ブラン

夏谷奈沙

第1話



「……なんじゃこりゃ」


 

 帰って来たら、アトリエが大変なことになっていた。

 

 ひっくり返ったバケツにカラフルな水溜り、あちこちに散らばった筆や絵の具、引き裂かれたキャンバス、倒れたスタンド。

 

 もはや感心してしまう程に、荒れている。

 

 今日は昨日の朝方やっと完成した、乾きたての作品を持って、打ち合わせのために3時間ほどここを留守にしていた。

 

 ところで私は作品制作中、作り上げた色や使用した筆、それらを全部そのままにする癖がある。

 

 作品に集中するためと、もう必要ないと思った色を欲する時が稀にあるためだ。まあ、主に面倒臭いだけなのだけど。その結果、佳境に入れば入るほど、アトリエには人がいるべき環境ではなくなる。

 

 だから、元々ここは汚かった。でもそれ以上の有様になっていた。ブルーシートを敷いておいてよかったと心から感じる。

 

 外出中に地震はなかったはずだ。それにさすがの私でも、ここまで荒らしたりしてないはず。多分。

 

 ポケットからスマホを取り出し、カメラアプリを起動する。画面にアトリエを映し、丸いところを押すと、カシャッと音が静まったアトリエに響く。データとして切り取ったという合図音。

 

 カメラアプリをスクロールし、SNSアプリを開いた。画面1番上にある、クリップ留めされたトークの相手、ユイに宛ててそれだけを送る。

 

 ユイはよくここに出入りし、特に締め切り前後に来ては、私の作り上げた色ある荒地を片付けてくれたり、ご飯を作ったりして面倒を見てくれる。

 

 だからここの最終形態を知っている。自身がなければユイに聞くのが1番だ。


 

 ピロン。ピロンピロン。


 

 手の中でSNSの通知音と共にスマホが震える。

 相手はユイだ。


 

(は?)

(過去一でひどいけど?)

(今回そんなやばいの?生きてる?)


 

 過去一でひどいということは、さすがの私でもここまで荒らしたりしていないってことだ。安心。

 

 聞きたいことが聞けた。たまには自分で片付けようと思い、ユイが心配しないようにと返す。


 

(制作明けした。大丈夫)

(なんか帰って来たらこうなってただけ)


 

 SNSの画面を閉じ、黒くなった画面に私が映る。ことなく画面はすぐに光を放ち、通知を受け取ったことを知らせていた。ユイからのメッセージが映し出されいる。

 

 今は15時。ユイは私と違ってちゃんと就職して社会人をしている。だからこの時間にすぐ返ってくることは滅多にない。それなのにさっきからすぐ既読して返信してくれている。仕事でないのだろうか。


 

(それ空き巣とかじゃなくて⁉︎)

(自宅は平気なん⁉︎)

(心配だから今から行く!)


 

 心配させないようにと思っていたが、余計に心配させたようだった。仕事を放っておける性格でもないし、こんなことで家に来るなんて、やっぱり仕事は休みなのだろうか。

 

 というよりユイは心配性だ。私のことを「ほっとけない」とよく言って、大丈夫と伝えても今みたいにすぐ飛んでくる。けれど実は本人が気づいてないだけで、人の世話を焼くのが好きだからなのではとも思う。

 

 それにしても空き巣か。アトリエにも自宅にも金目のものはない。最近私の知名度が上がってきていているおかげで、知っている者に売りつければ未公開の作品たちに金銭的価値が生まれるかもしれない。しかし大した金額にはならないだろう。空き巣に入ったところで価値のない場所だ。それにこのところ、考え事をしていたおかげであまり眠れていない。それ故に空き巣という発想が出てこなかった。

 

 だが犯人からしたら、価値がない部屋かどうかは入ってみなけば分かるものではない。生活エリアである自宅側は私物がある。犯人の種類によっては金目のものがなくても家具や家電、私の服など、もしかしたら需要のものがあったかもしれない。最近私の知名度が上がってきていているおかげで、知っている者に売りつければ未公開作品たちに金銭的価値が生まれるかもしれないが、大した金額にはならないだろう。そう考えれば荒らされている可能性もなくはない。

 

 鍵をまたカバンから探し出す宝さがしゲームをしてから行くか、微かに見える綺麗な床を踏みながら自分の鈍ったバランス感覚を頼りに進む、少しスリル満点なバランスゲームをしながら行くか。

 

 カバンの底で私とはぐれて迷子になった鍵を探すのは面倒だ。このカラフルな荒地に踏み込む前にもこのゲームはプレイしたし、もう満足した。ならば後者のバランスゲームだろう。上手く辿り着いても良し、バランスを崩し色ある水溜りに突っ込むのでも良し。汚したら後が面倒ではあるが、アイデアが生まれる可能性だってある。

 

 汚れていない、足を踏み入れられそうな床に目星をつけていき、扉までのほんのわずかな道のりを頭の中でシミュレーションする。


 何度目かで現実の私の足を動かすことにした。

 

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