美しき比企嵐山

山川タロー

第1話

 父親が定年で埼玉県の小川町に家を買った。昭和54年のことである。建売でまだ家ができていないうちに引っ越したものだから家ができるまで東部東上線の男衾に仮住まいをした。買った家は小川町と嵐山町の境目にあり、建坪20坪、庭40坪と庭がやたらと広い。当時は芝生が生えきれいな庭であったが年月が過ぎ庭の手入れをしないものだから樹木がうっそうと茂り、隣近所はさぞ迷惑なことではなかったか。現在は庭一面にじゃりを敷き、外壁を塗り、事務所として使うため改装し、玄関も新しくした。

 現在住まいがある浦和から、最寄駅の武蔵嵐山駅まで電車通勤である。武蔵嵐山駅から徒歩でおよそ40分の距離である。駅から事務所まで車での移動も考えたが、朝のウォーキングも悪くないと考え、歩くことにした。ある本によると、ウォーキングやランニングは脳細胞を増やすらしい。なんでも人間の脳は12000年前から機能的にはほとんど進化しておらず、当時のままだという。当時は狩猟時代であり、人間は今よりはるかに動き回っていた。動き回らなければ食料も手に入らず、命を守ることすら叶わなかった。だから人間の脳は体を動かすことにより刺激を受け、活発に活動する。つまり運動することが人間の脳を活性化させる唯一の方法だという。

 そういうわけで武蔵嵐山駅から事務所まで毎朝徒歩で行き帰りも駅まで徒歩で帰ることにした。そうすることで脳が活性化し創造力が豊かになり、独創的な仕事もできるのではないかと思われたからである。

 そうして徒歩で駅から事務所まで歩いてみてすぐに気が付いたことがあった。学生時代から社会人7年目まで当地に住んでいたが、このように感じたことはほとんどなかった。たまに帰省することもあったがこのような感覚は一度もなかった。生活に忙殺されていたのか、心に余裕がなかったのか、仕事が忙しすぎたのか、酒の飲みすぎか、一度としてこのように感じたことはなかった。たしかに今は会社をやめ酒も飲まずたばこも吸わず、毎日片道40分の道のりを往復している。

 嵐山の街並みというか山並みというか、町が山に囲まれていることに気がついた。その景色が感動するほど美しいのである。朝通勤徒歩中の景色は空の青さと山並みの緑がコントラストとなり、思わず何枚も何枚もスマホで写真を撮ってしまうほど美しいのである。それも毎日撮ってしまう。昔嵐山に住んでいたころこんな気持ちになったことはない。もっとも当時は車で通勤していたし車の中から景色を見ていた。車窓からみた眺めはこれほどの感動を私に与えなかった。これも徒歩ならではの効果か。人間は今一度12000年前の原点に返って生活を見直す必要があるのではないだろうか。

 武蔵嵐山駅を降りて東口の前の通りをまっすぐ行くと、つきあたりに嵐山町立図書館がある。同じ交差点の反対側にコンビニがあり毎朝朝食をとっていると目に入ったのがこの図書館である。毎日通勤しているうちに入ってみようという気になり、通勤し始めて1か月、ついに中に入ってみた。失礼ながら外観からは想像できなかったが意外と立派な図書館である。この図書館を探索したところ嵐山町に関する様々な本があり、その中でも目を引いたのが「嵐山町史」という分厚い本であった。昭和58年の発行である。嵐山町の歴史がそこには書かれていた。

 要約すると、旧石器時代からここに人が住みとくに縄文時期、縄文文化が栄え、遺跡も多く発掘されるが、縄文後期から晩期、弥生時代と人口が減少し、再び人口が増えるのが古墳時代であり遺跡も発掘し始める。平安時代、嵐山町の歴史を窺い知るものはあまりなく、武蔵武士が活躍する鎌倉時代になって嵐山町の歴史が花開くのである。その中心人物が後述するが畠山重忠である。

 本の冒頭「出版に当たって」の中に、「私たちの嵐山町は比企丘陵の中核にあって菅谷館(すがややかた)跡(あと)をはじめ多くの史跡と近代的施設のある古くて新しい町であります」とある。私の実家の最寄り駅が武蔵嵐山駅であったことから実家のことを「嵐山の家」と呼んでいた。私は実家に住んでいたこともあったが、多くの史跡や近代的施設に行ったこともなければ聞いたこともなかった。私の実家は小川町のはずれに建てられた新興住宅地にあった。近所の人は皆よそから引っ越してきていた。地元の人と言えば、造園でお世話になった人、郵便局員、自転車屋さんなど、いるにはいたがみな小川町の人であった。役場は小川町役場であり、買い物、病院などはみな小川町であった。したがって嵐山町のことはほとんど知らなかったのである。

 武蔵嵐山駅で降りて実家(事務所)まで通勤をはじめてあらためて嵐山町の歴史、自然に関心を寄せるようになった。駅に降り立つと「比企一族と武蔵武士」というのぼりが目に飛び込んできた。さらに史跡を紹介する数々の写真、そして通勤途上の街道沿いの両側に広がる山々や畑の中に点在する住居、空の青さと山あいの緑のみごとなまでのコントラスト、これらに私は魅了された。そして嵐山町についてもっと詳しく知りたいと思ったのである。

 嵐山町を紹介したいと思った最大のきっかけは自然の美しさである。嵐山町は埼玉県のほぼ中央に位置しており、ざっくり言って東は東松山市、西は小川町、南は鳩山町、北は寄居町に隣接している。

 武蔵嵐山駅から志賀小学校を左に見ながら進む県道菅谷寄居線には沼沢は認められないが、山稜の勝れた景観は空の青さと相まって心の奥底に深い感銘を呼び込む。2022年10月から通い始めたがすぐに嵐山町の魅力にとりつかれてしまった。

 景観もさることながら沿道の草木にも関心が及ぶ。背の高い黄色の花がひときわ目を引き付けた。それ以外にも様々な草花、雑草が咲き誇り思わず草花雑草図鑑を買ってしまった。背の高い黄色の花は本屋で図鑑を開いた瞬間すぐ目に飛び込んできた。その名はセイタカアワダチソウという。北アメリカ原産の帰化植物で多年草だ。茎は枝分かれせず細い葉をたくさんつける。枝の先には黄色の筒状花をびっしりつける。

 駅ののぼりは2種類ありひとつには「源頼朝と鎌倉幕府を支えた比企一族と武蔵武士 2022年大河ドラマ『鎌倉殿と13人』」ゆかりの地」、もうひとつは「いざ鎌倉 いざ嵐山 誉れ高き武士 畠山重忠」とある。

 ここで畠山重忠について先にふれた「嵐山町史」から抜粋してその人柄を偲んでみたい。

 畠山重忠の人柄についてはこのように記されている。

 前略「史書や軍記物はあまりにも美しい文学でありすぎ、虚飾によるものが多すぎる。だが、これらから察するに、重忠は誠意な人柄で、豪勇にして、また音曲にもすぐれ、力持ちで人間としてまことに完璧なような人物「重忠」である」(P231、7~8行目)。やがて頼朝の没後は北条氏によって比企氏、更には有力な武将が次々と滅ぼされていった。畠山重忠もその中の一人であった。

 「その頃、畠山重忠は撃たれるなど予想もせずに、百三十余騎を従え、小衾郡菅屋の館を出発し鎌倉に向っていた。途中で重保(重忠の子)が今朝殺され、更に追討軍が押し寄せて来ることを聞いた。従っていた本田近常・榛沢成清らは、菅屋へ帰って防戦しようと意見を述べたが、重忠は「こうなった以上、ここで思いきり戦うことである。菅屋まで引き返すことは、梶原景時のように予てから陰謀があったと思はれる。それではまことに恥である。」と言って約数万の敵を相手にして戦い、遂に愛甲季隆の矢にあたって死んだ」(P241、12行目~P242、2行目)。

 このように重忠は最後まで誠実さをつらぬき通すような人物であったのだ。

 重忠の館は嵐山町の菅谷館跡で、現在国の指定文化財となっている。

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美しき比企嵐山 山川タロー @okochiyuko

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