イレーネ④

 私は記憶の一部を失っていた。――と言うよりは、捏造されていた、の方が正しいのかもしれない。


 お嬢様の存在は知っていても、彼女との関わりが何ひとつない。

 雇人の娘だという認識しかなかった。


 トーレス達のことも、知り合い程度の認識。


 奴隷のように生きてきた記憶などない。物心つく頃には大領主の屋敷で働いていた。いろんな細かいところは、疑問にすら感じなかった。


 他の人間のことはよく覚えている。一緒に働いていた人たちとの記憶。バルカスやエマさんのことも。


 だけど、お嬢様やトーレスと関わる記憶だけが改ざんされ、あいまいなものとなっていた。今考えれば辻褄が合わない記憶も、おかしいと思わないよう誘導されていた気がする。それも、神器の効果なのかもしれない。


 何故中途半端な記憶だけは残ったのか。それは恐らく、私の脳を守るためなのだろう。


 例え、記憶がなくても、私はお嬢様を求めていた。16歳の頃に初めて感じた彼女の体温、それから繰り返し感じた温もりが――例え記憶になくても、私の体はそれを求め続けた。


 女遊びがひどい私を、エマさんには良く叱られた。だから、いつもエマさんの目を盗んでは女の肌を求めた。だって、それがないと私は不安だった。ひとりでは眠れないと思うほどに。


 私はお嬢様のような誰かを求めた。だから、正直クラーラは全然タイプではなかった。子供臭くて、正直相手する気もなかった。なのに、いつの間にか私は――彼女を好きになっていた。なぜ好きになってしまったのか、そんなの自分でも分からない。



 


 ――何故、私は記憶を取り戻したのだろうか? エリーナにも聞かれたが、よく覚えていない。

 ただ、記憶を取り戻す時、誰かに会っていた気がする。だが、それが誰なのか、どのような会話をしたのかが、覚えていない。


 そして何より驚きなのが、記憶を取り戻した時、私はパニックにはならず、ただそれをすんなりと受け止めたことだ。涙はしばらく止まらなかったけど、私は私のまま、そこに立つことができたのだから。

 

 


 ◇ ◇ ◇



 

 ローズウェストから王国に戻り、クラーラとふたりで道を歩く。


 宿の一室を格安で一月単位で借りている。女将さんとは仲が良く、あり得ないぐらいの料金で部屋を借りることが出来ている。そのため、時々依頼を無料で行うことにしている。


 正直、家を購入するぐらいのお金はある。クラーラからはふたりだけの家を買いたいとよくせっつかれるが、私としては、その気はなかった。それは何故なのか、今では何となく分かる。記憶はなくても、私はどこかでこの王都で自分の家を持つことに違和感を感じていたのだと思う。私の心の奥底に、帰りたい場所があったのだろう。


「イレーネさん、どうする? このまま宿に戻る?」


 クラーラからそう言われ、私はしばらく悩む。


「バルカスには何も言わず出ていったから、正直、どうしたもんかしら? 一度、顔見せにいこうかしらね」

「ああ、その件なら一応、報告しといたよ。数週間ぐらい戻らないかもって」

「何か言ってた?」

「特に何も。ただ、分かったって言っただけだよ」

「本当、薄情な男ねぇ」

「そうかな? イレーネさんのこと、なんだかんだで信頼してるからなんだろうなーって思ったけど」


 クラーラの言葉で、私はつい、笑ってしまう。


「そうかもね」


 バルカスやエマさんには本当に感謝している。あのふたりがいたから、私はこうやって今、生きている。彼らから生きる術を学んだのだから。


「せっかくだから、挨拶してく?」

「そうね、そうしようかしら」


 私たちは目的地に向かって、足を動かすことにした。

 


 ――



 バルカス家の呼び鈴を鳴らす。


 カエデが出迎えてくれる。まだ3歳になったばかりの小さい女の子。バルカスとエマさんの愛しいひとり娘。

 少し前までは単語だけの会話だったのに、複雑な言葉も話せるようになっている。

 つくづく、子供の成長は早いものだと実感する。


 カエデはクラーラの手を引っ張り、自分の部屋に連れて行こうとしている。

 クラーラは何故か、こちらにお伺いを立てた。


「クラーラ、付き合って上げなさい」

「あ、うん。でもこれは決して浮気ではないからね!」

「馬鹿なこと言ってないで、さっさと行きなさい」


 ふたりはカエデの部屋に入っていく。


 カエデはクラーラがお気に入りで、凄く懐いている。私ひとりで訪ねるときは、私のほうに駆け寄り、遊びをせがんでくる。だから、クラーラがいると楽なのだが、少し寂しい気もする。正直、複雑な気分だ。


「イレーネ、戻ったのか」


 バルカスは相変わらず、無表情で愛想がない。


「そうよ。さっき戻ったばかり。心配してた?」

「お前なら、もう大丈夫だ。俺が心配する必要はない」


 奥から、エマさんも顔を出す。


「確かにその通り。昔は危なっかしくて、見ちゃいられなかったが、今ならもう安心だ。あんたはとっくに巣立ったんだ。あたしらからね」


 そう言って、エマさんは笑う。


 そんな何気ない言葉が、今の私には凄く嬉しくて、なぜか、言葉が詰まる。それでも、私は何とか口を動かした。


「……今まで、私を見守ってくれてありがとう」


 記憶がおかしい、そんなお荷物でしかない私を、ふたりはずっと守ってくれていた。それを当たり前とし、わがままも言った。怒ったり、迷惑もかけた。それでも笑って、見捨てずにいてくれた。


「なんだい、急に」


 エマさんは腰に手をやり、苦笑する。


「そんなことより、今日は食べていくかい? 今ならまだ、準備前だからどうとでもなる」

「え? いいの? 急に来たのに」

「何いってんだい。家族だろ、あたしたちは」


 その臭い台詞に、私は思わず笑ってしまう。おかしすぎて、涙がでてしまうぐらいには、私は笑ってしまった。



 ◇ ◇ ◇



 食事を終えた後、ゆっくりしてから家を出た。


「星空が綺麗だよ、イレーネさん」

「そうね」

「だけど、イレーネさんほどではないけどね!」


 そう言って、クラーラは私の腕を掴み、頬を擦り付ける。


 「そのいつもの流れなんなの?」


 クラーラは飽きもせず、同じルーチンを繰り返す。付き合う前から、彼女は同じ行動を続けている。

 

「私はこれを一生続けるつもりだよ」

「何でよ」

「この流れをイレーネさんの頭の中に擦り込んでるだよ。目標は、これがないと違和感を感じて、イレーネさんから求めてくれることだよ」

「え? 何それ、怖いんだけど」

「私はね、こんな当たり前を、もっと増やして行きたいんだよ。だって本当は――当たり前なんて存在しないものだから。だから、私はそれを守って行きたい。イレーネさんと一緒にね」


 私は星空を眺める。


「……今度、家を探しに行こうか。ふたりの家を」


 クラーラが呻き声を上げたため、視線を向ける。


 何故か鼻を押さえている。


「急にどうしたのよ」

「ご、ごめん。想像しただけで鼻血がでてきたから」

「本当、何なのよ、あんたは」


 私は呆れて、笑ってしまう。



 ――おそらく、私はお嬢様のことを忘れることはできないと思う。


 でも、彼女と同じぐらい大切なものが、私にはできたから。


 だから私は、笑うことができる。


 クラーラが言うように、当たり前なんて存在しない。だから、ふたりで頑張っていきたいと思う。


 お嬢様が守ってくれたこの命を、大切な人のために使えたなら、それはきっと、幸せなことだから。

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