第26話 花火・後編

 翌日、勉強の時間になり、王子はフェレナードを待っていたが、さっぱり来る気配がなかった。

 大人はよく一方的に約束を守らないことがある、とつくづく思ったが、こうして自由時間が増えるのに越したことはない。

 昔のように、城の外に行きましょうなんて出来もしないことを吹き込まれるよりは遙かにましだ。

 出来もしないこと……。

 王子はふと、優貴との花火大会の約束を思い出した。

 彼は同い年だが、それも大人の嘘と同じくらい実現にはほど遠い話に思える。

 多分、生きる先に死しか見えない自分の前で、何か希望になりそうな話題をと思って出したのだろう。

 非現実的すぎて、すぐに気休めの言葉だとわかってしまい、納得して頷くことはできなかった。

 重い溜息が出たものの、待っても待っても教育係は現れず、上の階では随分大きな話し声が聞こえた。三階だろうか。

 様子を見ようと王子が廊下に出ると、声はよりはっきり聞こえた。どうやらフェレナードと優貴のようだ。二人の会話は耳をそばだてなくても聞き取れた。


「そんなに長い時間じゃないよ! 一時間とか、せいぜい二時間くらいだって!」

「その一、二時間の間に何も起こらない保証はないよ」

「心配ならインティスがついてくればいいじゃん! 護衛だろ!」

「彼はまだ、一人でそっちにやれるほど日本語を自由に操れない」

「だったらっ……」


 フェレが来ればいいじゃないか、と言おうとして、優貴が言葉に詰まった。彼は今文献の解読中なのだ。


「……けど、一、二時間くらい……」


 漏れた言葉はしっかりと聞こえたようで、フェレナードが優貴を睨む。

 鋭い視線に萎縮してしまい、こっちに来たっていいのに、までは続かなかった。

 言い争うイメージのない二人が、一体何を口論しているのだろう。

 王子は不思議に思い、気付かれないよう階段の途中まで上がって二人の会話の続きを待った。


「王子と約束したんだ。今月の、うちの高校の文化祭の最終日の花火大会に一緒に行くって」


 優貴の言葉に王子ははっとした。まさにこの間の約束を、彼は実現させようとしているのだ。


「言ってるだろ、許可は出せない」

「結構落ち込んでたから、元気出ると思うんだけど……」

「何度も言わせるな。王子の外出は許可しない」

「うぅ……」


 突き放すような言葉に、優貴の落胆の溜息が聞こえた。


「王子の勉強の時間が過ぎているから、もう失礼するよ」


 フェレナードがそう言ってラウンジの扉を開けたので、王子は急いで自室に引き返した。

 そっと部屋に滑り込んで、ベッドに飛び乗る。

 実年齢よりも遙かに小さくなった自分の手の平を見て、王子は目を細めた。

 どんどん子供の姿に戻っている。フェレナードはこの呪いを解くために協力してくれているが、多分もう助からないだろうと自分は思っていた。

 このまま体ばかり幼くなったら、最期はどうなってしまうのか。意識は保たれているのか、どのようにこの世界から消えていくのか、想像すると息が詰まって、呼吸が苦しくなるのがわかる。

 けれど、消滅の瞬間はきっと痛くはないのだろう。苦しくもないような気がする。あっと思った時には、自分という存在がなくなっているのだと思いたかった。

 呪われた王家の人間は短命であることが多い中、国王である父親はまだ生きているが、それでも呪いによって苦しむ姿を何度も見て来た。そうやって生き続けるよりは楽なのではないか、楽であって欲しいと考えてしまう。

 父親が今日まで存命なのは歴代の国王としては稀で、呪いは対象によって違う。彼は時折体調を崩す程度で済んでいるだけで、それは后の献身的な付き添いによるものだと王子は思う。大抵は苦しさのあまり、自ら死を選ぶことが多いのだ。

 だから、幼かった自分に希望ばかりを吹き込んだ召使いたちも、最初からこの命は長続きしないと思っていたのだろう。体調を崩した自分に対し、良くなったら外に出かけようといいことばかり言って、その時になると知らん顔をした連中。

 この世界には自分の命など助からないと思っている人間と、気にもかけない、もしくは自分のことなど知らない人間が大多数で、本当に助かって欲しいと思っている人間はごくごく一握りしかいないのだとずっと思っていた。

 そして、その一握りの中の人間として、新たに優貴の顔が浮かぶ。


「…………っ」


 助からなかったとしても、彼が約束を果たそうとしてくれていたことだけは忘れないでいようと思った。


「遅くなってしまってすみません、……王子?」


 扉を開けたフェレナードは、部屋に入るなり王子がベッドの上でうずくまっているのを見て、思わず声をかけた。


「おそいよ~! ねむくなっちゃう」

「これは失礼しました」


 がばっと起き上がった王子に、フェレナードが苦笑混じりに答える。

 前回の続きを、と言って、彼は本棚から出した天文学の分厚い教書を開いた。

 これから読むところを自ら示そうと、指でさそうとして視界に入る幼い手。

 こんなに小さいのに、いずれは死んでしまうのに、それでも彼は自分に勉強を教えることをやめない。

 それは、自分とは違って諦めていないからだ。


「……いかがなさいました?」

「ううん、なんでもない。今日はここからだよ。ちっちゃくなっても、ちゃんとおぼえてた」

「それは良かったです」

「もっとほめてよぉ」

「はいはい」


 王子が頬を膨らませて拗ねるので、フェレナードは困ったように笑った。

 さらさらと流れる銀の髪が、いつになく眩しく見える。

 そう、彼はまだ諦めていないのだ。

 死んでしまうとしても記憶に留めておきたい。

 生き長らえさせてくれようとしている数少ない人間である、彼のことも。

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