも、中浦や獅子堂なども、エースで四番を打っている。
才能の塊のような存在でさえ、こういったフィジカルを上回る選手はいないのか。
それを言うなら白富東は、昇馬に対して主砲どころか、リードオフマンまで期待しているのだが。
この試合はさらに白富東が一点を追加した。
珍しくも上位打線が絡まない得点で、むしろ鬼塚としては望ましい。
超高校級のピッチャーでなければ、どうにか勝負出来るということなのだろう。
3-0になったからには、白富東はもう、戦力を温存することを考え出す。
ここはサウスポーで投げていた昇馬の後なので、右のアルトが投げることとなる。
昇馬はそのままセンターに入り、真琴もファーストにポジションをチェンジ。
そして控えのキャッチャーが出てくるが、別に真琴でもアルトのボールを受けられないわけではないのだ。
ここは貴重な、他のキャッチャーに経験を積ませる状況。
ならば失点するまで、投げさせてみればいいのだ。
試合は3-1で終了した。
四打席目の中浜が、ホームランで一点を返したのである。
やはりホームランが打てるバッターだな、と昇馬は判断する。
そしてあるいはピッチャー以上に、バッティングの適性があるのではないか。
ただ2mを超える長身は、適したポジションはあまりないだろう。
他のポジションは外野か、ファーストを守っている。
確かにあの長身と腕の長さがあれば、送球ミスをカバー出来るだろう。
これは夏までの課題として、バッター中浜を考えなければいけないのだろうか。
(まあどちらにしろ、今日はこれでよかった)
夏の試合までには、当たるとしてもちゃんと、情報の収集が出来るであろうからだ。
一回戦を終了し、無事に二回戦に進む白富東は、充分な余力を残していた。
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