愛する女性の行方

一宮 沙耶

第1話 逃亡

「紗世、辛いと思うが、早く逃げよう。早ければ早いほど、警察に見つかる可能性は低くなる。」


 山梨の雪が積もる山の林道を、私は警察から逃げている。それも、元カレを殺害した男性と。林道は、車も通れる、それなりに整備されている道のはずだけど、昨晩、降り積もった雪が15cmぐらいあって歩きづらいし、寒くて手がかじかんでいる。


 坂を登ること自体、大変なんだけど、雪はまだ積もったばかりで凍っていないから、滑らないのはありがたいと思った。でも、雪が靴の中に染み込み、もう足の感覚はない。本当にこのまま歩き続けられるんだろうか。


 登山道ではないけど、林道の両脇は、雪がのった枝ばかりで葉は全くない、寒々しい木々しか見えない。今は雪は降ってないので、枝の上の雪は、陽を浴びてキラキラと輝き、私たちを、こちらの世界にようこそと誘っているように見えた。


 でも、寒々しい風景には違いないわね。私たちの、今の状況のように。あまり、将来に期待しない方がいい。そっちの方が、後で裏切られないから。


「もう少しで、知り合いのおじいさんの家がある。もうすぐだから、頑張ろう。」


 私の横にいる裕司からは、山の中腹に、自給自足で暮らしているおじいさんの家があると聞いている。その家が、私には、どういう所なのかはわからないけど、今は、そこしか逃げる場所がない。


 明日も降る予定の雪が、私たちの足跡を消してくれるはず。そして、春には、雪も溶け、私たちの匂いの痕跡も洗い流してくれるはず。


 裕司が、登山で下山するときに、何気に声をかけたのをきっかけに、そのおじいさんとは仲良くなったらしいの。そのおじいさんは、ほとんど人と接しないし、電気も通じてないから外から情報が入ってこない。だから、私たちが逃げていることも知らないって。


 おじいさんは、昔は、それなりに成功して、お金はかなり持っているんだって。だから、自給自足と言っても、1ヶ月に1回ぐらい街に出て、お米とか買い出しをして、あとは、野菜とかを育て、周りの木を切って作った薪で火をおこして生活をしているとか。


 おじいさんに何があったのかは知らない。でも、この人なら、裕司が言うには、私たちを受け入れてくれるし、おじいさんの家が警察に見つかる可能性は低い。そう期待して、一面、雪で覆われた、この道を逃げている。


 2時間ぐらい経った頃かな、裕司が、おじいさんの家を指さしていた。


「ついたぞ。大変だったろう。」

「ここね。」


「すみません。岩佐です。おじいさん、いますか?」

「あ、岩佐さん。こんな雪の中、どうしたんだ。」

「東京での暮らしに嫌気がさして、そんなときにおじいさんのことを思い出し、ここで暮らしたいって思って来てしまったんです。」

「そんな急に。まあ、寒いし、家にお入りなさい。彼女さん、辛そうじゃないか。」

「ありがとうございます。」


 おじいさんは、私たちの事情には触れず、温かいけんちん汁を出してくれた。凍りついた手は、急に暖かい囲炉裏の火を浴びて充血しているみたいで痛い。


 部屋を見渡すと、家具とかはほとんど何もない男の1人暮らしって感じ。囲炉裏を囲む板張りの床の部屋と、布団をひいた小さな畳の和室があって、外には、屋根の軒先の下に薪で沸かすお風呂があると話していた。


 家の柱は、柱と言えるか怪しいもので、蹴飛ばすと、家自体が崩壊しちゃうんじゃないかってぐらいボロボロ。


 ここに3人で暮らせるのかな。裕司とはすでに一緒に暮らしていたし、おじいさんも年齢からは女性の裸とか興味なさそうだし、女性として暮らすことには不安はないわ。


 でも、加えて2人が寝る場所は、あまりなさそうだし、そもそも、3人分の食料とか確保できるの? そうは言っても、ここで暮らすしかない。


「岩佐さんのお願いなら、ここで一緒に暮らしてもいいが、こんな若いお嬢さんは暮らせるかな。都会の快適な家に住んでた人が、そんなに簡単に暮らせる場所じゃないが。」

「こいつも、いじめとかいろいろあって、もう都会には戻りたくないって思ってるんです。だから、ご迷惑かと思いますが、ご一緒させてください。」


 私たちの山での生活は始まった。3ヶ月ぐらい経って、雪も溶けた頃、周りの木を切り、小さいながらも、おじいさんの家の横にログハウスを作り、2人の暮らしができるようになった。


 こんな、電気もないところで暮らす方法は、おじいさんから教わったの。井戸から水を汲む方法、田畑を耕す方法、囲炉裏で料理をする方法とか。でも、街への買い出しで、いろいろな物を買えるのは助かった。包丁とか、鍋とか、灯油とか、ファイヤースターターとか。


 そして、ログハウスを作った頃には、なんとか2人で暮らせるようになってきた。


「私は、もう年で、あと何年生きられるかわからない。そんな状況で寂しいと思っていた時に、岩佐さんとお嬢さんが来てくれて、本当に楽しい日々を過ごせているんだ。ありがとう。」

「こちらこそ、急に押しかけてしまって、すみません。それを、何も言わずに受け入れてくれたおじいさんには、本当に感謝しています。これからも、何かあったら、私たちでおじいさんのお世話をしますので、言ってください。」

「本当に、ありがたい話だ。」


 こんな会話をした日の夜、布団で寝ようとしてると、裕司が話しかけてきたの。


「そろそろ、あのおじいさんがいなくても暮らせるな。」

「どういうこと?」

「あのおじいさんには、消えてもらおうということだよ。」

「でも、こんなによくしてくれたのに・・・。」

「あのおじいさん、最近は、足腰も弱ってるだろう。いずれ、俺たちが介護をするなんてことになったら足でまといだ。」

「そうは言っても、今、殺さなくても。」

「いや、タイミングが重要なんだ。」


 裕司は、そう言って、首を絞める縄を持って、おじいさんの家に向かった。うめき声が聞こえ、私は耳を塞いだ。裕司に呼ばれていくと、苦しんだ顔のおじいさんが私を睨んでいるように見えた。そして、近くの山中に穴を掘り、遺体を2人で埋めた。


 今は、遺体が埋められた、この山で、裕司と2人で暮らしてる。2人が生きていくための野菜作りとかをしながら。でも、ここなら警察に捕まらずに、自由に生きていける。


 そして、おじいさんの家に入らなくても生活できるように、お風呂の桶と釜を私たちのログハウスの横に移し、薪でお風呂を炊けるようにした。


 さらに、おじいさんの家は、使えるものは取り除いて壊し、消化器を5つほど買ったうえで、延焼しないように注意して焼いた。


 これで、おじいさんが生きていた証は何もなくなったわ。でも、暗くなると、おじいさんの影が見えるような気がして、いつも、寒気がし、恐怖に怯えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る