学園のムネーモシュネー ~雨乞いをする悪魔~
春峯蒼
プロローグ 出会い、三月
春風が優しく頬を撫でている。
暖かな陽射しを浴びながら中庭で食べる弁当は最高だ。
少なくとも五分前まで、
「おい、黙ってないでなんとか言えよ!」
背後から絶え間なく聞こえてくる怒号に、小さく息を吐く。中庭のベンチに座り、サンドイッチを頬張ったところまではよかった。だがサンドイッチを一つ食べ終えた時、背後に人の気配を感じた。
ベンチの後ろには二メートル近い生け垣が聳え立っていて、相手の姿をはっきり視認する事はできない。それでも話している内容から、相手が少なくとも四人いる事はわかった。
三人の女子生徒が、一人の女子生徒を問い詰めているのだ。
生け垣の向こうにあるのは調理実習室で、昼休み中は人っ子一人いない。窓から覗かれる心配がないから、秘密の話をするにはもってこいとの場所というわけだ。もっとも、それは中庭に誰もいなければの話だが。
「アンタがタカシを誑かしたんでしょ!」
「知ってんだからね!」
キンキンと耳障りな怒声が響く。どうやら男絡みの揉め事らしいが、問い詰められている側が一言も反論しない為、話が進展しない。
――さて、どうするか。
サンドイッチを見つめながら思案していた時だった。
「何の事? さっきから一体何の話をしてるの?」
震えた声が、風に乗って聞こえてきた。低く甘い声は、今まで聞こえていたどの声とも違っていた。
「!」
反射的に立ち上がり、生け垣に顔を近づける。枝と枝の隙間から、黒髪の少女の姿が見えた。
――
日本人形を思わせる、長い黒髪の美少女。三人に囲まれ、校舎の壁に追い詰められていたのは、間違いなく宗茂雪子だった。おどおどした様子で肩を縮こまらせ震えている。
弁当をベンチに置き、生け垣の端まで移動する。割って入るタイミングを窺っていたが、もう悠長な事は言っていられなくなった。相手が彼女なら、なおのこと見て見ぬふりはできない。
生け垣を抜け、真っ直ぐ四人に近づいていく。
「あの、もうその辺でいいんじゃないですか?」
声をかけると、四人が一斉にこちらを向いた。声からして、もしやと思っていたが、顔を見ると雪子以外の三人にも見覚えがあった。ベリーショートとボブヘアとポニーテールの三人組。全員、雪子と同じ三年の女子生徒だ。
「誰だよ」
「緑のスリッパって一年じゃん。うちらに何か用?」
ベリーショートとボブヘアが睨んでくる。
「そこで昼ご飯食べてて、先輩達の声が聞こえて……」
生け垣の向こうを指さすと、ポニーテールが舌打ちした。
「うるせーってか? 何様だよ」
「関係ない奴が出しゃばんな。あっちいけよ!」
ベリーショートが怒鳴る。肩を怒らせて凄む三人とは対照的に、雪子は黙ったまま啓明を見つめている。助けを求めているような顔には見えないが、このままにしておくわけにもいかない。
一呼吸置き、腹を決める。
幸い、今は三月。あと一週間もすれば卒業式だ。彼女達と顔を合わせるのもこれが最後になる。
だから、大丈夫だ。
「先輩達……卒業前に騒ぎを起こすのはよくないんじゃないですか?」
「はあ?」
「清水先輩、宮本先輩、小田先輩……三人共陸上部で推薦もらってましたよね? 今日の放課後、大学のコーチが挨拶に来るらしいじゃないですか」
三人の表情が凍りつく。ベリーショートが清水、ボブヘアが宮本、ポニーテールが小田――全員名門大学へのスポーツ推薦が決まっている陸上部だ。そして今日、大学のコーチ陣との顔合わせがあるのだと、一昨日の昼休みに陸上部の顧問が三人に話しているのを、職員室前の廊下で確かに聞いた。
「は? 何、私らのこと脅してんの?」
「なんでうちらの事知ってんだよ。キモ」
「つーかやっぱ男使ってんじゃんお前! ふざけんな!」
宮本が雪子の肩を突き飛ばす。
「違います! 俺は……!」
「おい一年! お前、先生に余計な事言ったら、ただじゃ――」
「うるさい」
低い声が清水の言葉を遮った。三人組の表情が凍りつき、啓明も言葉を失う。
四人の視線を受けても、雪子は平然としていた。腕組みをして校舎の壁に凭れ掛かり、気だるげに肩を竦めている。先程までおどおどしていた彼女とはまるで別人のようだ。
「まったく、黙って聞いていれば……いつの時代もお前らは変わらないな」
雪子の豹変ぶりに、三人組がたじろぐ。
「はぁ? 何お前……」
その時、雪子がおもむろに右手を持ち上げ、横に振った。目の前を飛んでいた虫を追い払うような――そんな仕草だった。
――瞬間。
空気が、変わった。
剣呑な雰囲気が消失し、三人組の表情から、怒りや嫌悪といった感情がごっそり抜け落ちる。
「は……?」
「え?」
「何、なんでうちら、こんなとこに……?」
目を大きく見開き、呆けた顔で瞬きを繰り返している。自分がどうしてこの場にいるのかわからない、とでも言いたげに、三人は互いの顔を見合わせていた。
――一体、何が起きたんだ……?
三人組の変化に、啓明も戸惑いを隠せなかった。
不意に、雪子が頭上を仰いだ。校舎の壁に張り付けられた時計を見て、ふっと口元を綻ばせる。
「そろそろ昼休みも終わるし、教室に戻るね」
にっこり笑って、目の前を通り過ぎていく。
「待って下さい!」
我に返り、慌てて後を追う。渡り廊下に入ったところで追いつき、雪子の前に回り込んで立ち止まる。
「あの、今のは一体……?」
深い溜息を吐き、雪子が再び右手を振る。さっきとまったく同じ仕草だ。
「さようなら」
笑顔で一礼し、啓明の横をすり抜けて、雪子が歩き去っていく。
啓明はしばらくその場に立ち尽くしていた。
何が起きたのか、雪子が一体何をしたのか、まったくわからなかった。白昼夢を見たような気分だ。
あの時。雪子が右手を振った時。
雪子の背後に、半透明の腕のようなものが見えたのも、きっとこれが白昼夢だからだ。
――そうに、決まってる。
昼休み終了のチャイムが鳴り響く中、啓明は自分に言い聞かせるのだった。
* * *
それから、啓明と雪子が会話する事は一度もなかった。
瞬く間に時は過ぎて、卒業式当日。雪子が体育館を出ていくのを、啓明は在校生席から静かに見送った。
一年生の終わりに、ほんの少し不思議な体験をした。ただそれだけの事だと自分を納得させて、啓明はこれ以上考えるのをやめた。
――けれど。
「え……?」
四月。新学期が始まってすぐの事。
啓明は入学式で信じられないものを見た。
新入生の席に、宗茂雪子が座っていたのだ。
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