蜃気楼
しょうりん
第1話
「葉山さん、今日もお母さんのお見舞い?御苦労様」
花束を抱えたあたしの横を、顔見知りの看護婦が通り過ぎていく。
あたしはにっこり微笑んで、軽く会釈を返した。
母親のお見舞い、・・・・か。何も知らない人間なら、そう思って当然だろう。あの人を、本当に母親と呼ぶのなら・・・・・。
母親なら、子供に色々な事を教えてくれた筈。愛する事も、愛される事も。
しかし、あたしが彼女に教えて貰った事は、たった一つ。
狂気だけ・・・・。
緑のタイル張りの廊下を、目的の部屋に向かって歩き出す。こつこつ、靴の音が思いの他大きく響き渡った。
何処からかクレゾ-ルの臭いが漂ってきて、臭覚を刺激する。何時嗅いでも、嫌な臭いだ。この臭いは、嫌な場所を思い出す。
溜め息を吐き、手に持ったカ-ネ-ションの束を見た。
花を抱え、母親を見舞う。普通ならこれは、お涙頂戴の場面なんだろう。
現実に目覚めない母を、娘が愛の力で引き戻す。そんな奇跡を、誰もが期待している。それも、有り得ないと承知の上で。
下らない、全く下らない。
人間とは、本当に下らない生き物だ。
エレベ-タ-の前まで来て、あたしは立ち止まった。
上のボタンを押し、しばらく待つ。ほどなくしてエレベ-タ-は、がたんとずれたような音をたてて一階に止まった。
汚いエレベ-タ-。こんなので、よく動くわね。
そんな事に感心しながら、ゆっくりと乗り込む。それから、目的の8階を押してくすんだ壁によりかかった。
・・・・・人間とは、本当に馬鹿げた生き物だ。
矛盾を嫌う癖に、矛盾な行動ばかり取る。
ふっと、苦い笑いが込み上げてきた。
今のあたしも、その馬鹿な人間の一人なのだろう。
顔も見たくない、そう思いながら母を探し出し、死んでしまえばいい、そう思いながらこうやって訪れる。
本当は、こんな所になんか来たくないのだ。それなのに、気がつくとここへ足を運んでしまう。
結局あたしも、人の子だと言う事だろうか?
それとも、あたし自身が変わってきているのか?
チ-ン。エレベ-タ-が音をたてて止まったので、あたしは迷いを振り切るようにして外に出た。
迷い?・・・・一体、何の迷いだろう。
否定しようとしたが、否定出来ない。あたしは、ここに来る度に迷うのだ。会うべきか会わないべきか・・・・・。
そしてやっぱり、会ってしまう。
期待しているのだろうか?母親があたしに気付いて、懺悔してくれる事を。すまなかったと言って、抱き締めてくれる事を。
全く、下らない事だ。
何故なら、母には何も見えないのだから。あたしの存在さえ、彼女には分からない。
805、精神科病棟の個室の前まで来ても、あたしは花を持ったまましばらく佇んでいた。
あんな母親に会って、いったい何になる?
全て、忘却の彼方へと捨ててしまった人なのに。
まるで静かな波のように穏やかで、満ち足りた意識。どんなに心を読んでも、あの人の中には後悔や懺悔の気持ちはない。
・・・・どうでもいいわ、あたしは別に期待している訳じゃないし。
手を上げ、そして下ろす。また手を上げて、今度は軽くノックをした。
コンコン、響く音に誰も返事を返さなかった。
やっぱり躊躇いながら、静かに扉を開く。
ベッドは空だ。また視線を移動させ、パイプ椅子に座っている母を見つけた。
真っ白な部屋、南向きの窓からは、柔らかな午後の日差しが差し込んでいる。
彼女は、窓際の温かい場所でのんびりと日向ぼっこをしていた。側に、花瓶を乗せる小さな台がある。花瓶の花は、もう茶色く萎れていた。
むかつく事に、この人は相変わらず楽しそうだ。笑いながら、意味不明の言葉をぶつぶつ呟いている。片手には小さな人形、瞳には虚ろな色を浮かべて・・・・・。
あたしは溜め息を吐いて、部屋の中へと足を踏み入れた。
クリスタルの花瓶から、少し乱暴に花を引き抜く。そして、近くにあったごみ箱に放り込んだ。それから今度は、新しい花を水を変えないまま無造作に突っ込む。
いいのだ、これは形だけのお見舞いなのだから。どうせ新しい花も、二、三日すれば枯れてしまうだろう。
あたしはもう一度溜め息を吐いて、肩越しに彼女を見た。
彼女は、やはり何も言わない。ただ口許に笑みを浮かべ、片手に持った人形の髪を優しく撫ぜているだけ。
看護婦の話しでは、この人形の名は『縁』らしい。一度だけ、彼女がそう言ったそうだ。しかし、そんな事はどうでも良かった。
この人形が『縁』なら、あたしはそうではないのだろう。
葉山縁と言う少女は、もう何処にもいないのだ。
馬鹿馬鹿しい。あたしはただ、この人の哀れな姿を見て、嘲笑ってやりたかっただけだ。だから、探してここまで連れて来た。
なのに、ここに居るこの人は、今まであたしが見た中で一番幸せそうだった。
『縁』を抱いて、見た事もないくらい幸せそうだった。
本当の縁が側に居る時でさえ、こんな笑い方はしなかったのに・・・・・。
※この物語はフィクションであり、登場する団体、人物等は、実際には存在しない架空の物語です。
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