サワダマチコの結婚

宇部 松清

§ サワダアサミの応報① §

ホテルの二人

「生意気だと思わない?」


 そう言って、煙を吐き出しながら、ちっ、と舌打ちをする。


 煙草はやめたんじゃなかったのか、という言葉を飲み込んで、男は、曖昧に相槌を打った。


「クリスマスに、ジュノーのディナーだって」


 その言葉が暗に、「どうしてお前は私を連れて行かないのだ」と言われている気がして、そんなの無理に決まっているだろ、と思い、小さくため息をつく。


 こうなった麻美あさみは面倒くさい。

 それをわかっているから、男――斎藤さいとう雅也まさやは、色々と飲み込んで、ただにこりと笑みを貼り付けていた。本音を言えば、やることをやったのだから、とっとと解散したい。彼にしてみれば、麻美はただの遊び相手である。それ以上の感情など欠片もない。その『ジュノーのディナー』とやらだって――仮にクリスマスの今日に飛び込みでも入れるか、という点をクリアしたとして――連れて行けないわけではない。ただ、連れて行く『価値』を彼女に見出せないだけである。


「いつも子どもを預けてるお義姉さん?」


 一応、何か返さなければ「聞いてるの?」とヒートアップすることは目に見えている。それも面倒で、「ちゃんと聞いていますよ」というポーズのつもりでそう言った。


「そ」


 苛立たし気に、短い言葉が返って来る。そんな態度を見れば、どうしてこんな女とクリスマスを過ごしているのか、という疑問も湧いてくる。


 麻美はただの専業主婦で、貢がせるような相手でもなく、性欲の発散にひたすら都合が良いというだけの女である。そもそも雅也は女に貢いでもらわずともそれなりに稼いでいるのだ。


 そろそろ潮時だろうとは思いつつも、ここで揉めるのは避けたい。こういう女は逆上して何をしでかすかわからないからだ。別れるなら自然消滅を狙った方が良い。


「でも、婚活がうまくいってるってのは、良いことなんじゃないの?」


 そう口に出してから、間違えた、と雅也は思った。もっと麻美に寄り添った発言をしなくてはならないのだ。意見や助言など以ての外、とにかく同調しなくてはならないのである。「そうだね」とか「生意気だよね」などと。だけど、彼の方でも苛ついていた。狙っていた本命からのドタキャンである。約束を取り付け、今日こそは、と意気込んであれこれ予約をしたものの、仕事と言われれば諦めるしかない。それでも、クリスマスだ。ジュノーとまではいかずとも、それなりのホテルは取っていた。それが、ここだった。


 キャンセルしても良かったが、せっかくだしと思い、麻美に声をかけた。既婚者なのも、子どもがいることもわかっている。何なら月に数度、会ってもいる。麻美は、彼が誘えば馬鹿みたいに尻尾を振って会いに来るのだ。このむしゃくしゃした気持ちを発散するには都合が良い。その時の雅也はそう思った。


『どうせクリスマスったって、店は営業してるし、毎年子どもと二人でケーキ食べるだけなんだよね』


 そう言っていたのを思い出して。

 だったらまぁ、俺といた方が有意義だろう。むしろ誘ってほしくてそんなことをこぼしたに違いない。そんな勝手な理由で誘ってみると、予想通りに二つ返事だった。一応「子どもは良いのか」と聞いたが、毎回返って来るのはこの言葉だ。


「大丈夫、シッター代わりのがいるから」


 それが、麻美の義姉だということを知ったのは、最近のことだ。


 その『シッター代わり』の義姉ってどんな人なの? と尋ねた時のことを思い出す。


***


「……なんかさぁ、見ててすごいイライラするんだよね。なんていうの? いつもオドオドしてて。私にも敬語使ってくんの。もろ、『コミュ障』っていうか。ウケるよ、マジで」


 そんなことを言って、鼻で笑って。


「でも一応、親戚だし? 親戚っていうか、まぁ――……義理の姉だしさ。どうせいずれれんの世話になるんだろうから、もういっそ、遺産とか全部蓮に行くようにいまから遺言とか書いといてくんないかな。なんかセコセコ貯め込んでるみたいだし」


 ピロートークにふさわしいとは到底思えない内容に、雅也は乾いた笑いしか出て来ない。とはいえ、愛を囁きたいわけでもない。囁くほどの愛情など、彼女には持ち合わせていないからだ。それでも、さすがにこれはないだろう。それくらいのことはわかる。


「何がむかつくって、その女、高校の先輩なんだよね。ていっても、在学期間がかぶってたわけじゃないんだけど。当時狙ってた先輩がさ、その女のこと好きだとか言ってて。それで知った感じ」

「へぇ」

「顔だけは、良いわけよ。なんていうんだろ、幸薄い系の未亡人みたいな。いや、独身だっつぅの、ウケる」


 何がそんなに面白いのか、麻美はけらけらと笑っている。


「美人なんだ」


 顔だけは良い、という言葉を拾ってそう返す。すると、麻美は途端に眉を吊り上げて雅也を睨んだ。


「ハァ?! 美人っつっても、めっちゃ暗いから! あのね、同性に嫌われるタイプ! オドオド男に媚びうってさ、か弱い振りするタイプっていうか!」

「そ、そうなのか」


 顔が良いと言ったのはお前だろう。その言葉をぐっと飲み込む。


 素面のはずなのに、麻美はいつも酔っているかのように不安定だ。機嫌が良い時は些細なことでもけらけらと笑い、少しでも気に入らないことがあれば烈火のごとく怒り出す。こんな浮き沈みのある女が母親で大丈夫なのかと、彼女の子どもに同情したりもする。というか、旦那も旦那だ。この女の何が良くて結婚したのか。


 とにもかくにも、どうやらその『シッター代わり』の義姉というのは、美人なのだろう。ここまでムキになるということは、つまりはそういうことなのだ。気に入らないのだろう、単純に。この分だと、その『めっちゃ暗い』だの『同性に嫌われる』だのという部分も話半分にとどめておいた方が良さそうだ。雅也はそう思った。


 我が子に遺産を、などと話していたにも関わらず、どんな心境の変化があったのやら、その数ヶ月後、「婚活を勧めてやった」となぜか得意気に報告され、それにも驚いた。麻美の行動はいつも一貫性がない。その時その時の自分が「正しい」と思ったことを押し付ける。だからその時の麻美にとっては、自分の義姉がいつまでも独身であるということが不都合だったのだろう。


***

 

 それで――。


 その、『シッター代わり』の義姉がどうやら、『ホテル・ジュノーのディナー』でクリスマスを過ごすらしく、それが彼女には気に入らないのである。生意気だ、と。


「なんかさ、待ち合わせが七時って言ってて」

 

 そう言って、ハッ、と笑う。

 壁にかかっている時計を見れば、既に六時を回っていた。女の仕度というのはとにかく時間がかかる。雅也にだってそれくらいのことはわかる。しかも、ホテルのディナーだ。ファミレスに行くのとはわけが違う。さぞかし気合を入れて準備するだろう。何よりその義姉は婚活中なのだ。


「時間、大丈夫なのか」


 準備もそうだが、子どもまで預けているのである。

 さすがに一時間だってギリギリだろう。

 それを理由にして自分達も解散しようと踏んで、身体を起こす。


 が。


「大丈夫だって。どうせ嘘でしょ」

「は?」

「嘘に決まってるじゃん。ジュノーのディナーとか、三十二の行き遅れを連れてくわけないじゃん」

「いや、でも」

「見栄張ったんでしょ、どうせ。食事くらいはほんとかもだけどさ。どうせその辺のレストランだって」

「だとしても、時間は」


 待ち合わせの時間くらいは本当なんじゃないのか。


 そう言おうとするのを「あぁ?」とどすの利いた声で遮られる。


「べっつに良いじゃん、遅刻でもすりゃさぁ。それでも待っててくれるような人なら、あの人でも結婚出来るんじゃない?」

「は、はぁ?」

「むしろ、そういうのを見極めるいい機会じゃん? 三十二なんだし、多少の遅刻でも笑って許してくれるくらいの人っていうか、それでも必死に待つような男じゃないと結婚出来ないんだってマジで。ほんとね、ちょっと顔が良いだけのコミュ障だから」


 目の前にいる女が宇宙人に見える。

 少なくとも数十分前まではただの都合の良い女だった。天地がひっくり返っても本命に昇格するような女ではなかったが、それでもまだギリギリ『クリスマスの穴埋め要員』として、選ぶ程度の価値はある女だった。


 自分が婚活を勧めておいて。

 それなのに、それがうまくいくことを喜びもしない。

 あまつさえ、自分が行けないクリスマスディナーを妬んで妨害する。


 開いた口が塞がらないとはこのことだった。

 尚もけらけらと笑う麻美は、雅也が化け物を見るかのような目で見ていることに全く気付いていない。義姉の待ち合わせ云々などを理由にせずとも、一刻も早くこの場を立ち去りたい。そう思うが、一瞬目を逸らした隙をついて、がしりと腿を掴まれる。皮膚に食い込む爪の痛さに顔を顰めていると、蛇のように身をくねらせて、脇腹に頬を擦りつけられた。


「もう一回、出来るよね?」


 ここで断れば面倒なのも知っている。

 仕方なく頷いてそれに応じた。


 その途中のことだった。

 

 サイドテーブルに置いてある麻美のスマホが震えたのは。

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