イレーネ①

 これは、夢なのだろう。

 

 そう、これは夢だ。

 

 昔の、私の記憶。

 

 そう、私が人として生きた証。


 他人から見た私の記憶は、きっと醜いだろう。


 私自身、そう思うのだから。



 ◇ ◇ ◇



 私に名前などなかった。命令され、奴隷として生きてきた。

 どうにか耐えられたのは、私より小さく、弱い子たちが私の手を必死に掴んでいたからだ。

 微かに残る親の記憶。なのに、その顔も、声も、名前も思い出せない。自分の名前すら。

 大量の薬を飲まされて以来、昔の記憶がぼんやりとしている。

 微かに残るあの笑顔を思い出すたび、涙が流れる。その理由が、私には分からない。

 

 私はただ、愛もなく、命令されるまま、生きるだけ。


 人の物を盗み、私はその代価として、ほんの少しの食事を与えられる。

 

 そのために罪を犯す私は、いつか罰が与えられるだろう。


 高そうな服を着た少女がいた。私よりほんの少しだけ、背が高い女の子。すごく、幸せそうな笑顔。簡単だと思った。

 しかし、彼女には護衛がいた。そんなことすら気付かないぐらい、私の視野は狭くなっていた。

 だから、ほんの少しの嫉妬心に駆られた私の末路など、悲惨なものになるはずだった。


 護衛の大きな大人二人に取り押さえられ、私はすぐに抵抗を諦めた。


 でも、思い出すのは、自分よりも小さな子供たち。彼らにまともなスリなどできるはずがない。だから、私は彼らの分まで働かないといけない。

 私の仕事がうまくいかなければ、彼らは見せしめのように痛めつけられる。私は怖かった。彼らのために、私が代わりに痛みを負う覚悟もなく、彼らの悲鳴を聞きながら、ただ震えるだけ。


 あぁ、私がここで死ねば、彼らが生きていけるとはとても思えない。私は自分の愚かさを知った。


 ――昔の記憶が、微かに蘇る。


「貴方は、今日からお姉ちゃんになるのよ」


 ――そして、掴んだ小さな手。


 思い出せない。それ以上、何も思い出せないのに、涙があふれる。


 私はみじめにも頭を地面に叩き付け、ただ許しを乞うた。私はどうなってもいいから、お金を恵んでくれと、彼らを助けてくれと、泣き喚いた。


 自分がどうなっていもいいと思えるぐらいの覚悟を、今更持ったところで、何の意味があるのだろうか。

 もっと早く、この勇気があれば、私は彼らを救えたかもしれないのに。


 頭を押さえつけられ、それでも私はただ助けを求めた。それが、どれだけ無駄なことか、私は痛いぐらい知っていたはずなのに。


 何度叫んだんだって、誰も立ち止まってくれない。誰も、振り返らない。泣き叫んで助けを求める私を見る目は、いつだって暗い。暗い目だ。


 でも、女の子は私に大丈夫だと言った。


 私はあなたを助けたいと、彼女は言った。


 私は力が抜けた。


 護衛二人は私を離し、代わりに女の子は私の体を抱きしめた。


 風呂にも入らず、泥だらけの私、無様に頭から血を流す私を、服が汚れることも気にせず、彼女は私を抱きしめた。


 その温かさを、私はきっといつまでも忘れない。記憶がなくなっても、この心が、この体が覚えている。


「あなた、名前は?」

「……知らない」


 彼女は驚いた顔をする。


「もしかして、年齢も?」

 

 私は首を縦に振る。


「そう、私の名前はアローラ。そして、あなたの名前は、イレーネよ」

「イレーネ?」

「そう、あなたは、イレーネよ。この名前は、私にとって、特別な名前」

「……とくべつ」

「そう、特別な名前。そして、あなたは今日、誕生日を迎える。イレーネ、あなたは今日、12歳になったのよ」


 この時の私は、あまり意味がよく分からず、少し呆けていた。

 

「さぁ、イレーネ、話を聞かせて頂戴。あなたを、私は救いたいから」

 


 

 その日のうちに、私たちは彼女に救われた。

 彼女は強かった。

 今まで私たちを苦しめた人間たちが、昨日までの私たちのように膝をつき、額を床にこすりつけ、助けを乞うた。


 何なんだ? 私は理解が出来なかった。私たちがあれだけ泣き叫び、許しを求めても、笑って殴り続けたあんたらが、同じことをしている。それで、許されるわけがない。

 でも、彼女はそれ以上を行うことなく、男たちを衛兵に渡した。


「許せませんか?」


 彼女の言葉に、私は何も返せなかった。そんな私を、彼女は抱きしめる。


「私はあなたの苦しみを分かってあげられない。だから、簡単にあいつらを許せとは言えない。でも、あなたがいつか全てを許せるようになるまで、私はあなたの傍にいたいと思います」

 

 分からない。彼女が何を言っているのか、私には分からない。それでも、心が少しだけ、楽になった気がした。


 

 私たちは全員、彼女の家が出資している孤児院に預けられた。

 彼女はほとんど毎日のように顔を出してくれた。そして、私たちの家族を探させていると言った。それについて、特に期待はしていなかった。だって、彼らはお酒に酔っ払うと、良く笑って話していた。私達の親が如何に惨たらしく殺されたかを。


 

 あれだけ暗かったちび達も、半年も経てば元気になり、笑顔で外を駆け回るようになった。

 私はちび達の面倒を見ながらも、必死に勉強した。ほとんど眠らなかったときは、院長さんに怒られたため、なるべく睡眠はとるようにした。

 私は、ちび達のために生きると決めていたけど、それでも、私は彼女のために生きたかった。それをちび達に伝えると、彼らは私の幸せを願ってくれた。私のしたいようにしていいんだと、彼らは言った。不覚にも泣いてしまった私を彼らは笑った。そして、一緒に泣いてくれた。


 私は勇気を出して、彼女に言った。あんたのために生きたいと。あんたの役に立ちたい。そのためにはどうしたらいいのか、私は彼女に聞いた。


「イレーネ、あなたが私より生きて、あなたが私より幸せになることが、私のためになるのよ」


 そんな、訳の分からないことを彼女は言った。



 

 それから1か月以上、私は彼女のために働きたいと言い続けた。すると根負けしたのか、私は彼女のメイドとして働くことになった。

 仕事の合間に勉強と、彼女を守れるように、彼女の護衛の人に稽古をつけて貰った。習ったのは弓と短剣。私にはそこそこ才能があったのか、誉められ、いい気になった。


 幸せだった。本当に幸せだった。彼女がいるこの世界は。

 いつまでも、この夢が続けばいい。いつまでも――。


 私は、彼女のためだけに生きると誓った。

 だけど、それは――いつしか、違う願いに変わっていた。違う誰かが、いつの間にか、私の心の中に入り込んできた。それは、その名前は――。


 声がする。


 これは、誰の声だったか。


 ――私は、少しずつ、夢から覚めていく。


「イレーネさん!」


 そこには、もう二度と会うつもりのなかった、クラーラがいる。


 私の頭はどこかぼんやりとしている。どうやら、まだ夢の中にいるようだ。


 だって、クラーラがここにいる訳がないのだから。


 昨日、一睡もしていないくらいで、私はもう、幻覚を見るようになってしまったようだ。


 幻は相変わらず、私の名前を呼び続け、私の体を抱きしめる。


 本当は会いたかった、すごく会いたかった。


 頬が濡れる。


 クラーラは私に口づけをする。


 分かっている。


 本当はとっくに分かっている。


 信じられないけど、これが現実だということを。

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